さよならの日
時間は残酷だ。
あたしが恐れていた日は、当然のように目の前に現れる。
先生から言われた。
もう、これ以上は伸ばせない――と。
本当は、目を覚まして数日もすれば大丈夫だった。
傷そのものはひどくなく、あとはエルディクスが用意する家でも充分だったと。
でも先生が、それとなく期日を余分に見積もってくれていた。その間に夫婦で話し合って何とかならないかなって思ったんだけど、と先生は苦笑して、残念そうに表情を曇らせる。
このままではいけないと、思ったのは何もあたし達だけじゃなかったんだ。
それが、たまらなく嬉しく思える。
……でも、もうそれもできない。
これ以上は、不自然を通り越して違和感を産んでしまう。先生はできる限り、どうにかこうにかしてくれた。いくらあたしだって、これ以上、なんてことは言わない、言えない。
もうじき、マツリはいなくなる。
二度と会うことは、ない。
彼女があたしを、あるいはリードを見ることはできるだろうけど逆はない。
それを知った日の夜、あたしは思わずリードにすがってしまった。
小さい子供みたいに、すがり付いて泣いてしまった。彼だって同じくらい泣きたいだろうしつらいし、とても面倒なことだろうに、リードは何も言わずにあたしの背中や頭を撫でて。
そのまま、あたしはゆっくりと眠りに落ちていった。
彼の腕の中で目を覚まして、真っ先に思ったのは『残り時間で何をするか』だった。
もう迷っている暇はどこにもない。多少強引でも、何とかしなければ終わってしまう。仕事でリードが動けないなら、比較的自由でいられるあたしが彼の代わりに動かなきゃ。
一年、見ていることしかできなかった彼の後悔を、あたしの後悔と一緒に終わらせる。
けれど、何も浮かばない。
命令では意味がないとわかっているのに、それしか有効な手段が出てこない。
そんなもので繋ぎ合わせても、意味なんてないのに。
そうして、先生が最後のあがきよと言って取り付けた数日の猶予も終わって、マツリは明日にも城を出る。それでもあたしは、これという有効打を見つけられないままだった。
いつものようにマツリを尋ねると、彼女はベッドから出ていた。
椅子に腰掛け、テーブルに向かっている。
簡素な寝間着ではなく、あたしが教会暮らしの間によく見た、庶民っぽい普通の格好をしていた。どこで手に入れたのかは知らないけれど、以前の服は置いていくつもりなんだろう。
「こんにちは、ハッカ」
顔をあげた彼女はそう言って、胸を突き刺すような穏やかな笑みを浮かべた。
すぐに彼女はテーブルへ、視線と戻してしまう。さらさら、と紙の上をペン先がゆっくりと踊っていた。あたしより少し歪でヘタな文字は、彼女がこちらの文字に不慣れな証だろうか。
口から出る言葉はすぐに理解できたけど、文字は最初から覚えていったらしい。
もちろん、教えたのはエルディクスだ。最初のアレコレはともかく、その時の彼はとても優しかったという。仕事で疲れているだろうに、夜遅くまで勉強に付き合ってくれたそうだ。
だから――彼女は、自分は勘違いしてしまったと言った。
愛されているという勘違い。
大事にされているという錯覚。
ゆえに、契約という名のプロポーズをされた時、思わず何もかも忘れて喜んだ。
彼の妻になれると。
モノ知らずでバカだったのよね、とマツリは言って。
「……書類一つで終わるなんて、あっちの世界と一緒」
ひと通り、用意されていた書類を書き終わった。
それは俗に言う離縁状。
エルディクスが侍女に届けさせたそれを、マツリは丁寧に書き上げた。見れば、すでに彼の名は記入されていて、これをそのまま役所に提出すれば、その場ですべてが終わる。
終わってしまう。
その現実を前にあたしは、何も言うことができない。
シアなら、彼女ならきっと、何か気の利いたことを言えるだろうに。
今日もまた他所で雑用を頼まれ、彼女は不在だ。リードも仕事でいなくて、マツリを見送るのはあたしとユリシスだけなのだろう。神託を賜った立役者なのに、あまりに寂しいことだ。
何よりも、彼女がここを出ていかなければならない、ということが歯痒い。
結局、あたしは何もできないままこの瞬間を迎えている。
エルディクスは徹底的にあたしを避けた。リードから話をしようにも、仕事に関係ないことを喋るなとすぐに切り返される。そういわれるとリードも何も言えず、現状は揺るがない。
話をするという以外、手段も妙案も何もなかった。
それを封じられてしまったから、何もできなくなった。
屋敷に押しかけたところで、門前払いされるのがオチだろう。そもそも、押しかけられるわけもない。さすがにユリシスも止めてくるだろうし、シアだってダメというに違いない。
一人で抜け出すという選択は、さすがに取ろうとは思わなかった。
それに、エルディクスの家……知らないし。
さすがに、どの辺にあるのか、というのはわかる。あの、いかにも金がかかってそうな屋敷が並ぶ高級住宅街のどこかだ。……もっとも、広すぎてそれだけを頼りにはできないけどね。
しかし、それはただの甘えだったように、今は思えた。
めちゃくちゃでも、何か行動していればよかった。
これがきっと、リードが抱えた後悔だ。
彼が一年抱え続け、これからもずっと抱え続けるだろう思いは、時間を使っただけこれよりずっと苦くて重くてつらくて、あたしみたいに泣くアテもないから消えることもないのだ。
目の前で荷物をまとめている彼女は、とても穏やかな表情をしている。
穏やかな表情の、仮面を顔に貼り付けている。
『マツリは、これでいいの?』
そう思ったら、あたしは自然と問いかけていた。
文字を綴って、彼女の服を軽く引いて、石版を見せる。
本当に、マツリはこのままでいいの?
このまま、二度と会えない場所に立っていいの?
遠くから見ることもできなくなるよ。
噂ぐらいしか、聞こえなくなるよ。
もしかしたら噂さえ、聞こえないかもしれないよ。
死ぬとか、そういう大変なことにならなきゃ情報も手に入らなくなるかもよ。
あたしは知っている。
庶民にとって貴族なんて、そういうものだって。王様なんて名前も知らなかった。王子様なんて、言われてやっと存在を思い出すくらい、遠い遠い世界の人だ。目立つ王族さえ、そう。
貴族の名前なんて覚えてもいない。
ましてや、その貴族の安否なんて知るはずもない。
情報なんて入ってこないから。
マツリは、そんな世界にこれから身をおくことになる。大好きでたまらないはずの、離れたくなんかないはずのエルディクスから、この国でもっとも遠い場所。
それでいいのかと、あたしは彼女に問うた。
たとえ、離れることが避けられない運命だったとして。
このまま何も言わず、去っていいのか。
別れることを、あたしは最善や最良とは思わない。それがもう決められたことなら、もうどうにもならない決められたことであるならば、その範囲で精一杯あがくべきだ。
最後の最後に、思いをぶちまけたっていいじゃないか。
それで残された彼らの周りが騒がしくなっても、むしろ好都合じゃないか。
そうすることで、マツリ・カミシロという存在は、ずっと彼の傍にいるんだから。
騒がれるほど、ことあるごとにマツリの存在は話に浮上するだろう。彼にはこんな奥方がいたと、その内容や扱われ方はともかく話題になるだろう。そのたびに彼らは思い出すんだ。
忘れることなんてできない。
忘れさせてはいけない。
マツリがいたという過去を消すことだけは、してはいけない。
『エルディクスが、好きなんでしょ?』
「す、好きって……そんな、こと」
『好きなら好きだって、言いに行こうよ。言い逃げしちゃおうよ』
「それは……」
マツリは少迷うように、そっと目を伏せた。
あたしは、そこを畳み掛けていく。
そう、これは別におかしい行為じゃない。好きな人に、好きだと告げるだけ。それはどこにでもある、ただの『告白』じゃないか。何の問題もないことだ、自分の思いを言うだけだ。
愛を告白することは罪じゃない。
誰かを好きになって、それを口にすることを罪になんてさせない。
マツリが背負う痛みを彼らも、同じように背負うべきだ。彼女だけが苦しむなんて、彼女一人が荷物を背負い込むなんて、あたしは絶対に、絶対に納得なんかしないんだから。
ハッカ、とかすれた声がする。
あたしの前に立つマツリの、黒い瞳が潤んでいた。
何かをこらえるように唇が震えて、ぎゅっと握った手も震えている。
その唇が薄く開いた、その時。
「失礼する」
突然、扉が開いて、ユリシスが飛び込んできた。