愛する彼女のために
――夕食の時間も終わり、すでに夜も深まった頃。
静寂が支配する屋敷の中に、彼女の声はよく響くと改めて思う。
ぱらり、と本のページをめくりながら、男はその会話を聞いていた。
『ですが私は……』
『口答えをするのですか。卑しい生まれの分際で!』
声の主は、彼の妻と娘だった。男と同年代の妻と、婚礼するのに適した年齢に達している美しい娘。我が子を徹底的に教育してきた妻は、彼女を若い王子の妻にすえようとしている。
最低でも王の寵愛を、と。
幸い――と、言うのもあんまりだが、王族の直系は現在、王子ただ一人だ。一夫一妻というこの国の原則すらも、王族の断絶の危機、という言葉の前にはきっと弱々しいだろう。
彼女が娘に望んでいるのは、王子の寵愛を受け子を産むことだ。
そして、最終的には王妃――そう、彼女は願っていたのだろうと男は思っている。最近は城に行く機会も減ってしまったが、男はそれ相応の立場にいる。その娘が王子に侍るのに、さほどの問題にはならない程度には権力や人望をえている、という自負もあった。
しかし相手は、白き髪を持つ神託の花嫁。
一筋縄でいく相手ではないし、何より人気も高いそうだ。教会育ちという要素も敬虔な人々の支持を集めているという。身をおいていた教会が、まっとうなものだったのも幸いした。
長らく病で臥せっている男は実際に会ったことは無かったが、花嫁の姿を見たことがあるという娘が微妙な言い回しで一応褒めてはいた。怖気がするほど綺麗、という言葉だったが。
ライバル、という関係上、あまり直接褒めたくはないのだろう。
それにうっかり母に聞かれれば後が怖い、とでも思ったのかもしれない。
男の妻は、とにかく野心が深かった。
そこまでやるなら、自分ではなくどこかの公爵に嫁げばよかったのに、と思うほど。常々蔑み見下すような爵位しか無い男に、政略とはいえ嫁いできたというその心理は未だ読めない。
こちらにはそれなりの財力があり、あちらは爵位は高いが没落寸前だった。
単純に、そういうことなのかもしれない。
そんな妻は、二人の我が子に対する期待が尋常ではなかった。特に、贔屓ともいえるほど溺愛する自慢の息子が、今だ城の中でこれという役職を得ていないのは屈辱だろう。
息子より三つ四つほど年下のライアード公爵家の嫡男など、成人前から王子の側近だ。その従兄弟も騎士として王子に使え、今は王妃となる少女の護衛に当たっているという。どちらも将来は約束されたと言い切っていいほどで、ほかも年下が役職を得ることが増えてきている。
だが、しかし。
夫妻の長男は捨てられたように、忘れられたようにされていた。
――本当ならば王子の側近は、うちの子がなるはずだったのに!
そう泣き叫んで、数日寝込んだ妻は、やはり異常なのかもしれない。そんな妻の姿は、男にとってはあまりに見慣れてしまったので、仕方ないと流してしまうのみだが。
そんな風に、妻を冷め切った目と感覚で扱う彼に、声を聞かれているとも知らず。
『いいですか! お前は、王族にふさわしい娘に育てたつもりですよ!』
娘への怒りの声は、屋敷の中に響き渡っていた。
王子にもつれなくされ、さらにその側近にも相手にされず。
いい加減帰れ、とそれとなく言われ、娘は滞在していた城から戻ってきた。当然、王子との距離など詰めることもできていない。おそらく、ほとんど会えないままだったのだろう。
その報告を聞き、妻の怒りはついに爆発したらしい。
『お前は城に上がり、あの小娘を蹴落とし、王妃となるのです。愛人など生ぬるい!』
『あ、の……お、お母様、でも』
か細く震える娘の声に、男は何とも言えない気持ちになった。
助けに行きたいが、兄である息子ならともかく、自分はそれができないのだ。それをすれば余計に彼女が罵られ時に殴られ、当然のように最低限の食事を奪われてしまうこともある。
それに――助けに行きたくとも、男にそれは不可能だった。
こうして、本を読むために身体を起こすのさえ、支えなしには叶わない。
かつては騎士に名を連ね、剣を振るった身としては、情けないことこの上なかった。
彼にできることは、娘が少しでも早く解放されることと。
どこか、よい縁を得てここから離れること。
しかし王族にしか目を向けない妻がいる限り、それは叶わぬ夢となるかもしれないが。
『……はい、お母様。私はお城に参ります』
しばらくして、娘は母に何かを誓っていた。
明らかに元気を失った声に、男は胸を痛める。助けることもできず、抱きしめて慰めることもできない我が身を、ただただ恨む瞬間だ。どうしてこの腕は、身体はこうも無力なのか。
母親思いのあの子がどんな思いで、その無茶振りに必死に耐えていると思うのか。
慣れない令嬢との語らいを、母の真似をすることでこなし。
不必要な敵を作り、人知れずここで涙流すことも、妻は知りもしないだろう。
『それでいいのです。あぁ、それとなく兄の仕官についての話も通すようにね』
『はい』
『わたくしの子が役職を得ないというのは、世間的に恥ずかしいことです。いいですね?』
『はい、お母様』
人形のように、母が気に入る返事をする娘。
男は深くため息をこぼし。目を閉じる。
■ □ ■
……しばらくして、扉が小さくノックされた。
枕元にある時計を見て、あぁ、その時間かと本を閉じる。
「入りなさい」
「……はい」
ゆっくりと扉が開き、現れたのは娘だった。特別に作らせたのだろう明るい色の豪華なドレスに不釣合いな、泣きはらした目元に暗い表情を浮かべている。顔色も、よくはない。
その手には木のトレイがあって、水を注いだガラスのコップが置かれていた。
水――のように見えるが、あれは病に効く薬だ。
ああやって、水に溶かして飲ませるものだと聞いている。毎日、そろそろ眠るかという時間帯に娘が薬を届けてくれるのだ。この時間だけ、彼女はいつもの彼女に戻れる。
「お身体は大丈夫ですか、お父様」
「あぁ、問題ないよ」
――嘘だ。
本当はだんだんと、下り坂を転がるように悪化している。薬など何一つ聞いていない。しかし娘の前、そんなことを口にできるわけも無く、彼は笑顔を浮かべて見せた。
こうして笑ってやると、娘は嬉しそうにはにかむ。
自分が運ぶ薬で、父が良くなっているということが、嬉しいのだろう。
そんな優しい娘を、彼はとても愛しく思う。
「また本を? ダメです、ちゃんと寝ていないと」
「そうは言われてもね、他にやることが無い」
「病人は、寝ていてください」
「やれやれ。こわいこわい」
くすくすと笑うと、むぅ、と娘は唇を尖らせる。
普段は十八歳の伯爵令嬢、という立場にふさわしい立ち振る舞いをする娘。だがこういう時は本当に、ただの子供になってしまう。歳相応の、彼女らしい可憐さを出してくれる。
ベッドの脇にある椅子に腰掛けた娘の、その頬にそっと手を伸ばした。
「お、お父様?」
ぽぽぽ、と赤く染まっていく頬。外での彼女、特にあの母の真似をして高圧的で傲慢な姿しか知らぬものは、きっと想像もしないかわいらしい様子。
驚きから羞恥へと表情を変え、困惑へと移ろうのを見るのは楽しい。
からかっているわけではないのだが、この表情の変化がかわいらしいのだ。
とはいえ、やりすぎると怒るので、適度なところで手を引っ込める。
「うぅ……」
「ごめんごめん。あんまりかわいいから、ついね」
「か、かわいいとか……私、もう大人ですから」
ぷいっとそっぽ向く娘は十八、成人と呼んでいい年齢だ。妻のやる気と目的はともかくとして、今すぐにでも嫁いでしまうこともできる。そういう年齢なのだと、時々感慨深くなる。
この笑顔を、失うのはまだ惜しいと、男は思った。
けれど、幸せになるためにも、早くここから離れるべきだとも思う。
ゆえに彼は、言うのだ。
「彼女の言うとおり、明日からは城で、王子の傍にいなさい」
微塵も、心に無いことを。
心から望んでいるかのように、笑みを浮かべて。
「……お父様も、そう言うのですね」
「王子の傍なら安泰だからね。お前の幸せのためなんだよ」
トレイからコップを取り、男は呟く。
どこか、自分自身に言い聞かせるような気持ちがあった。
そうするべきという自分と、手元から話したくないと叫ぶ自分。身を引き裂かれる、というのはこういう気持ちのことなのかもしれない。それしかないと知りながら、やはりつらい。
男がいざコップに口をつけたところで、こちらをじっとみる娘の視線に気づいた。
不安に彩られた表情をする彼女の、頭をそっと撫でてやる。
「いいからもう休みなさい。明日から、また城に上がるのだから」
「……はい」
「殿下は少々子供だが、お前なら大丈夫だよ」
そう、何があっても彼が相手ならば、とりあえず問題は無いだろう。たとえ本人が望まなかったとしても、彼ならば娘に対してひどい扱いはしないはずだ。
そんな風に男は王子を教育していない。
「何の心配も要らないから、彼にすべて任せなさい。おやすみ、また明日」
「はい……お父様」
おやすみなさい、と娘はトレイを抱えて、立ち上がった。
父が気になるのだろうか、何度か振り返って、いつもより時間をかけて部屋を出て行く。
小さく手を振れば、安心したように微笑み、そして部屋には男だけが残った。
「さて……あいつの故郷の『ことわざ』では、これをなんと言うのかな」
呟き、そして男はコップの中身を一気に飲み干す。苦い薬品の味に、舌が感覚を失うようにしびれた。何度となく飲んだ薬だが、やはりこの味は気に入らない、慣れそうにはない。
次第に元に戻る口内。
それに反し、徐々に鈍くなっていく意識。
その中で思い浮かべたのはかつて、彼の傍にいたある青年の姿。失って久しい友人は、今の自分を見たらどういう反応をしてくれるだろうか。笑うか、怒るか……後者だろうか。
正義感の強い、騎士になるべき男だった。
何かしらしてくれただろうが――だからこそ、彼は早く逝ってしまったのだろう。自分を叱り飛ばす懐かしい光景に、彼は小さく、誰も聞こえないようなため息をこぼし。
「毒を食らわば皿まで――だったか」
いや違ったかな、と、肩を揺らし笑っていた。
■ □ ■
ここは貴族の屋敷が立ち並ぶ、高級住宅街のとある邸宅。
この屋敷の家主であり、今は病床にいることになっている男。だいぶ肉が削げて痩せたというよりやつれてしまった彼の名は、ネディカ――ネディカ・セヴレスといった。
彼は求められるままに、与えられるその液体を飲み干し続ける。
この手に入れることの叶わぬ、その幸せを祈るばかりの――最も愛する彼女のために。