邪魔者には死を
それはあの日、あたしを殺そうとしてマツリを傷つけたあの男だった。
当然、牢獄にいるはずの男だ。
ユリシスが言っていた脱獄騒動で、外に出てきてしまったらしい。そこまでは、状況的にありうることではあった。問題は彼を従える形でルーフィが、今、目の前にいるということだ。
どこかで奪ってきたのだろう、久方ぶりに見た男はその手に長い剣を手にしている。
身体は左右に揺れていて、目の焦点はあっているのかわからない。
あの時の――女神と呼ぶマツリを傷つけて、呆然としていた時のまま、彼はいた。
「どうして彼が、ここに……!」
「決まってるじゃない。ルーが連れ出したの。パパは男爵だもの、誰も逆らわないわ」
「つれ、出したって」
「この男をちょうだいって言ったのに、牢番ができないってふざけたこと言ったの。庶民は貴族に傅くものなのに! だからぁ、ちょーっと知り合いに頼んで裏から手を回させたら、ちゃんとそのことを思い出してくれたのよ。ほんと、ルーに逆らうなんてしんじらんなーい」
ぷんすか、という感じに腕を組んで唇を尖らせる。
しかしその発言内容は、とてもそんなかわいい仕草には似合わないものだ。
要するに、要するに彼女は、牢を管理する誰かを脅していうことを聞かせて、この男を外に出させたんだろう。罪人の逃亡は意図的ではなかったかもしれないけど、この口ぶり的に。
「なんてことを……」
話を聞いたマツリは怒りを声ににじませる。
彼女は、ルーフィはわからないのか。罪人を勝手に連れ出し、というか逃がし、あまつさえ武器を握らせるという行為が、どういう罪に問われるのか……そして、その重大さが。
ましてや彼は、ある意味で国家に反逆したような人物だ。
牢に入っていたけれど、処刑されるのはほぼ間違いない存在。それを連れ出したって。断ったことを逆らったとか言うなんて。信じられないのは、こっちが言いたい言葉だ。
そもそも何で罪人を外に出したんだ、何をするつもりなんだ。
問いかけるまでもなく、ルーフィは饒舌に語る。
「ルーはヒトゴロシなんてヤだもの。それは下々の奴隷のすることって、パパもママもお祖父様もお祖母様もおっしゃるの。だからこの人に、マツリ・カミシロを殺してもらうの」
うふふ、とまるで誰かのことが好きだと友人に言うかのようなそぶりで、彼女は言った。
彼女――ルーフィの父である男爵は、罪人を裁く部署に勤めているという。
その権力を使い、彼女は牢獄を守る兵士を脅した。その人は最近結婚したらしく、子供も生まれる直前なのだという。あぁ、なんとなく想像がついた。それを理由に脅迫したんだ。
彼の協力で手下を数人忍び込ませて、あとは全部の牢を開けるだけ。
そしてこの騒ぎ、というわけだ。
最低だ、最低だとしか言い様がない内情を、ルーフィは楽しげに語る。
虫酸が走る、って、きっとこのことをいうんだろう。
「ルー的に、最高のアイデアなの。みんな『さすがお嬢様です』って褒めてくれたのよ!」
自信たっぷりに笑っているけれど、普通に考えたらそりゃ褒めるだろうと思う。誰が好き好んで主をバカにすると思うのか、しかもこの手のたぐいの主なら、逆らうのは愚行だろう。
もしもあたしが彼女の下で働いていて、そういう質問をされたら、歯の浮くような賛美の言葉を精一杯に並べ立てて『さすがですお嬢様』とおだててゴキゲンをとっただろう。
腹のそこで、こいつバカじゃね、とか思っていても。
たぶん、尋ねられた使用人の幾人かは、あまりにも救いがたいバカな主に、密かにため息をこぼしたと思う。挙句に犯罪に手を染めさせられたとなれば、思わず涙が出そうだ。
きっと、逆らえなかったんだろう。
「どうして、そんなことを……っ!」
杖を構えて、マツリが問う。
彼女は腕を広げると、あたしを背後にかばうようにした。
ちらり、と視線を向けたのは窓。
閉ざさなければよかったという声が、その瞳から聞こえた。魔術の解除には手順が必要だとどこかに書いてあったから、この状況ではあの窓は脱出するための道にはならないのだろう。
男はルーフィの命令をちゃんと聞いているのか、彼女の少し後に佇んだままだ。
その目はうつろで、あたしを見る時だけ何ともいえない気配を帯びる。
声が失われていなかったら、恐怖と嫌悪で今頃叫んでいたかもしれない。マツリを傷つけた時に、彼の中の何かがおかしくなったのだろうか。その瞳に、正気は感じられなかった。
「どうして、なぜです! こんなことをしたら、どういうことになるのか――」
「そんなのどうでもいいもん、パパが何とかしてくれるもの。それにルーは、ライアード公爵の、跡取り息子の婚約者なのよぅ? 誰もルーに逆らっちゃダメなんだからぁ」
それにぃ、とルーフィは続けて。
「エルディクス様をルーのモノにするには、これしかないんだから」
「モノって……もう、彼はあなたと、結婚するって」
「そうよ。あなたを守るための結婚。そういう取引だもん。パパがそういったの。あなたを無罪にするために、ルーと結婚しろって。だからルーは彼と結婚するの、結婚できるのよ」
「そ、そんな……」
絶句するマツリ。
あたしだって、驚きで息を呑んだ。もちろんそんな取引を持ち出したという、彼女の父親にも驚きだけど。それ以上に、その取引を受け入れたエルディクスにびっくりするしかない。
思い出したのは、いつか、リードと二人で見かけたあの『密談』の光景。
あの時、彼らが話していたのはその取引について、だったのか。
彼女なりに、エルディクスを思っていただろうルーフィは、どう考えたのだろう。マツリのために、自分以外の誰かを守るために、自分と結婚すると決めた彼のことを。
そして、彼を動かしたマツリのことを。
「取引がなきゃ、エルディクス様はルーの旦那様にはならない。わかってるもん」
どこか悲しそうに彼女は呟く。
「どんなに綺麗にしたってね、エルディクス様にとってルーは……ルーも、道具なの」
マツリという名の、一人の少女を救うための『道具』でしかないと。これから彼にあたえらるすべてのモノは、彼女の平穏を守るための、言うならば代金のようなものだ。
ルーフィのためではない。
両親にとっても、二人の婚姻は公爵家と繋がるための糸でしかなく、ルーフィがどういう扱いをされていても思われ方をしても、公爵家と縁が繋がっているならそれでよくて。
ほかならぬ、ルーフィ自身が誰よりもそれを知り、味わって。
「だからぁ、全部消えてもらうのー」
にぱ、と彼女は笑った。
無邪気な、おそろしい笑顔だった。
「大丈夫、パパがちゃあんと後始末してくれるもん。ルーは何もしなくていいの」
「あと、しまつ……」
「魔女は、実は王子様に思いを寄せていたってシナリオなの」
ルーフィが語る物語は、吐き気がするほど醜悪なものだった。
エルディクスの妻であるにもかかわらず、リードに片思いをしたマツリは花嫁となったあたしに嫉妬して例の事件を起こした。けれど始末し損ねたので、ごまかすためにケガをした。
何とかしてあたしを消したかった彼女は、牢にいたあの男を外に連れ出す。そしてあたしを殺させた後、彼女に思いを寄せていた男の手にかかる。正気でない男は牢獄から処刑台へ。
あたしは哀れ結婚前に死に、マツリはこの国の歴史に名を残す悪女となる。妻の裏切りに傷ついたエルディクスを、ルーフィが優しく癒やすうちに恋仲になってハッピーエンド。
彼女の頭の中にあるのは、そんなできすぎにもほどがある物語だ。
最後に笑うのは、彼女とその父親である男爵の二人。
後は――あたしに押しのけられた、かつての王妃候補やその家族だろうか。
「……」
さすがのマツリも、そのシナリオの前に言葉を失っていた。
だって、シナリオに関しては素人のあたしでも、そんな都合よくいくわけないと思う。今は混乱に乗じて何とかなっているけれど、こんなものすぐ破綻するに決まっている。
リードもエルディクスも、そんなのを信じるほどバカじゃない。
しかし目の前の少女はそれを信じている。そうなるに決まっているし、そうなるように周囲は自分の言うとおりに動くべきだと思っている。盲信、というにはあまりにも恐ろしい。
彼女からすると、逆らうという要素はありえないことなんだろう。
逆らったのが、例え神であっても。