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音無し姫の子守唄  作者: 若桜モドキ
■9.甘言は囁く
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白い面影の少女

 初恋だった。

 あれは、紛れもなく男にとっての初恋だった。


 あの日些細なことで怒り狂う母から逃れた幼い彼は、屋敷の裏口から先を目指した。父を探そうとも頼ろうとも逃げ込もうと思わない。余計に母を怒らせることを、幼心に悟っていた。

 父に立ち入ってはいけないと言われ、母は絶対に近寄らない。

 だからこそ、そこを逃げ道に底を選んだのだ。

 まだ五歳になったばかりの子供でも、夫婦関係が冷え切っているのはわかった。そもそも二人が一緒にいるところを、夫婦らしい姿をしているところを、今も昔も彼は見たことがない。


 ゆえに、夫婦――大人とは、そういうものだと思った。

 思っていた。


 父が禁じた屋敷の裏手には、適度に光が入る森が広がっている。専門の庭師によって隅々まで手入れが施された、獣もいない、入って走り回ってもさほど危なくない森だ。

 一度、ここを彼は思いっきり走ってみたいと思っていた。

 だって入れるように手入れされているのに、入れないなんてもったいない。だから母から逃げるなんて口実なのだ。父を恐れて顔色をうかがう自分のために、用意した小さな言い訳。

 奥へ奥へ、どこまでも入っていく。

 広いといっても、所詮は屋敷を抱える貴族の敷地。万が一に迷子になったとしても、何とかなるだろうと子供ながらに考えていた。今から思うと無謀だったが、あの時はそう思った。

 そして、たどり着いた森の奥で彼は見てしまう。

 自分が父と呼び慕う彼が、母ではない美しい少女と共に歩いているのを。

 立ち入るなといわれた森の奥には、人目を忍ぶように立てられた、こじんまりとした一軒家があった。今から思うに、人が一人暮らすにはちょうどよさそうな規模の家だった。

 その庭と呼べる部分には椅子があり、そこに父と彼女はいる。


 白い、白い姿。


 日の光を受けてきらめく、美しい白の髪。


 いや、銀髪だったのかもしれない。

 そして日焼けという概念が存在しないような、色白の肌。


 隣に座る父に向ける笑みは子供でもわかるほどやさしく、可憐で、美しい。全体的にほっそりとしている彼女だったが一箇所、もう一つの命を抱えていることを示す膨らみが腹にある。

 当時の彼でも知っていた。

 そこに、新たな命が宿っているということを。

 こんな森の奥に、一人で隠されるように暮らしている意味は、その時はわからなかった。

 しかし成長した男は知っている。

 あの少女は、そう――少女と呼んでいい年齢のあの人は父の愛人だったのだ。自分を愛さない妻の代わりに、見知らぬ誰かの子を二人も産んだ母の代わりに、囲っていた最愛の女。


 腹の子の父親は、もちろん父だろう。

 でなければ、母にも黙って囲う意味がわからない。

 いずれ生まれるであろう子は、男にとって腹違いの兄弟と言える。

 もちろん、当時はそんなこと考えもしない。

 ただ、その美しさに見惚れて、記憶に刻み込むように見つめていた。それくらい美しく、今も男に悪夢を見せる。誘うように夢の中で彼女は微笑み、男のすべてを支配していた。


 その後、いつしか白い少女は姿を消し、代わりに父は病に倒れる。

 勝ち誇る母の姿に、彼女が何かしたのではという殺意を覚え、しかし耐えてきた。

 今、この家の実権を握るのはこの女。

 母に逆らうことは得策ではない、絵に書いた愚策だ。その行方はおろか、存在すら尋ねることができないまま二十一となり、周囲からも嘲笑交じりに捨て置かれることにもなれた頃。

 戯れに尋ねた城の中で、男はそれを見つけてしまった。

 白い髪の、とても可憐な少女を。


 真っ白いワンピースで身を包んだ少女は、どこかに移動する途中のようだった。周囲を侍女などに囲まれて、そういうものに慣れていないのだろうか、少し窮屈そうな顔をして。

 あわてて追いかけようと思ったが、距離がある。

 今から走ったところで、その行方を知ることさえ叶わないだろう。手が届かないほどに遠く見えた面影を胸に抱き、男は後ろ髪を引かれながら屋敷に戻らざるを得なかった。

 後に一人の少女が神託により、王子の花嫁として選ばれたと男は聞いた。


 その容姿は、白い髪に灰色の瞳。

 小柄で華奢な、孤児院出身の十五歳の少女。


 それを聞いた男は直感する。

 彼女こそが、あの少女の腹にいた子だと。


 娘――男にとっての妹を蹴落とした少女の容姿に、母は烈火のごとく怒り狂った。あの女は殺したはずだと、そう叫んで髪を振り乱して『それ専用』の侍女をいたぶって泣き叫んで。

 やはりあの少女に何かしらして、屋敷から追い出したのは母なのだろうか。

 まぁ、それはいい。

 孤児院にいたということは、あの少女はもういないのだろう。彼女は母の魔の手から逃れた先で瓜二つの娘を産み、そして死んでいったのか。たった一人の娘を、残す形で。

 次に思ったのは、慣れぬ城で苦悩しているに違いない娘のことだった。


 彼女は知っているのだろうか、自分が母にそっくりだと。

 貴族の隠し子であると。


 知らぬなら、今は知らぬままでいい。

 知ってしまえば、教会で育った彼女ならばきっと男を拒絶する。半分でも血がつながっていることを、きっと恐れて深い関係を結んではくれない。兄妹になどなりたくはないのだ。

 すべてを伝えるのは、この腕の中に彼女を収めた後にしよう。

 逃げられないように鎖でつなぎとめ、どこへもいけない身体にしてからだ。

 母は彼女を手に入れることに、おそらく大反対するだろう。

 ゆるさないゆるさない、そう叫ぶのが目に見える。だがもう男はためらわない。あまりうるさいようならば、母と同じ手段をとるだけ。物理的に口を封じて、ほら、死人は喋らない。


 相手となるのが、一国の王子であろうと問題はない。

 ずっと恋焦がれてきた少女が残した、同じ姿の少女を手に入れ大願を果たす。それを手に入れるためならば、何を犠牲にしてもかまわない。妹すらも捧げよう、悪魔にでも何にでも。

 ゆえに男は、母をそそのかして妹を城へ差し出した。

 同年代の少女らより大人びて育った妹を前に、すっかりやられて腑抜けになった王子からあの少女を奪い取る。所詮は成人もしていない子供、抗うことなどできはしないだろう。

 少女を手に入れればもうこちらのもの。


 今もこっそりと手入れさせてあるあの家に、今度は男が彼女を閉じ込める。


 自分だけのものにする。

 もう誰にも奪われないように、父にも奪われないように。


 そんな劣情を、男は時々もてあますことがあった。少しだけ、自分が城仕えでなくてよかったと思うほどに、それは時として抑えきれないほどに強く彼の意識を締め上げる。

 城にいればもしかすると、彼女を強引に、後先も考えず奪ってしまうかもしれない。

 そんな恐怖さえあった。

 しかしそれでは、ダメなのだ。


 愛されたい。

 あの瞳に自分だけをうつし、そして愛を囁いてほしい。


 ……いや、花嫁は声を奪われているから、囁くことはできない。

 けれど身体で、愛を伝えることは叶うだろう。それがほしい、何でもほしい。その思いが強すぎて苦しい時には、男は華やかな彩りに満ちた『花町』と呼ばれる区画を訪れる。

 娼館並ぶ通りを進み、適当な店の好みの女を買うためだ。 

 何かにぶつけなければ収まらない、この激情を吐き出すために。

 その日、男が買ったのは自分と同い年の娼婦。

 白に近い金色の髪を、長く長く伸ばした妖艶な女だった。

 体格は似ても似つかないが、あの髪色に近い女が他にいなかったから仕方がない。

 それに――いずれは、この女と比べられるだけの、美しい女になるのは間違いないのだ。


「どうかなさいましたの?」


 貴族の屋敷も慣れた様子で、女がくすりと笑う。

 敷地内にある離れの自室に引っ張り込んでから、男が髪にしか触れないからだ。

 女の、全体的に色素があせた容姿を、男はしげしげと眺める。

 そこにあの、白い少女を二つ重ねる。


 少し大人びていた、記憶の底に眠る少女。

 そして――今、城にいる少女。


 髪から肩へと手を滑らせ、するりと首筋を撫でる。どこかくすぐったそうに女が身をよじらせ笑った、その仕草と声のすべてを始める合図となった。

 そのまま女をベッドへと押し倒し、男は夢想と現実の挟間にある美酒をすする。

 今、彼の腕の中にいるのは男慣れした、娼婦などではない。幼い頃、十六年前から焦がれてやまないあの白い少女だった。もうじき手に入れる、男がもっとも渇望する存在だ。

 必ず手に入れよう。

 あの白い、可憐な少女を我が物に。


「あれは――ずっと昔から、僕のモノだと決まっている」


 与えられる感覚に咽び、もだえる女にはとどかない声で、彼はつぶやく。

 あれはどんな声で泣くのか。声にならない音色を、どんな風に身体で奏でるのか。あられもない少女の姿を思い描き、空想し、己の夢をむさぼるような夜は続く。

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