一年越しの蜜月
平和なのはいいことだと思う。
仲のいい二人を見るのは、ここ数週間ほどのあたしの悲願だった。だから目の前でちょっとぐらいいちゃついたって、あたしは笑顔で眺められる。だって笑顔は、いいこと、だから。
けれど、いいことや笑顔には限度というものがあるんだな、と今は思う。
あたしの眼前で、当然のように行われるいちゃいちゃ。
宝物を抱きしめている彼の手がやらしいというか、不埒な動きを見せる時とか。かと思えば顔を耳元に寄せて何か怪しいことを囁いている、どことなく意味深な色を持った横顔とか。
さすがに、外出先でそれはよくないんじゃないかなって、思わないことも無い。
あぁ、でもやっぱり今のままでいいかな……とか思ったりもする。
どうせ見ているのは、あたしを含めた数人だし。
んー、だけどもう少し控えめでもいいような気も、やっぱりしないでもない感じで。嫌というよりも、何だか見ていていたたまれないっていうか……こっちが恥ずかしいっていうか。
もう二人っきりでどこかにいればいいんじゃ、とか。
ああでもないこうでもない、とあれこれ頭の中でグルグルさせていると。
「はっきり言い切れ、失せろバカップルって」
あたしと同じ方向を見ているリードが、うんざりした様子で言った。
その視線の先にいるのは、手を握り合って見詰め合うエルディクスとマツリ。
絶賛新婚モード。必要ないのにぴっとりと寄り添って、見るからに幸せそうでごちそうさまを通り越して胸焼けしそうだ。一応お仕事はちゃんとしているけど、それ以外はべったり。
状況も状況で、気持ちも気持ちだからと黙認すること数日。
マツリは完全に職場復帰を果たしていた。
王子権限でリードが押し付けたあの一週間を、エルディクスとマツリの二人がどんな風に過ごしたのかあたしは知らない。何となく予想はつかなくもないが、深く考えたくなかったり。
ただ、その表情から見て良い時間を過ごしたんだろうなぁ、と思っている。
で、帰ってきたらこれでした。
最初は静かに見守りつつ、苦笑していたリードもついに頭を抱えている。
「一軒家に二人暮らしのくせに、何で職場でもああなんだよ」
「え、そうなんですか?」
傍らでお茶の準備をしていたシアが、手を止めて聞き返す。
あぁ、と答えるリードの説明によるとさすが貴族様、なんでも両親などが暮らす本宅が建っていだだっ広い土地に、二人のためだけに一軒家をこしらえて、そこで暮らしているらしい。
掃除とかの家事全般は基本マツリがやるらしく、料理なんかは結構な腕前だとか。最初は慣れないからよく焦がしてたけど、と言った旦那さんの足に体重を載せたヒールがめり込む。
……見なかったことにしておこう。
それに何だかんだいいつつエルディクスも、愛妻の手料理が大好物らしい。ちゃんと糖分高めのフォローを入れたので、彼の足は完全に潰れる前に開放された。
「ねぇ、マツリ。今日はこの前作ってたヤツ食べたい」
「ん……じゃあ帰りに市場に寄らないと、お魚ないから」
「わかった」
ぎゅうぎゅう、と小柄なマツリを抱きしめるエルディクス。
完全に、マツリはお人形状態だ。
エルディクス一人が暴走するなら、リードは多分殴ってでも止めるんだろう。むしろ顔に殴りたい殴らせろ、という文字が浮かんで見える気がする。彼の性格からして、きっとそうだ。
ただ、マツリが幸せそうにしているからジャマできない。
なので、あたしとリードは、すぐそばで新婚状態に戻った夫婦のいちゃつきを鑑賞する仕事から逃げられないのだ。悪い光景じゃないから面倒なもので、どう止めたらいいのやら。
けど、仕方が無い。
この一年は、そもそも夫婦だったか怪しいものだから。
二人はやっと『夫婦』になった。
そう思えは、少しぐらい我慢するべきだと、あたしは思うけど。
「……はぁ」
目の前の王子様は、もう限界っぽい。
重要な書類を前にして、ぐったりとお疲れモードに入っていた。
ちらり、と見たその書類は、どうやら『例の一件』の、後始末の一部らしい。一昨日くらいに比べればずいぶんと量の減ったそれに、ようやくあたしは騒動の終焉を感じていた。
■ □ ■
とある男爵家――いや、元男爵家が起こした、とんでもない事件。今でも昨日のことのように思い出せる誘拐事件を発端にした騒動は、首謀者達を処断することで終焉を迎えていた。
男爵は最初、温情をだとかいう声があったそうだけど、神託が選んだ花嫁の誘拐と殺人を計画したことや場内を混乱に陥れたことなどを考え、極刑以外ありえないとなったという。
刑の執行はまだされていない。
……らしい。
たぶん、あたしが知ることはないと思う。表立って処刑しましたって話は、おそらくされないのだろうから。もしかしたら何かの話で聞くかもしれないけれど、その程度だ。
おそらくは何も知らなかったのだろう夫人は実家に戻され、そちらの方でいろいろ罰なり何なり与えるとか何とか。具体的な証拠がなかったから、そうなったんだろうなと思う。
その他、いろんな人に罰が与えられ、いくつかの貴族が消え去った。
男爵と何らかのつながりがあった貴族という貴族が、それぞれ相応の罰を受けた。表向きにも裏向きにも。それでこの一件はおしまいということになったのだと、一応聞かされている。
個人的に『裏向き』が気にならないでもないけど、たぶん知らない方がいいことだ。
当事者だけど、あまり深く知りたくはなかった。
空気の通りが良くなったよ、と笑ったエルディクスを見てたら、なおさらそう思う。実にいい笑顔をしていた、いっそ怖いくらいだ。あれが彼の仕事の顔なんだろう。
そして、首謀者――そういう呼称をするにはあまりにもお粗末な計画を立てた令嬢は、今は遠い異国の修道院にいるという。詳しいところは知らないけれど、そこはかなり戒律などが厳しく律しられている場所で、手の付けられない問題児すら数年で立派なレディになるそうだ。
まぁ、彼女の場合、どれだけ立派になろうとも、外に出ることは無い。
処刑代わりの幽閉ということらしい。
あの性格を思うに、今頃泣いているんじゃないだろうか。ただただひたすら神様に祈るだけの日々なのだ、華やかな世界にどっぷりと浸っていたお嬢様には、耐えられないだろう。
いっそ処刑された方がましだと、彼女はいつ思うのだろう。……思ったところで、しでかしたことは消えないし、取り消せないわけだけど。マツリの国の言葉では、そういうのを『覆水盆に返らず』というそうだ。こぼれた水はどうやっても元通りにならない、的な意味らしい。
そんな感じに騒動は終焉し、現在はその後始末の真っ最中。
処分された貴族の財産や領地をどうするか、穴埋めなどはどうやるか、いろいろ決めなきゃいけないことがある。財産は国にそのまま戻されるとして、問題は領主のない土地だ。
そこには人が住んでいるわけだから、簡単には終わらない。
早いところ領主を決めないと、というのが現在もっとも重大な問題だった。
あたしは直接関わらないし、未だに貴族とか領地とかピンとこないけど、一応それなりに話は聞かせてもらっている。とはいえ最初は、あたしなんかに教える必要はどこにも無いって流れだったらしい。当然だと思う。むしろ話をされてもちょっと困る。
ただ、当事者なら知る権利があるだろ、というリードの一言で変わったそうだ。
ちなみに、それはユリシスから聞いた話だ。
リード本人は、仏頂面で資料やらを投げるようにあたしに渡しただけだった。
見せたいのか見せたくないのか、どっちなんだと思う。
まぁ、自分が関わった事件の終わりを知らないのは、気分良くないからありがたいけど。
「……ん、後はコレ書いたら全部終わるぞ」
あたしが書類を見ていたのに気づいたリードは、笑みを浮かべて言う。
言いながら、さらさらとサインをして、それからもう一度読みなおすような動きを少ししてから、机の端にある四角く底の浅い箱の中に、ぽいっと弾くように入れた。
それはサインし終わった書類などを入れる箱で、あとでエルディクスが回収して持っていくらしい。書類によって送り場所は違うけど、それを地道にその足で歩いて行くのだとか。
重要度にかかわらず、あまり人に任せたくないのかもしれない。
で、肝心のエルディクスはというと。
「マツリからしてほしいな?」
「えっ……え、っと、あの」
マツリが耳どころか首筋まで真っ赤になるような、何かを要求していた。
何を言ったんだろう、とぼんやり思うあたしの横で。
「だーっ、いい加減に仕事しやがれ!」
ついにリードが怒鳴り始めた。彼は数枚の書類が入った件の箱を、投げつけるような勢いでエルディクスに押し付ける。ぐいぐいぐい、とかなり力任せな動きに、箱が壊れそうだった。
「エル、お前さっさともってけこれを! 仕事を! しろ!」
「はいはい。じゃ、マツリ、また後でね」
ちゅ、とマツリの頬にキスをして、エルディクスは書類入りの箱を手に去っていく。
残されたマツリはどこかはっとした様子で頬を染めると、申し訳なさそうにリードにぺこぺこしていた。そんな顔されたら、リードは怒るに怒れないと思う。実際、怒気は消えたし。
どうもエルディクスの雰囲気に飲まれてたらしい、抗おうとはしてたようだけど……。
「あ、そうだ。エルから伝言があるの」
ハッカに、とマツリが続ける。
エルディクスから、あたしに伝言。
何かあったっけ、と頭の中を探るけれど、特に何も出てこない。勉強は滞り無くしているし問題も起こしていない。シアがいるのでたまにハメを少し外すけど、部屋でだらーっとするぐらいで人前ではいつも通りの花嫁様をしている、はずだ。うっかり素が出てたのかな。
あたしが抱いた不安は、しかしだたの杞憂だった。
「ほら、石版なんだけど……壊れちゃったでしょ?」
こくり、とあたしはうなづく。
マツリを救うために、あの男を殴打した結果見事に粉砕。
名誉の戦死というやつだ。
大事にしてきたものだったけれど、後悔はない。マツリを救えたのなら、きっと神父様だってよいことをした、とあたしを褒めてくださるだろう。ただひとつ問題があるとすれば、おかげで周囲との意思疎通が、シアを介さないとままならなくなっていることだ。
本当にマツリには感謝してる。
彼女がシアを雇ってくれなかったら、あたしは今頃途方にくれていた。
「軽くて丈夫で、一回り大きい石版……のようなものが、手に入りそうなの」
「ほ、ほんとですか!」
そこで、あたしの代わりに反応したのはシア。
マツリはシアの食いつきっぷりに少し驚きながらも、にっこりと微笑む。
「えぇ。届くのにしばらく時間がかかるらしいけど」
楽しみにしててね、とマツリが笑って言う。
なんでも外国にある珍しい品らしく、手に入れるのは結構面倒なんだとか。知り合いの商人を介してどうにか手に入った、なのでそのうち公爵家に届くだろう、という段階らしい。
そんな面倒なことをしなくても、黒くて適度に平たい石なら何でもいいのに。
「いいのよ。迷惑をかけたお詫びみたいなものらしいから」
うーん、迷惑って程でもなかったっていうか、あたしもぜんぜん無関係ってわけじゃなかったから、そんな申し訳無さそうにされるとちょっと落ち着かないというかなんというか。
でも、もらえるならありがたくいただこう。
あの石版はあたしの『声』だった。無いとやっぱり不便だし、今もふとした瞬間にその重さがないことに不安のようなものを感じる。落ち着かない、というのがしっくりくる感じだ。
シアもずっと一緒にいるわけじゃないし、ここは渡りに船ということにしよう。
……あぁ、本当に不便だ。
感謝の言葉も、今のあたしは伝えられないんだから。