下世話なはなし
侍女、というのは怖いものだ。
仕事に忠実なようでいて、けれど内情はだいぶ違う。シア曰く、見た目がかわいいからと侮ってはいけないとのこと。火遊びのつもりが、煮えたぎった油を浴びた貴族は少なくない。
新人ならいざしらず、百戦錬磨のベテランは怖い。
だけど、新人はそれゆえに怖いものだ。
彼女らの暇を潰すアイテムは、彼女らを食い物にすることを企む貴族について。その口から口へと飛び交って、人の間を走る『噂』は、変異することを決して忘れないイキモノなのだ。
そう、まさにイキモノと呼んでいい。庶民の間を走るそれも恐ろしいが、城仕えの侍女となるとまるで別物だった。同じ呼び名を与えることすら、あたしはためらいそうになる。
早さも変異も、何もかも違うのだ。
元々そういうものだ、けれど創造をはるか遠く越えていく。
「面白い話をきいたのよー、ハッカちゃん」
と、砕けに砕けきった口調で話しかけてくるのは、騎士というには若干華やかな装いのミスティリエだ。肩につく程度の金髪はつややか、そしてサラサラ。香水は当然のこと、うっすらと化粧もしているし、防具を外された手には指輪があり、爪は丁寧に磨かれ整えられている。
とても剣を握っているとは思えないほど、彼女は常に着飾っていた。
思えば初対面の頃から、彼女は気さくさ全開。ご近所のお姉さんって感じ。
さすがに一緒にいたナタリアとかユリシスにそれはダメだと言われていたけど、あたしが許可した。なんていうか、彼女の態度が馴染んだ感じで、すごく居心地が良かったから。
もちろん公の場ではちゃんとしている。こういう砕けた態度になるのは、部屋でだらりとしている時だけだ。まぁ、ミスティリエの『おめかし』は、どこでもこういう感じらしいけど。
女性騎士の制服よりドレスのほうが似合うに違いない彼女は、ずいっと近くに来て。
「ハッカちゃん、殿下とついに致したんだって?」
などという言葉を、そっとあたしの耳に吹き込んだ。
……致す?
少し考え、だんだん意味を把握していく。
それはつまりあれだ、そういう行為のことをさしているのであって。
あたしと、相手はたぶんリードだろうけど、っていうか殿下ってリードのことだけど、あたし達はそういうことをする仲だとか。もしかしたら結婚前にお世継ぎかも、だとか。
そんな噂が、侍女の間でそれなりに広まっているそうだ。
「侍女の中じゃ、結構知られてる話みたい。それとなく尋ねられたけど適当にしらばっくれておいたから安心してね? で、麗しのお姫様におきましては、そこら辺に身に覚えは――」
くすくすと笑うミスティリエは、足を組み替えて。
真っ赤になっているあたしを見て、苦笑する。断言できる、顔が熱い。これで赤くなってないなら病気だ、危ない、危険が危ない。っていうかミスティリエわかってて訊いてる、これ。
「――ないみたいねぇ」
『当然です』
あたしは、チョークをいつも以上にすり減らしながら、石版に叫びをたたきつける。
文字がカクカクしているのは、それだけ怒りと羞恥が激しいということ。怒り、というよりもやっぱり恥ずかしさが強いかもしれない。どっちにしろ、ミスティリエはいい性格してる。
話を戻そう。
あたしとリードの間には、特に何もない。
そう、何もしていない。
確かに何かをしていてもおかしくはない、そう思われてもある意味仕方がないと思える生活をしているとは思う。毎日同じベッドで眠っているし、昼寝にもお付き合いしている。
互いに仕事などをしている時間以外は、いつも一緒と言っていい。傍目にはもう、結婚前から新婚って感じに見えないこともないだろう。からかわれても、まぁ、仕方がないはずだ。
でも何もしてない。
キスだって、あの夜に、あたしからしたのが最後だ。あの夜のあれは、もしかすると寝ぼけてたあたしの願望が見せた夢だったんじゃないかと思うぐらい、本当に何もない。
あと半年かそこらで結婚する、婚約関係にあるとは思えないほどに清らかな関係だ。
だというのに、とんだ噂が流れたものだ。
「何もない――ってことは、意外とウブなのかしらね、殿下って」
それとも順序を大事にする方なのかしら、と笑うミスティリエ。
口調は、まるでできの悪い弟に対するもののようだ。
なんとなく、そういうところがエルディクスに似ているなぁ、と思う。まだそんなに交流はないだろうけど、間違いなくリードは彼女を苦手だと感じるはずだ。
もしマツリがこの世界にいなくて、ミスティリエとエルディクスが結婚していたら。
……すごく、リードがかわいそうになったので、想像するのをやめた。
どうやっても二人掛かりでおちゃくられ、遊ばれる姿しか想像できない。悔しそうな顔をしつつも何も言い返せず涙目になっているリードを、あたしは思考の横へそっと追い出す。
あったかもしれない未来より、今は直面する現実の方が重要だ。
さすがに、ないことだらけの下世話な噂を野放しにはしたくない。
『そういう噂って、どうすればいいんだろう』
「……なかなか、消えませんよ」
ぱたん、と本を閉じる音。
もう一人の騎士、アイシャだ。
全体的に髪は長く、こげ茶の前髪の奥には同じ色合いの瞳がある。時々、前は見えているんだろうかと思うくらい前髪が長いけれど、転んだりはしていないから大丈夫そうだ。
彼女は読んでいた本をひざに置き、続ける。
「ヒトは、噂話が大好きですから。……過激であるほど、燃え上がる的に」
「そのうち寵愛される愛人がいる、なんて噂も流れるかもね。でも気にしちゃメーよ」
なでなで、とミスティリエはあたしの頭を撫でた。
気になんてしない。
リードが彼女らに見向きもしないのは知っているし、信じているから。
「姫様、午後の予定についてですが」
そこにやってきたのはナタリアだ。
彼女には、シアの代わりにリードのところに向かってもらっていた。
前はシアが昼前に訪ねに行ってくれてたけど、最近はナタリア達にまかせている。運悪く令嬢が群がってる時だったら、侍女でしかないシアではとても近寄れないからだ。ナタリア達は貴族だし剣を装備した騎士だしで、彼女らもすすっと道を開けるという、見てみたい。
「今日もいつものように、とのことです」
『ありがと、ナタリア』
いつものように、とはつまり一緒に食べてそれからお昼寝に洒落込むということだ。外を歩き回ったりしないらしい。食べてすぐに寝るのは身体に悪いけど、疲れてるんだろうな。
だったらあたしは、ちょっと甘やかす係だ。
もしかすると、あたしはそのまま執務室にいるかもしれないし。それなら、リードについてる騎士がいるから、彼女らも少しは休息できるかもしれない。
いくら望みに望んだ職場とはいえ、やっぱり人間には休みが必要だしね。
『あっちについたら、休憩に入っていいよ』
「……お心遣い、感謝します。ちょうど他の女性騎士に訓練場に誘われていたので」
ナタリアがうれしそうに笑う。せっかくの休みなのに訓練所に行きたいというのは、なんと言うか、すごくナタリアらしいと思う。あたしも同じようにがんばらなきゃ、って感じだ。
ちなみにミスティリエは本人曰く、どこかで適当に休むのだとか。なんか面白そうな噂とか拾っておくわね、などといっているけど、ごめんなさいそれだけは勘弁してください。
残るアイシャは図書室で読書らしい。
武術のみならず頭脳も優れている彼女は、ナタリアとは違った意味で男だったらと言われながら育ったのだそうだ。学者とか頭の良さが勝負の職業って、もれなく女性は少数だから。
そこら辺も何とかしないとな、とリードは言っているから期待してもらいたい。
せっかくなので、アイシャお勧めの本を借りてきてもらうことにした。前にもお勧めのを読ませてもらったけどすごく面白かったので、ひっそりと彼女のチョイスに期待する。
こうしてみると、実に『らしい』時間の使い方だな、とあたしは思う。