誓いの証
古くから魔術を磨いてきたこの国は、他国と比べて紙というものが一般的だという。大昔の魔術は口伝だったけど、広く人々に教えるために書物に残す方向に動いたそうだ。ずっと遠くの農村とかでは、紙の材料になる植物を育てるための広大な畑があったりするとか。
他所では貴族どころか王族でもなければ本というものにふれることもない、なんてことも珍しくはないらしい。そういうところに紙を輸出するのも、産業の一つなんだそうだ。
あたしにとって紙や書物は、割りと当たり前だったから知らなかった。
城に来て散々な目にばかりあっているけど、こういう知らないことを知ることも多い。
これが当たり前だ、と思うくらい、この国は書物に恵まれている。作家と呼ばれる人が物語を作って、彼らが書き上げたものを書物にする工場があって、それを売る書店がある。
これは他所では、なかなか見ないもの……って、本に書いてあった。
特に娯楽小説ってヤツは、まず見ないのだという。そういうものに使えるほど、世界では紙がまだ一般的ではないということなのだろう。他国の貴族が、買いに来ることもあるとか。
ちらり、と目を向けた先にいるマツリは、適度な厚みの本を読みふけっている。
ああやってベッドの上に身を起こし続けられるのはいいことだ。それだけ身体が、治ってきた証ともいえる。けれどそれは同時に、彼の妻である時間の終わりも意味していた。
先生から大丈夫といわれれば、彼女はすぐにでもライアードの名を捨てなきゃいけない。
そういう約束を、エルディクスとしたという。
一応、城を出てからの住居なども、彼が整えるそうだ。再就職先なんかもコネとか使って何とかしてくれるらしく、いきなり無一文で放り出されるわけではないらしい。
彼なりの思いやり、なのだろうけれど。
そこまでするならどうして、とあたしは思う。
何とかならないかな、と勉強そっちのけで考えていると。
「ちょっと、どきなさいよ! ルーは未来の、ライアード公爵夫人なんだから!」
そんな、聞きたくない声が響いた。
ぱたぱた、がしゃん、と侍女が走ったりよけて物を倒したりする音がする。
そろそろお昼時。彼女らが忙しくなる時間帯だ。
おそらく城のあちこちに、食事を運んだり準備したりする途中だったのだろう。
がしゃん、というのは幸いにも何かが割れた音じゃなかった。たぶん金属製のトレイか何かを落としたのだろう。周囲の迷惑などお構いなしに、廊下を我が物顔で進む姿が目に浮かぶ。
さて、侍女に迷惑をかけるだけかけて、ずんずんとこちらに来ているだろう声の主。
誰もがわかる、愛称を一人称にしている、ルーフィだ。もう二度とあたしの前に来なくてもいいのにとため息がこぼれて、いっそこのまま居留守とやらをしてやろうかとさえ思う。
もっとも、そのために必要な鍵は、この部屋にはないけど。
あたしは追加でため息をこぼし、勉強道具をテーブルに置いた。視線を向けると、ユリシスが一礼して一足先に部屋の外に出て行く。それからぼそぼそと、会話する声が聞こえて。
ばぁん、と扉が開くなり、彼女のカツカツと響く靴音が部屋の中に満ちた。
いつも通りというか、無駄に着飾ってごくろうさん、という感じだ。その姿は今すぐ夜会や舞踏会に出席できそうなほどで、いくらここが城でも何もないからかなり場違いだった。
毎日、どんだけ人手と時間を使ってセットしているんだろう。
それだけのお金があれば、孤児や貧しい家庭の子供達はどれだけ楽できるのか。
自然と計算してしまうけれど、だんだんと腹が立ったのでやめた。
「あら、花嫁様もいらしたのー?」
マツリの傍にいるあたしを見て、ルーフィはにやにやと笑う。
そのいやみったらしい顔には、嫌悪を通り越して呆れしか湧いてこない。
彼女は、両親ともども生粋の貴族だと前に見た書類にあった。最低でも国内にいる主要な貴族やその家族の名前を覚えるのも王妃の役目、だとかで前にまとめて渡されたものだ。
正直、見ているだけで気がめいるような、経歴その他を持つ貴族も多い。
ルーフィ――というか、彼女の身内は、そういうのが特に多い一族のようだった。
良くも悪くも、貴族のお嬢様。いくら神託に選ばれて花嫁となっても、おそらくという言葉をつけるまでもなく、彼女にとってあたしは『卑しい孤児』でしかないのだろう。
要するに、軽んじる対象。
今のように、見下す相手ということだ。
もちろん、故郷では庶民だったマツリも同じく。
だからこその威圧的で、上から目線の高圧的な態度。たかが孤児に、庶民を相手に、最低限でも取り繕う礼儀など存在しないのだと、彼女のすべてが語る。
「ルーフィ様、何か御用ですか?」
マツリはひざの上に閉じた本を載せ、ルーフィを見ていた。
その目は、仕事をしている時のようにまっすぐで、どことなく感情が読めない。何を考えているのかわからないというのは、たぶんこういう場合に言うんだろうと思う。
対するルーフィは、ふふん、と笑って左手を掲げる。
窓から入る光を受けて、何かがキラリと光った。
「じゃーん」
と、まるっきり子供のように、自慢げに見せてきたのは指輪だった。
左手の薬指に光る、やたら豪華な装飾の施された大ぶりの指輪。
いかにもお金がかかっていそうな、大きな宝石が目立つ形で使われていた。
確かに自慢もしたくなる一品だとあたしも思うけど、自慢したいのはそこじゃない。その場所に指輪をつける意味は、あたしだって、ううん、あたしだからこそ知っている。
あれは、婚姻を結んだと神に伝えるためのものだ。
通常は男性が女性に、求婚しながら渡す。
受け入れる場合は指にはめて貰う、という儀式のようなもの。
それを見た瞬間のマツリの表情は、この上なくルーフィを喜ばせたと思う。いつもの感情を見せない表情を崩し、彼女は悲しげに目を伏せてしまったからだ。
唇をかみ締め、何かに耐えるかのように。
「エルディクス様にいただいたの! これの意味ぐらい、あなただってわかるでしょ?」
「……」
「そう、結婚! これはルーが、エルディクス様の花嫁になった証!」
うっふふー、とはしゃぐルーフィ。
彼女がいうには、あれはエルディクス――というよりも、ライアード家お抱えの職人お手製の品だという。ルーフィのためだけに作られた、彼女以外身につけてはいけない指輪だと。
未来の公爵夫人のために、他国の王族さえも求める職人が作り上げた芸術品。
それを受け取ることは、この上ない誉れ。
あしらわれたのは、猫の瞳ほどの大きさがあるかもしれない、透明な結晶。
あれはおそらく金剛石――ダイアモンドというヤツだ。それはとても堅い鉱物だから、いつまでも強く硬く二人の縁が続くように、という謂れがあるのだと聞いたことがある。
「あなたは貰わなかったのよね、マツリ様?」
その目が、つぃ、と蔑みの色を宿す。
視線の先にいるマツリは、ただ身を小さくするようにうつむいていた。かみ締めた唇は今にも切れてしまいそうなほどで、その痛々しい姿にルーフィは気分がとてもよくなったらしい。
「所詮、あなたは道具だものね。ルーとは立場も、価値も、何もかも違うのよ」
かつかつ、と歩み寄ったかと思うと、マツリの黒髪をむんずと掴んだ。
思わず立ち上がったあたしを、マツリは視線で制する。来るな、と目が言っていた。その視線に縫い付けられたように、あたしは立ち上がった体制から動けなくなる。
髪を掴まれた彼女は、強引に上を向かされた。
痛みに歪む表情を見て、ルーフィはさらに喜色を深める。
「これが愛の違いよマツリ様……いえ、とるにならない愚かな小娘!」
「……く」
苦しげにうめく姿に、あたしの我慢が消えた。
立ち上がって殴りかかろうとして。
「姫様」
そっと、あたしと彼女の間に立ったのはユリシスだった。
彼はあたしを見て首を横に振ると、ルーフィに向かって淡々と言う。
「ルーフィ嬢。そろそろエルディクスの仕事が終わる頃合。迎えにいかれては?」
「……そ、そうね! ルーは良妻なのだから、旦那様をお迎えにいかなきゃっ」
うふ、と幸せに表情を溶かして、ルーフィが笑っている。
彼女は部屋の外で待っていたらしい、おつきの侍女と一緒に去っていった。さすがあの主に仕えるだけあって、その侍女らはあたしやマツリを同じような目でこちらを見ていた。
残されたあたしは、発散し損ねた怒りの行き場を失って。
『どうして』
疑問符をつけるのも面倒で、あたしは石版に声を叩きつけユリシスに突きつける。
そう、どうして止めたの。
あんなの一発ぐらい殴ったって許されるはずでしょう。
睨みつけると、彼は少し困ったような表情をし、ため息をこぼした。
「あの場で殴ったりすれば、面倒なことになります」
『でもマツリが』
あんなひどい侮辱、あってはならないことだ。
まだルーフィとは正式に結婚していないし、そもそもマツリと離婚すらしていない。彼女は未だエルディクスの妻なのだ。実態がどうあれ、公式なものではそのままだ。
何様なのか、彼女は。
怒りで震えるあたしと対照的に、マツリはとても穏やかだった。
少なくとも、そう見える程度には落ち着いていた。
「ハッカ、もういいの。……全部、本当のこと、だから」
呟く彼女は、いつになく虚ろな空気を纏っている。
「リードのために呼ばれ、彼の花嫁を守るのが私の仕事」
――それ以外の価値なんて、どこにもない。
呟き、マツリは何かにふたをするようにそっと目を閉じる。
ぎゅっと握られた手の指は白く、何の飾りも存在していない。思えば、あたしが知るマツリは貴族の妻としては、あまりにも質素だった。貴族の妻、と言われなきゃわからないくらい。
確かに身に着けている衣類は、とてもよい品だったと思う。
けれど装飾は少なく、宝飾品らしいものもない。
ないことはないけれど――あれは、仕事道具だから『宝飾』ではないと思う。
その名前さえ聞かなければ、どこにでもいる魔術師の少女だった。まさか、この国でも有数の公爵の、次代を担うエルディクスの妻とは思いもしない。ごく普通の少女にしか見えない。
そんな彼女は、きっと何も望まなかったんだと思う。
綺麗なドレスも、きらびやかな宝石も。
愛の言葉さえ、きっと。
ルーフィの指輪を見せられてから、彼女の目には一つの光があった。
嫉妬と、羨望。
彼女はきっと――いや絶対に、マツリは欲しかったんだ。
エルディクスからの愛。それを、目で確認することができるもの。
誓いの指輪が、欲しかった。
けれど本当のところは、彼の心も、愛も、それ以上に欲しかったんだと思う。
ただ、本人がそれを認めない、認められないだけで。