あるべき場所に落ちる音
あれから夕方まで仕事をし、夕食後からも仕事をした。
王の代替わりが近いこともあってか、やはりいろんな仕事がリードに任されるようになってきている。それにしたって多すぎだと思っていると、理由が見え隠れするのに気づいた。
今、こなしている仕事は、一週間ほどで落ち着く計算だ。
その頃に、城にやってくるのだ。
誰が――と問うまでも無い。
リードの寵愛を得るべく送り込まれる、貴族令嬢の集団である。
それとなく貴族との会話の端々に出てくるので、嫌でも意識が向くものだ。正直なところ永遠に忘れていたかったが、そうもいかない。迎撃しなければならない、彼女らは『敵』だ。
そもそも、マツリへの当たり方からしていい印象はなく、もし神託云々がなければどうやって逃げようかと、そればかり考えていただろう。正直、今も気乗りはしない。
立て続けに仕事が回ってきたのは、おそらく少しでもやるべきことを多く片付けて時間を確保するためだ。それはハッカとの交流ではなく、令嬢らとの逢瀬のためである。
そんなこんなでやる気も出ない仕事を終え、彼が部屋に戻ったのは夜中近い時間帯だった。
風呂は朝早くにし、もう寝てしまおうと寝室に向かうと。
「……」
ちょこん、とベッドに座って、本を読む彼女――ハッカと目が合った。
寝巻き姿の彼女は、少し眠そうな目をしている。いつもこの時間には眠っていたから、おそらく無理して起きていたのだろう。横たわったら眠気に負けるのか、身体を起こしている。
「寝ててよかったんだぞ」
上着を脱ぎながら言うと、少しだけ彼女の表情が曇ったように見えた。何か用事があるからこそ無理してまで起きていただろうに、どうしてか真っ先に文句や苦言が出てしまう。
そんな自分に自己嫌悪しつつ、寝巻きを取り出そうとして。
「……!」
ベッドから飛び降りたハッカに、服を引っ張られた。
彼女がリードを連れて行こうとする先にあるのは、浴室に続く脱衣所。
風呂に入れ、ということらしい。
「別にいいよ……今日は疲れた」
だから先に寝かしてくれと言うと、服を引く手はさらに強くなる。目が、絶対にお風呂には入れと叫ぶようだった。よっぽど風呂に入ってほしいらしく、最終的にリードは根負けする。
わかったわかった、と脱衣所に向かい服を脱ごうとした時――視線を感じる。
ゆっくり振り返ると、扉の隙間から灰色の瞳が見えた。よほど信用されていないのか。年配の侍女らが見たら卒倒しそうだが、よく考えれば彼女は孤児の中でも年長だった。
異性の裸、なんてものは見慣れたものなのかもしれない。
……もっとも、性別的に見ていたのは、一桁の年齢程度の子供だろうが。
「覗くな。ちゃんと入るから」
そういうと瞳は消え、隙間もなくなった。
しかし、扉の向こうに気配は残ったままだった。こうなるなら素直に風呂に向かっておけばよかったと、ボタンを外しながら彼が少しばかり後悔したのは言うまでもない。
魔術を使えば湯を沸かすのは楽、とはいえ手間暇がかかること。
無駄にするのは褒められたことではない、そこに考えがいかない自業自得か。
「……ん?」
いざ服を脱いで風呂に入ると、ふわりとしたいい香りに包まれた。足どころか四肢をゆったりと投げ出せるほど広い湯船には花が無数に浮かんでいて、何事かとリードはうろたえる。
そういえば、ハッカは温室に行くと聞いた。そこで何かもらってきたのかもしれない。香るのは花というよりも、そう、ハーブティに似た澄んだ香りで、気分が安らぐ感じがしてくる。
気を取り直して身体を洗おうと石鹸に目を向ければ、いつものヤツが消えていた。
見慣れない石鹸が、コレを使えとばかりに置かれている。
「これも温室で……だよな、ハーブっぽいにおいだし」
無理に風呂へ行くようハッカが行動したのは、おそらくこれが理由だろう。
どういう意図があるのかはともかく、ここはおとなしく従った方がいい。
もし、ここで湯をかぶっただけで出たりすれば、彼女が何をするか予想がつく。意地でもちゃんと風呂に入るよう、あのお転婆なお姫様は今度こそ『実力行使』に出るに違いない。
こっちが裸だろうが何だろうが、お構いなしに。
さすがにそんな珍事は避けたいリードは、軽く湯をかぶって湯船に身を沈めた。
そういえば、最近は髪や身体をさっと洗うだけで、こうしてお湯に浸かってはいなかったと思い出す。久しぶりのぬくもりは、ハーブの香りもあってか、ずいぶんと心地よかった。
■ □ ■
しばらくし、リードは風呂から上がった。
脱衣所にはいつの間にか着替えが用意されていて、身体の水分をぬぐって袖を通す。さすがに寝巻きには何もされていないようで、肌に馴染む愛用のものである。
寝室に戻ると、やっぱりハッカは起きていた。
先ほどと同じように、ベッドに座った状態で本を読んでいる。
「なぁ、あれは何なんだ?」
香りのする石鹸に、花が散らされた湯船。
どちらも男というより、女性向けのアイテムのように思えた。特に後者など、いかにもといった感じだ。いい香りもしたので和みはしたものの、いざ振り返ると若干恥ずかしくもある。
さすがにハッカが使った後の湯を、そのまま使ったとは思えない。
お湯は程よく温かく、リードが帰る時間を見計らって用意されたものだと考えられた。
つまり、あの花も石鹸も、彼に使ってもらうためのモノだろう。
ハッカは傍らにおいてあった、紙の束を手にする。
砕けてしまったあの石版の代わりにと、エルディクスが用意したものだ。重要ではない廃棄予定の書類の束で、どうせ焼却するのだからとハッカが――だいぶ無理やり奪い取って使っている。石庵と違い書いたり消したりはできないので、あまり使われるものではないが。
そこに、軸にインクを注いで使う携帯できるペンで、声が踊る。
『アロマなの』
「あろ……えっと、なんだそれ」
『マツリに教えてもらった。疲れが取れる、いい方法』
ハーブを使うの、と、ハッカは言う。
そこで思い出したのは、昼間に差し入れられたハーブティだ。あれはてっきり、マツリがエルディクスのために用意したと、そのついでだったのだと、リードは思っていたのだが。
もしかして、ハッカが何かしようとして……。
「ハーブティは、お前が?」
「……」
ハッカは、紙の束で顔を隠すようにする。
もそもそと動き、文字を綴っているようだった。
『提案したのはあたしだけど、実際に内容を決めたのはマツリ』
「でも、お前が言わなきゃ何も無かったんだろ。……そっか」
恥ずかしそうにするハッカの頭を、がしがしと撫でてやる。
少し不満そうだが、嬉しそうに彼女は目を細めた。
「ありがとな」
ぽむぽむ、と頭を軽く叩くように撫でて、リードは笑った。
ここしばらくいろいろあって疲れていたが、彼女のおかげでふっと軽くなった。
彼女は、きっと知らないのだろう。
夜遅く帰ってきた時、誰かがいる寝床に入るということの安堵感が。
リードはハッカの存在で、ずいぶんと救われていたのだ。
それゆえに、近いうちに押しかけてくる貴族令嬢が、鬱陶しいことこの上ない。これまでとは違う意味で鬱陶しく、煩わしく――何か騒動を起こして追い出せないかと願うくらいに。
公的に持つことを許された愛人?
そんなもの、リードには必要などないのだ。
誰一人としてリードの疲れに気づいたりはしないだろう。リードが疲れていようと、彼女らにはどうでもいいことなのだ。自分の夫という存在が、リードになればいいだけなのだから。
ましてや、その疲れを何とかしようとも思わないに違いない。
彼女だけいればいいのに、という、ふと浮かんだ思いを、リードは否定する。
けれど、彼女以外を必要と思わないのも事実で、自分のことなのによくわからなくなった。
「……もう寝るぞ」
訳がわからない思いにふたをするように、リードは部屋の明かりを落とす。カーテンの隙間から入り込む月明かりの中、ハッカはまだ文字を綴っていた。
まだ何か、リードに言うことがあるのだろうか。
もしかして愛人だの何だのに関する話が、やはり耳に入ってしまったのだろうか。だとしたら面倒だと思い、心配にもなり、ベッドの上に座り込む。
その揺れを合図にしたかのように、目の前にずいっと突きつけられた紙。
『あたしは子供じゃない。だから頼ってほしい。弱いところ見せてほしい』
そこには、そんな声が記されていた。
頼ってほしいといわれても、とリードは困惑した。
彼女は、彼女なりに忙しいはずだ。なにせ王族に加わるため、いろんな勉強に明け暮れていると聞いている。自覚もしているだろう、自分はまだ足りないところが多いことを。
ある意味、彼女はリードよりも多忙なはずだ。
子供でも大人でも、そこに他者の悩みを受け入れる余裕があるとは思えない。だからこそ彼女の前では普通を通して、ため息一つ零さないように気をつけていた。
少し前に尋ねられた時だって、ちゃんとごまかせたはずだった。
『あんな顔色悪いのに、誰が信じるっていうの』
走り書かれた文字にリードは思わず舌打ちをする。どうやら隠せていなかったらしい。こんなだからエルディクスにまだまだ甘いと、常々言われてしまうのだろうと自覚して。
「……まぁ、そうだな。でももう大丈夫だ」
だから寝るぞ、とリードは手を伸ばす。
今だ不満そうにむくれている、ハッカの頭を撫でるため。決してその狙いをはずすような行為でもなければ、距離でもなかった。避けられるようなことでも、なかったはずだ。
だが、彼が撫でようと思った対象を、その右手が捉えることはなく。
彼の視界に、倒れこむように自分に向かってくる、白い少女が一杯に広がった。
服を掴む指先。
ほんのりと伝わる体温、そしてかぎなれた石鹸の香り。
そして――唇に触れた柔らかいもの。
「……」
離れていった彼女は、明らかに真っ赤になっていた。
強い目でリードを睨むように見つめ、どうだ、という声が聞こえた気がする。
思い出したのは、いつかの夜の話。
子供じゃないという彼女に、思わず口付けしてしまったあの瞬間のこと。
彼女は、ハッカはこういいたいのかもしれない。
もう子供じゃない、と。
キスぐらいで混乱したり、暴れたりなんかしないんだと。
そこまで思っても、リードの身体は固まったように動かなかった。動けない、という方が正しいかもしれない。その間にもハッカは上掛けを引っ張り、リードの肩にふわりとかける。
そして、彼に抱きつくようにして、その身体をベッドに沈めた。
寝ろ、ということなのだろうか。
だがそれなら、どうして抱きついたまま、いや抱きしめたままなのだろう。
とにもかくにも離れろよ、と頭の中でリードは思う。お前は男にこんなくっついたままで眠れるのかよ、と。けれど、混乱と心地よい温もりのせいで、意識が急速に眠りへと傾いた。
何だかんだで――疲れは、確かにあったから。
なるようになれ、とリードはそのまま目を閉じる。
ハッカに身体を寄せると、彼女の腕の力が増したような気がした。
抱きしめられている、彼女に。
エルディクスとマツリのことで余裕を失っていた時に、ハッカにこうしてもらったことを思い出す。あの時は今より疲弊していて、誰でもいいからすがりたい気持ちだった。
でも今は違う。
彼女だからこうしてほしいと思う気持ちが、確かにあった。
ハッカ以外にはされたくないと、それだけははっきりと自覚できる。
心の中で何かがはまり込んだ、かちり、という音がした。宙に頼りなくぷかぷかと浮いていたものが、まるで落ちるように漂って、あるべき場所に収まったというような。
かすかに聞こえる優しい音は、きっと彼女の『声』なのだろう。規則的に響き、それは子守唄のように耳になじむ。とくりとくり、とそれはとても良い音がして、同時にすごく暖かい。
――この場所が、彼女が、自分の隣にいてくれたら。
そんなことを思ったのを最後に、リードは深い眠りへと沈んでいった。