侍女の噂
まもなくリードが待つ部屋、というところで、あたしの少し前を歩いていたアイシャがぴたりと足を止めた。すぐ後ろにいたあたしとシアは、不思議そうに彼女を見上げる。
「アイシャ様、どうかなさったんですか?」
「……」
静かに、と言うように唇に人差し指を当てる。
それから、彼女について静かに、足音を立てないようにそっと進んだ。数歩進んだあたりで何となくそれに気づく。アイシャが気づいて足を止めた原因、それは二人組の侍女だった。
いかにも掃除をしています、という感じに箒を手にした二人は、まだ二十代半ば。
つまり、アイシャ達とそう変わらない年齢の女性だった。
彼女らは廊下の隅で、ひそひそと何やら話をしている。それはちょうどあたし達の進行方向の途中に立っていて、目的地に進めばどうしても傍を通り過ぎるしかない。
じゃあそうすればいいのだが、アイシャの顔は険しい。
「あ、ねぇ、知ってる? あの噂」
「噂?」
「クリスティーヌ様……っていうか、二人のお子は伯爵の種じゃないっていう」
すぐそばにいるあたし達五人には気づきもしないで、二人はひそりひそり、もう出だしから不穏で下世話で趣味の悪い話をしている。片方がやけに神妙な顔をして、もう片方が心底楽しそうな顔できゃぴきゃぴとやかましく反応していた。あれでは聞いてくれと言わんばかりだ。
彼女らの話によると、セヴレス伯爵とは少し癖のある薄茶色の髪に、淡い緑の瞳の持ち主なのだそうだ。セヴレス家がそういう見目をする一族で、髪か目のどちらか必ず出るという。
彼の妻である伯爵夫人はつややかな黒髪に青い瞳をしていて、そういえば確かあたしが見かけたディオン・セヴレスもそういう見目をしていたはず。
クリスティーヌだけが瞳が灰色だったけど、彼女らの話によると夫人――母親の両親のどちらかがそういう目をしていたそうだ。つまり二人の子の誰も、父親に似ていないという。
じゃあ誰が父親なのか、という疑問の答えは彼女らも持たないようだ。
「あー、例の花嫁様もどうなんかしらねー」
びくん、とあたしの身体を無意識に震わす言葉が、侍女達の口からこぼれだした。
幸い、物音は立たなかったので、彼女らがあたしの存在に気づくことはない。
「なんかさ、すっごくひっどーい事故で一人だけ生き残ったんだって。身内には呪われた子だて引き取ってももらえなかったんだって。まぁ、喋れないんじゃお荷物だもんねぇ」
「聞いた聞いた、墓場に捨てられてたってヤツでしょ? やだコワーイ」
「殿下かわいそうよねぇ。あんなのと結婚させられるなんてさ」
「担当の侍女にならなくて、心底ホっとしたもの。呪われたくなーい」
きゃはは、とはしゃぐ彼女らの声は、セヴレス家の時よりずっと大きい。
まるであたしが『そういう子』だと、触れ回るように。
ちゃり、と聞こえたのは剣の音。
前を見るとアイシャが今にも飛び出さんとしている。
慌てて腕を掴んで止めて、首を横に降った。その顔が、どうして止めるのか、と問いかけるように歪んでいた。怒っているのだ、主に――あたしに対する数々の発言について。
それは嬉しい、けれどこらえて。
相手はきっと貴族の令嬢なのだろうし、ことを荒らげてはいけない。
さすがにこのまま通り過ぎて行く根性はないから、回り道をするしか無いだろう。ナタリアの方を見て、それを伝える。彼女もアイシャのような、悔しげな顔をしていたが頷いた。
未だ聞こえるあたしに関する、ひどい言葉。
それに背を向け、逃げようとした時だ。
「品のない侍女だこと」
そして、そんな声が聞こえる。
すべてを切り裂くような、冷たく鋭い、声が。
あたしではない、シアでもナタリア達でもない、だけど聞き覚えのある声。それはあたし達ではなく、噂話に花を咲かせている侍女らに向けられたものだった。
そっと再び様子を伺うと、そこには侍女を引き連れたクリスティーヌがいた。
その視線は、身を縮こませている二人に向けられている。
遠くだから良くは見えない、だけど優しい目はしていないだろう。声のように冷たく、凍りついたような冷めた目。彼女が釣れている侍女らも、きっと同じような目をしている。
ぱちん、と乾いた音がした。
クリスティーヌが、愛用しているらしい扇を広げた音だ。
「その口は醜い言葉を吐き出すためのものなのかしら、下劣なこと……」
「あ……く、クリスティーヌ様っ、あの、えっと」
「従えている者がこの体たらくでは、主の程度が知れますわね。恥という概念がないとはまさにこのことではないかしら。その身の程で口にしていいことの区別分別もつかないなんて」
ねぇ、とクリスティーヌが尋ねると、彼女の後ろにいる侍女達がくすくす笑う。侍女服を着ているが華やか集団による嘲笑――そう言っていい笑みは、凄みがあった。
笑われた方は見るからに悔しそうにするが、数が数だし相手も相手、黙っているしかない。
掃除を理由に、彼女らは逃げるように去っていった。
こっちに来るかも、と思ったがぜんぜん違う方向へとその姿が消えていく。
「……ところでお嬢様」
くすくす笑っていた侍女の一人が、ため息混じりに口を開く。
「あれは、フェリシアナ侯爵家の侍女ではありませんか? 服装は違いましたが、顔が」
「あら、そうだったの」
うふふ、と、いつものように口元を隠したまま、クリスティーヌは笑っている。どことなくその様子が『してやったり』という感じで、わかっていてあえて声をかけた感じがした。
その声がぴたりと止まり、彼女は扇をぱちんと閉じる。
「あまりにも下劣で品のない会話だったから、まさかフェリシアナ家の侍女だなんて思いもしなかったわ。城に上がるのだから、それにふさわしい振る舞いをすればよろしいのに」
所詮は没落する血統ね、と言い捨てて、クリスティーヌは歩き出す。
そして、ようやくあたし達は息を吐いた。
■ □ ■
――だけど、だけどおかしい。
あたしの出生のこと、家族との別れと教会で暮らしていた理由。
なんでそれを、無関係であるはずの彼女らが知っているのか。
墓場にいたことを知っているのは、そこに捨てられたことを知っているのは、捨てた張本人であるあたしの親戚と、それを拾ってくださった神父様達だけなのに。
表向きは、あたしは家族をなくしてあてもなくさまよって、教会の前で立っていたということになっている。引き取ってくれるような身内だって、一人もいないことになっている。
だから親戚に『捨てられた』ことも、神父様達しか知らない。城の中で知っているのはあたしから説明したリードやエルディクスといった、ごく一部の関係者だけにとどまっている。
表向きには、どこにでもいるような孤児というだけの存在。
少し変わった容姿をしているだけの、はいて捨てるほど存在する孤児の一人。
そのはずなのにどうして、どうして隠していること、知られないようにしてきたことを、彼女らは知ることができたのだろうか。一瞬、親戚を疑うけれど、捨てたというのはあまり褒められたことではないし、広めるならもっと美化したお涙頂戴話に加工してからのはずだ。
そっくりそのまま、ありのままに、周囲に教えるように叫ぶ彼女らは何?
クリスティーヌ達の話がもしも本当なら、彼女らはロザリーの侍女だ。ロザリーなら、教会にいた間にきいたかもしれない。可能性はある、隠すようなことでもなかったから。
彼女の家に雇われた侍女が、シアと同じ作りをしている城仕えの侍女の服を着て、あたしに関するよくない『噂』を大声で広めて触れ回る。その意図するところは、攻撃、だろうか。
彼女は、何が何でも王妃の座を手に入れるつもりのようだ。
以前からの振る舞いを思えば、それはわかりきったことだったけれど。だけどまさかこうも直接的に攻撃してくるとは思わなかった、さっきみたいにバレたら立場が悪くなるのに。
それとも侍女が勝手にしたことだと、そう切り捨てるつもりなのか。
「なんていうか、さ……とんでもないトコに、来ちゃったよね」
シアが、少し震えた声で言う。
ぎゅ、とあたしの手を握りながら。
「……お貴族様こわーい」
笑って、泣きそうな顔で笑って、それからわざとらしく震えてみせる彼女に。
あたしはたぶん、笑って頷き返せたと思う。