二人は姉妹
朝起きると、リードがいなかった。
ここ最近、ずっと彼が隣にいるのが当たり前だったので、一人ぼっちで目が覚めるとなんだか不安になるというか、何かあったんじゃないかと思って身構えてしまう。
そこに現れたのは、いつも通りのシアだった。
「リード様は朝から会議に引きずられていったよ」
エルディクス様にね、と言いながらシアが紅茶を差し出してくる。
寝起きに渋めのお茶はいい感じに効いて、寝ぼけてた頭がじわりと浮上した。王子としていろいろすることが多いせいか、朝っぱらから呼び出されることも少なくない、のだろうか。
……目が覚めた時に誰もいなくて、ちょっとだけ寂しかったのは秘密。
でも、我慢できる。
あたしは子供じゃないから。
それに、シアが一緒にいるから寂しくもないし。ユリシスは、あたしをシアに任せ、彼についていったらしい。となると、あたしはあんまり外に出ない方がいいのかもしれないな。
特に用事も無いし、シアとのんびりとおしゃべりとしますか。
■ □ ■
着替えを終わらせる頃には、シアにより食事の準備は終わっていた。今日はリードがいないからなんだろうけれど、ちゃっかり自分の分も並べている。メニュー自体は同じらしい。
教会でしていたように少しお祈りをし、早速朝食だ。
あたしはまず、焼きたてのパンに手を伸ばす。教会でもよく食べていた、十字の切り込みの入った丸いパンは、厨房で、その日の朝に使う分だけを出す前に焼くという出来立て仕様。
だから割ると、ふわりとおいしそうな香りがあふれ出る。
パン以外は野菜たっぷりのスープ。鶏の肉や骨を使ってダシをとって、野菜の甘味と塩でさっと味をつけた、これまた実にシンプルなものだ。だけどそれが寝起きにはちょうどいい。
ほろほろになった肉も入っていて、このスープだけでもお腹が満たされる仕様だ。
それから、新鮮な野菜を使ったサラダ。
苦手だ、と前に言ったトマトはしっかりと――その上に鎮座している。
「そんな涙目にならないのー」
シアに奪われ、サラダの上から消え去ってくれた。
口にひょいと放り込み、もぐもぐと咀嚼して飲み込む。
「好き嫌いをしてはいけませんよ、ハッカさん」
シスターの口調を真似して、シアがあたしのおでこを人差し指でぐりぐりしてきた。男と言われようとも無理なものは無理だ。こればっかりは、どうやったって治らない。
だって、どうにもこうにも嫌いなんだもん。
誰が何を言ったって、それだけは食べたくないんだもん。
心の中でぼやき、あたしはオムレツに手を伸ばす。
ふわふわのオムレツには、トマトで作ったソースがかかっていた。なぜか、こういう加熱されたトマトは、平気なんだよね。とにかく、ありとあらゆる生のトマトがダメな感じで。
理由はわからないけれど、少なくとも覚えている限りかなり前から嫌いっぽい。
たぶん、一生このままだと思う。
「……」
パンをもぐもぐと噛みながら、あたしが考えるのはやっぱりリードのこと。
食事もとらずに出て行ったらしい彼は、ちゃんとご飯を食べているのだろうか。こんな朝っぱらから彼を引っ張りだすとなると、余程の案件があったのだろうとは思うけれど。
それはもしかしたら、あの一件のことなのかもしれない。
もうすぐ終わるっぽかったし、可能性はある。誘拐されたり狙われたりしたのがあたしということもあって、他の案件よりも優先して処理などをしていた感じではあったし。
あまり、無理をしてほしくはないかな。
「ハッカってさ」
あたしの向かい側に座り、紅茶を飲むシアが口を開く。
彼女はデザート代わりの焼き菓子をつまみ、にやりとした笑みを浮かべて。
「リード様のこと、好きだよね?」
思わず、口の中のモノを噴出しそうになった。
――好き?
あたしが、リードを?
いや、いやいやいや。
それは無いよ、絶対にない、ないない。
確かに、嫌いではないと思うよ。少なくとも、現状にこれという文句はないし、彼との結婚にも異議は無い。選択肢が無いというのもあるけど、別に嫌というわけじゃないんだ。
どんなに説得されても、嫌いな相手との結婚なんてイヤだから。
選択肢の幅が狭いとは思いつつも、そういう拒否感が無いってことは……たぶん、彼となら結婚していいと思える程度には嫌いじゃないはず、好きな方だとは、思う。
しかし、シアがいう好きはきっとそれじゃないんだろう。
恋愛感情という意味での好き、だ。
だけどあたしには、そこら辺のことがわからない。恋愛的な意味で好きだ嫌いだと言い切れるほどの経験が、人から離れ気味に過ごしてきたあたしには備わっていないから。
いろいろと諦めてきたこれまでの日々で、真っ先に諦めたのは恋愛だった。十歳にしては早すぎるとシアには言われたけど、どうせいつか諦めるなら早い方がいい。
ずるずると、いい年になるまで夢を見て、ボロボロになるなんてごめんだった。
ただでさえあたしは、見るも無残なボロボロ状態なんだから。
声は出ない。
出ても、性格がいいとは自分でも思わない。
性格がいいなら、多少腹が立っても、チョークなんて投げないだろうし。
愛想も……そうだな、よく笑顔じゃない、と怒られる程度には無いと思う。親の無い孤児というのもある。孤児の上に意思疎通も面倒な子を、貰ってくれる物好きはいないと思った。
これで貴族令嬢とかだったら、誰かは貰ってくれたかもしれないけどね。
まぁ、そんな感じに、あたしはまず結婚やら恋愛を諦め。当然のようにあの教会から離れることすらも、ここに来る少し前にさっくりと諦めてしまった。諦めたというか、決めたかな。
就職なんてできないだろうから、シスターになってしまおうってね。神父様は首を縦には振らなさそうだけど、だからって追い出しもしないと思う。
いつか、ちゃんと外に行くように諭しながら、傍においてくれただろう。
それが、何のイタズラなのか就職先も嫁ぎ先も見つかった。このことを神託が来る前のあたしに言ったら、鼻で笑って、証拠を見せても絶対に信じたりはしないだろうと思う。
まさかの王妃、まさかの結婚。
そして――そんな以前なら面倒としか思えないし全力で拒否したいことを、あんな騒動をくぐり抜けた先ではそれほど面倒と思っていないことも。きっと信じることはないだろう。
最初はあんなにイヤだったのに。
礼儀作法とか、マナーとか、どうでもいいって思ったのに。今じゃ特に考えずとも、自然と教わった通りにできる。笑顔はまだって感じだけど、それなりには何とかなるようになった。
だんだんと、消えていく。
イヤだって思った部分が消えてしまう。
好きになっている、のかな。
この城や、城での生活や、城にいる人々とか。
――リードのことも。
「素直じゃないなぁ」
向かい側のシアが、呆れた様子で苦笑する。お姉さんのような顔つきは、何だかあたしにもわからない部分を見透かすようで、恥ずかしいような腹立たしいような落ち着かないような。
どうせ、あたしは素直じゃないし、諦めも悪いですよ。
でも重要なこと何だから、悩むことは決して悪いとは思わない。
「でもさ、あんまり悩みすぎるのもいけないと思うよ」
さくさくといい音を立てて、焼き菓子を味わうシア。
確かに、悩みすぎて同じところをぐるぐるするのは良くない。
人間には、ここぞという思い切りも必要だ。
「んー、それもそうなんだけどさ、やっぱり時間的余裕とか……ほら、愛人? とかね」
いろいろあるっぽいし、と続く彼女の言葉に、あたしは一瞬何を言われたのか理解が追いつかなかった。少し考えて思い出した、そうだ、それがまだ残っていたんだと。
すっかり忘れていた、リードが持つことができるという愛人。
それなりに気に入っているここでの生活の、最大の難点が、そこだった。確かに、それになりたい人が名乗りを上げてきたら、あたしも今ほどゆっくりはしていられない。こっちに何かする気が微塵もないとして、しかし向こうは難癖をつけるように言ってくるだろうし。
これであたしが――例えば公爵令嬢とか、どこかのお姫様だったら。
彼女らもそう目立った行動は、たぶんしないんだろうな。あたしが、吹けば飛んでいくような孤児だから。没落したわけでもない、血筋的にはごく普通の商人夫婦の長女だから。
どうにかして出し抜けば、あたしを名ばかりの王妃にできるとか考えそうだ。
……個人的には、別にそれでもいいんだけどな。
正直、面倒だと思う気持ちがないわけではなかったりもする。容赦なく与えられ、背負わされる義務やら何やらが、重くてたまらなくて逃げ出したいことがないとは、まだ言えない。
しかし、そのせいで国が乱れるなら話は別だ。
あたしには、何もないけど、何もないなりに守りたいものがあった。
教会にいる孤児達。もしも国が乱れれば、一番被害をこうむるのは彼らだ。寄る辺のない弱い立場ほど涙を流して苦しんで、だけど弱いからこそ誰も助けてくれない。
あたしは、逃げるわけにはいかなかいのだ。
誰からも文句が出ない王妃に、あたしはならなきゃいけない。
思い出すのは、少し前は頻繁に城で見かけた令嬢の集団。あたしの誘拐騒動などで、最近はすっかり姿を見なかった。ごたごたが落ち着くまで来るなとか言われたのだろう。
今日まではそんなに気にも留めなかったけど、あぁ、そうか。
もしかして、というかやっぱり、今日で一区切りついてしまうから、か。つまり例の騒ぎのせいで宙ぶらりんになっていたものが、騒動の終焉を合図にして再開されるということだ。
シアがいうには貴族出身の侍女が数人、ここ数日の間に仕事を辞めたという。
彼女達はみんな、リードを狙っていることを隠していなかったらしい。あたしのことをあれこれ言ってはいなかったそうだけど、シアの前だから何も言わなかっただけかもな。
むしろ、隠さないことで周囲をけん制していたそうだ。
そんな彼女らが一斉に退職。
さて、何をするのかなんて考える必要も無い。
侍女服を脱ぎ捨て、きらびやかなドレスを纏って、リードの周りに侍るわけだ。公的な愛人という王子、王にのみ許された特別な存在になるために。そしてあたしを蹴落とすために。
「すでに城に来てる人もいるよ。クリスティーヌ・セヴレス伯爵令嬢とか」
その聞き覚えがある名前に、あたしは記憶を探る。
……そうだ、亡くなった王様に信頼されていた伯爵の娘。あの時、マツリにひどいことを言っていた、何とも薄気味悪い雰囲気の人だ。何を考えているのか読めない、変わった人。
あまり、お近づきにはなりたくない、かな。
でもシアの情報によると、昨日からすでに城での滞在を再開しているのだという。
相手が貴族令嬢であること、王族はリードしかいないこと、そして蜘蛛の巣とホコリまみれになっているとはいえ、それを抱えていいという一文が法律に入っているのもあって、追い出すだとか追い返すだとかの行動には取れず、ほとんど黙認状態になるだろうとのことだ。
これは前もそうだったからたぶん再開してもそうだろうっていう、まだ予想。でも予想というよりも予言だろうし、むしろただの事実をちょっと先読みしてるだけだなって思う。
そういうのを盾に城にやってくるのは、当然ながら彼女だけじゃない。
他にもたくさん、いるんだろう。
向こうは時と場合によって集団になれるけど、あたしは基本一人ぼっちだ。正直、あの集団と戦って勝てる気が、まったくもって、微塵も感じられない。いろいろ負けてるわけだし。
思わず気分が滅入り、落ち込んでため息をこぼすと。
「当然、私はいつでもハッカの味方だよ。だって――姉妹だもん」
ね、と彼女が笑い、あたしの手を握ってくる。
その柔らかい手を握り返し、優しい笑顔に笑顔を返す。
シアの笑顔は太陽みたいで、あったかくて……あたしは大好きだ。