手紙
渡り廊下から離れて、自分の部屋に向かう途中。
もうすぐ階段かな、というところに差し掛かった時だった。
「早く答えなさい!」
思わずびくりとしながら足を止め、ナタリアが腰の剣に手を伸ばすほどの、焦るような怒鳴り声が響いたのは。今の声、あたしの記憶力が確かなら、クリスティーヌだと思うんだけど。
彼女にしては珍しい、文字通り叫ぶような声音だったように思う。
ロザリー相手に言い返した声でもなく、口元を隠しながら綴るあの声でもない。
「あえて言うなら、年頃の少女……という感じでしょうか」
ナタリアが小さな声でつぶやき、あたしとシアは、あぁ、という顔をした。
ならこれが彼女の本来の声音、なのだろうか。
いや、まだクリスティーヌだって決まったわけじゃないんだけど。だけどあたしの耳には彼女の声として聞こえてきたし、どちらにせよこんなところで叫ぶとなると尋常ではない。
ナタリアを先頭に、そっと声がする方向へ進む。
一応、何があったのか確かめないといけない、という大義名分を引きずって。
ほら……ここは、一応お城だから。
あまりにも鬼気迫るような声がしたから、ちょっと確認しなきゃいけない。何かあったならどうにかしなきゃいけないし。そんな内容の大義名分は、こっそり聞き耳を立てる理由だ。
「お父様の様子はどうなの。お薬はちゃんと飲んでいらっしゃるの?」
階段ホールから少し離れた廊下のすみに、声の主――クリスティーヌはこちらに背を向けるように立っていた。その前には見慣れぬ服を着た、少し小太りの、たぶん若くはない女性。
さっきから怒鳴っている相手というのは、どうやらあの女性らしい。
実家からの使いではないでしょうか、と様子をうかがっていたナタリアがつぶやいた。城に来ている候補達はいつでも実家に帰っていいけれど、今のところ帰った子はいない。
代わりに、実家から使いの――だいたい侍女が頻繁に通っているという。
貴族が各々に雇っている侍女の服は家ごとに異なり、紛らわしいという理由から城仕えの制服とはひと目で違うとわかるようにしてあるという。だから見覚えもない服装だったのか。
女性はひどく落ち着いた様子で、淡々と言葉を返す。
「旦那様はお元気ですわ、お嬢様」
「そ、そう……」
「こちらの手紙を、お嬢様に届けてほしいと申されましたので、わたくしが参りました」
女性は白い封筒を差し出し、クリスティーヌはそれを受け取る。
クリスティーヌは、それを手に立ち尽くしているようだった。
背を向けているからわからないけれど、封を開けている感じの動きは見えない。彼女は結局その手紙を胸に押し当てるようにするだけで、肩を大きく上下させた。
息を吸って、吐いたようだった。
「もう行っていいわ。ご苦労様」
その声にはピリピリしたところはなく、暖かさと優しさにあふれている。
よほど『お父様』からの手紙が、うれしくてたまらないのだろう。あんな声を出せるのかと思ったのは、たぶんあたしだけじゃないと思う。ちらりと見たシアも驚いた顔をしていたし。
「かしこまりました。――それと、奥様よりご伝言を」
一礼した女性は淡々と告げる。
「己の使命を忘れずに。必ずや大願成就させよ、と」
女性が最後に残した言葉に、クリスティーヌの身体がびくりと震えた。さっきまでの暖かくて幸せそうな雰囲気が、一瞬で消えてしまうのが離れていてもわかる。
そんな彼女の様子など気にも留めず、女性は去った。
背中しか見えていなくても様子が変わったのがわかるのに、すぐ目の前にいて気づかないなんてことあるんだろうか。……あるいは、いつものこと、とか?
奥様、というのが前に話に聞いた人だろう。確か名前はヴィオラ、だったような。大願成就だとか使命を忘れるなとか、なかなかこう、重苦しい言葉を娘に投げかける人みたいだ。
残されたクリスティーヌは、例の女性がいなくなるのを待ったかのように、その姿が廊下の向こうへ消えた後、そっと手紙の封を切った。びりびり、と小さな音は、丁寧さを伝える。
あんなに喜んでいた手紙を、開封するその様子に喜びはない。
がっくりと、気落ちしてうなだれているようにも見える。
「……お父様」
祈るような声は、泣いているようだった。
だけど優しい、不思議な声。
……さて、ここまできて、あたしは少しというには大きい『迷い』が芽生えてきた。
覗き見というのはよくないし、大義名分も即死したわけだし、気づかれないうちにそっと去った方がいいんじゃないかと思った。気づかれたら面倒だ、絶対に面倒だ。
でも気にはなる。
大願成就という言葉はどうせ王妃の座の奪取だろうけど、わざわざ尋ねてきた実家からの使いに真っ先に尋ねるほど、かのセヴレス伯爵の体調は、悪化しているのだろうか。
少しリードと、話をしたほうがいいかもしれない。
■ □ ■
手紙を読み終えたクリスティーヌをその場に残し、回り道をするようにあたし達は部屋の近くまで戻ってきていた。まわりみちのおかげで、普段見ないものが見れてよかった、けど。
あたしはやっぱり、クリスティーヌの様子が気になって仕方がない。
セヴレス伯爵、そんなに病が重いならお見舞いとか、やっぱりした方がいいんじゃないだろうか。確かリードの教育係をしていた方だし、恩義があるのだから見舞う理由にはなる。
クリスティーヌの気落ちした様子といい、もしかして彼女は好きで来ているわけじゃないのかもしれない。これは、あたしの都合のいい考えかもしれないけど、なんかおかしい。
しかし材料が足りないままに思考を巡らせても、答えなんて見えなかった。
見えたところで、あたしにはどうにもできないことかもしれないけど。
「……それにしても」
と、不意に口を開いたのはナタリアだ。
ずっと静かでいたせいだろう、話題を振る声は明るい。
「ずいぶんと、彼女は父君を好いていらっしゃるようですね」
その言葉にあたしは、そしてシアも小さくうなづき、同意を返す。
最後に聞こえた『お父様』と呼ぶ声。祈るような泣くような、なんとも言えない声。あんな声をあたしはたぶん、聞いたことがないと思う。あぁ、でも近い声は……聞いた、ような。
誰だっけ、誰の声だっけ。
少し考えて、マツリの姿が脳裏に浮かぶ。そうだ、あれに似た声をマツリが口にしていたことがある。エルディクスの名前を呼ぶ、優しくてくすぐったい声。
でも、あれじゃまるで。
彼女が、好き、なのではないかと。
いや、いやいやいや。ないない、それはさすがにない。
だって、血のつながった親子だよ。さすがによくないしありえない。いくらなんでも突飛すぎたあたしはバカだ。もしもそうなら一大事だ、とんでもない大騒ぎになりかねない。
百歩譲ってクリスティーヌがそうだったとしても、たぶん片思いだ。
いい年の大人がそんな、まさかまさか。
ぶんぶんぶん、と頭を左右に振って浮かんでくるくだらない妄想を追い出す。ちょっと悩ましげな声を聞いただけで、なんていうことを考えたんだ、マツリのせいかな、あの二人、以前よりは落ち着いたとはいえ相変わらずの新婚状態で、どうしても色恋沙汰に脳が動いていく。
くらりとするくらい振って、やっと落ち着いた。
ひどいことを考えてしまった、口に出せなくてよかった。
――あぁ、だけど。
少しだけうらやましい、ような気がした。
あの時、あたしには彼女がどんな表情をしていたのか、背中を向けられていたから当然見ることはできなかったけど。でもクリスティーヌが、幸せな顔をしていたのは間違いない。
だからこその、あの声だ。
そこにあるのは誰かを思う心に違いない。
それほど、誰かをまっすぐに考えて思うことが、うらやましい。
「ハッカ、大丈夫?」
ぽん、とシアに肩をたたかれる。
少し前を歩くナタリアが、足を止めて振り返った。
「やはり、私用でお待たせしたのが……」
『平気、大丈夫』
申し訳なさそうにする彼女に、少し乱れた文字で声を伝える。
そう、これは誰かのせいじゃない、あえていうならあたしのせい。
あたしは、心の底から誰かの名前を呼ぶことがあるのだろうか。誰かのことを、自分以外の誰かを、心から強く『思う』ことができるのだろうか。そんな日が来るのか、できるのか。
声が出る出ないは、この際問題じゃない。
出せるくらいに思えるのか、それがわからない。
あぁ、もっと簡単にしようか。
あたしはこのまま、流されるようにリードと一緒にいていいのだろうか。神託にすがって流されるまま、漂うままで、自分の意志を出さないで、育てないで――それで、いいのかな。
マツリは自分の思いを育てて花にした、エルディクスと一緒に愛でる花はきっと綺麗に咲いているんだろう。あたしとリードにはない花を、あの二人は慈しんでいる。
ああなれるのかな、あたしと彼は。
「……」
あたしはひとつ息を吐き出し、思考からすべての問題を撤去した。
まだ大丈夫、時間はあると、自分に言い聞かせながら。