捨てる、捨てない
エルディクスは、ずっとマツリを抱きしめていた。泣き止むまでそうしているつもりなのかもしれないけど、たぶんそうしている限り泣き止まないんだろうな、とあたしは思う。
マツリにとって、彼の腕の中は痛みさえ感じるほど、嬉しい場所だから。
しかし、それを伝えようにも、あたしの石版は木っ端微塵。
ユリシスに視線を向けるが、彼は外に向かって何か話しているようだった。
どうやら兵士や騎士に、いろいろと指示をだしているらしい。ちらほらと聞こえた言葉をつなげると、まだ逃げ出した罪人は全部確保できていないらしくって、その後始末中のようだ。
忙しい彼を相手に、時間のかかるやりとりは心苦しい。
せめて部屋の壁が黒ければ、チョークで文字を書けたけれど……白いし。
何か書くものは無いか、と部屋の中を見回していると。
「おい、エルとマツリは大丈夫なのか!」
「ハッカ! ハッカはっ?」
ドタバタと、慌しく部屋の中に駆け込んできたのはリードとシア。シアは侍女服ではなくてラフな普段着で、リードはいつもはちゃんとしている身なりが崩れている。
二人は、それぞれの目当ての人物の無事を確認すると。
「無事か……」
「よかったぁ……」
と、同時に安堵の息を吐いた。
シアがあたしを心配してくれたのは、とても嬉しい。
でも、リードがこっちを気にしないのは、何だか少しムカっとした。そこは一応あたしを気にしてもいいんじゃないかな、と思う。まぁ、あたしは大人だから、表情には出さないけど。
どうやらリードは、ずっと執務室に軟禁状態だったらしい。
まぁ、悪い人が出ている状態で、外に王子を出せるわけが無いよね。
シアは偶然城下に買出しに出ていたらしく、城に戻れなくてやきもきしたそうだ。
そりゃ、帰ろうとしたら城が立ち入り禁止となれば、ね。
「うぅ、ほんとよかったよぅ……」
半泣きのシアに苦しいくらいぎゅうぎゅうと抱きしめられ、あたしはやっとこの騒動の何もかも終わったんだと思えた。こわばっていた身体からするりと力が抜け、息を吐き出す。
二人の登場で、どうにかマツリも落ち着いたのか。
「もう……平気」
そう言って、エルディクスから離れた。
彼女から離れたエルディクスは、どこか不安そうにマツリを見ている。何か言おうとしているのか、彼の唇はかすかに震えていた。けれどどちらも無言で、視線も会わない。
耐えかねたらしいリードが口を開きかけた時だ。
「……これから、どうするつもりだい?」
エルディクスが問いかける。
マツリは少し、迷うように視線を揺らせ、答えた。
「どこにでもいる魔術師として、旅か何かでもしようかと……思っています。予定通り、今日にでも城を出ていきます。今までお世話になりました。書類はそこにあるのでお好きな様に」
一息で綴られる別れの言葉、そして再び流れる沈黙。
エルディクスは何も言わない。
何も、言いたいけれど言えないのかもしれない。
無残にも破かれた服を隠すように、ベッドの上に置いてあった外套を身体へと巻きつけた最後にマツリは、まっすぐにエルディクスを見つめた。ふらつかない、しっかりとした視線だ。
「わたしは、ずっと……エルが、好きでした」
でした、という言葉で締めくくられた思いに、エルディクスは驚いたようだった。
マツリは気づかなかったのか、また視線を少しそらしながら続ける。
「何も言わないつもりだったの……この思いは全部、勘違いだってことにして」
でも、と、マツリはちらりとあたしに視線を向けた。
その目には決意があって、彼女は自分の意思ですべてを受け入れたと思った。
「ハッカが教えてくれたから。認められたのは、彼女のおかげ」
そういうマツリの表情は、とても晴れ晴れとしたものだった。彼女がずっと心のどこかに溜め込んでいたもの、背負い込んでいたものを、一つ一つ消していくような。
でもあたしは何もしていない。
ただ、話し相手になっていただけだし。
言いたかった何もかもをすべて言い終わったマツリ。最後に彼女は、とても優しい笑みを浮かべる。その手に杖と荷物を握り、立ち尽くすエルディクスに深く一礼した。
さらり、と黒髪が揺れる。
「さようなら、エルディクス」
少しだけ震えた声で、別れを。
マツリは、前に立つ彼の右側を通り過ぎていく。
彼女は、あたしやシアを見てにっこりと、ちょっと寂しそうに笑って。
リードと、部屋の中に戻ってきたユリシスに、さっきみたいに一礼しようとして。
「――で、ボクはどうでもいいわけ?」
エルディクスの声に、中断された。
振り返った彼の表情は、今までいないほど真剣なものだった。いや、真剣というよりもそれはまるで、怒っているかのような険しい顔で。見つめられたマツリが不安そうにする。
「ど、どうでもいいってわけじゃ……」
「そうかな。ボク、どう見ても捨てられてるわけなんだけど」
「捨てて……なんか、ない、よ」
「だってマツリは城を出て行くんだろう? つまり、ボクの屋敷からも出て行くわけだ。書類を書いたってことは離婚もしちゃうわけなんだし、やっぱりボクは捨てられるんだね?」
「あの……えっと」
「マツリはひどいな。ボクがどんな思いで、あんな胸糞悪い取引に応じて、頭の悪いガキなんかと……それもこれも全部君のためだったというのに、ことが終われば離れちゃうんだ」
相当不本意な取引だったのだろう。
ギリギリと歯軋りする音が聞こえそうなほど、エルディクスは顔をしかめていた。
そうかもな、ぐらいの予想――ルーフィを斬り殺してしまうのではないか、というあの瞬間では考えすぎの範疇だったはずの疑念が、みるみるうちに確信に変わっていく。
ユリシスがいてくれてよかった、あたしじゃ彼は止められない。
でも……気持ちは、わからないでもなかった。取引についてもそうだけど、あの令嬢とこれから先ずっと一緒だと思うと、あたしもさすがに気分が凹むというか滅入る感じだし。
だけどそれを受け入れてでも、彼はマツリを守りたかったわけなんだから。
……あ、でもマツリが何で怒られているんだ?
だんだんわからなくなってきた。
「まぁ、マツリはボクが嫌いなんだもんね。だからどこかに行くんだろ?」
腕を組んだエルディクスは、つーん、とそっぽを向く。
マツリも黙っていられなくなったのだろう。
売り言葉と買い言葉、って感じの乗りで応戦する。
「き……嫌いなんて、言ってない! 好きでしたって、さっき言ったじゃない!」
「でしたっていうのは、カンペキに過去形だよね」
「それは……その、あの」
しどろもどろになってきたマツリは、おろおろと周囲に視線を向ける。
だけど、どう援護すればいいのか誰もわからず、彼女は孤立無援だった。
……いや、だってね。
どう見ても『拗ねた』エルディクスを、どうすればいいのか、あたしにわかるわけがないっていうか。付き合いが長いだろうリードやユリシスさえ、唖然として何もできないのに。
あたしやシアに、何ができるんだろうと思う。
そうこうしているうちに、マツリはいよいよ劣勢になった。彼女は、たぶん思うままに告白してハイさよならす予定だったんだろう。そうして互いに新しい生活を、的な感じで。
なのになぜか『ボクを捨てるんだ』とか、意味不明の理由で責められている。
むしろ捨てようとしたのはそっちじゃないかな、そういって責められるべきはエルディクスの方じゃないの、と思うけど言えない。言ったらいろいろ恐ろしい目に合いそうで。
だからあたしや、そしておそらく周囲も何も言えない。
ただマツリの無事を祈ることしかできなかった。
「ボクの意思も気持ちも、全部無視して楽しいかい?」
「無視なんか……して、ない」
「自分の言いたいことだけ言って、さよならしようとしたくせに」
と、エルディクスがマツリの腕を掴む。
どさり、と荷物が落ちるのと、彼女がエルディクスの腕に抱き寄せられるのは同時。
エルディクスは杖を取り上げると、かなり乱暴にユリシスへと投げた。
杖を持ってろ、ということらしい。
魔石とかは貴重な種類のものも少なくないから、それを使った杖はもっと丁寧に扱わないとダメなんじゃ……と思うけど、やっぱりあたしもシアも、残り二人も何も言えなかった。
言わせない雰囲気を、エルディクスが作り上げている感じだ。
「か、返し――」
「だめ」
杖を追うように手を伸ばすマツリを、エルディクスは簡単に封じてみせた。
封じたというか、強引にその唇を奪った。
初めて、目の前で見せ付けられた人様のキスシーン。
あたしと、それからシアは、同じような反応を示した。赤くなって、頬に手を当てて。このまま目も覆った方がいいのかな、と迷うように手を上に持っていこうとしたり、やめたり。
かなり挙動不審になったと思う。
でも仕方ない。
こういうの、ぜんっぜん免疫が無いから……自覚する程度には、かなり。