ひとりぼっちにはしない
あたしは今日も、マツリの傍にいた。
いつものようにユリシスも一緒。
部屋にいても何かするでも変わるでもないけれど、一人にしておけないから。
三人だけの部屋の中は、ずいぶんと静かだった。まぁ、それも当然の話で、あたしは喋れないしマツリは無言で、ユリシスは必要以上のことを喋らないから。
いつもはシアが、あれこれと侍女界隈の噂を言うところ。
しかし彼女はいないから、この通りの静けさだ。
なぜシアがいないかというと、さっきマツリの様態を見に来た先生に、臨時の助手として強制連行されていったから。どうも、こうして雑用を任されるのは初めてではないらしく。
――やだあああああああ、ハッカあああああああああっ。
――たあああすけてええええええっ。
などと叫びながら、ズリズリと引きずられて旅立っていった。何でも、よくわからないものを運んだり採集したりする……らしい、とのこと。人手がいるから手当たり次第のようだ。
誰も詳細や真実を知らない、というあたりに興味と恐怖を感じる。
一瞬ついていこうと思ったけど、ユリシスのさすような視線に思いとどまった。
「昼前には戻るでしょう」
と、前回も目撃していたらしいユリシスが言うので、それを信じることにしよう。
彼女が戻るまでに、あたしも自分のやるべきことをやらないと。
どさ、とテーブルに並べられたのは書物が二冊。人を殴打することで、軽々と殺害できそうなほどにご立派な、ずっしりとした重量感のある書物だ。ぱらり、と開けば細かい文字がみっしりで中身もそれ内に難しい。聖書だってこんなにひどくない、とあたしは思う。
世間の人が言う聖書は、だいぶ簡単になったものだ。
見せてもらった神父様の専門的なヤツは、かなり文字が詰まって中身も難しくて。それをすらすらと読み上げてみせるのだから、聖職者ってすごいんだなと思ったものだ。
でも、ここまでひどくはなかったと思う。
文字はもう少し大きかったから読みやすかったし、行間だってちゃんと取られていた。
しかし、これはまるで別物。少しでも気を抜いたら、目を離したら、どこを見ていたか忘れてしまいそうだ。けれどこれを読んでいくのが、あたしの仕事だから頑張るしか無い。
目がつるっと滑りそうな、ぎゅっと詰まった文字を目で追いかける。
どうしてもわからないところを、ユリシスに尋ねたりしながら。そういうところは次も引っかかるだろうからメモを書き留めて、次を少しでも減らすように努力も怠らない。
あぁ、これでもまだまだ足りないから、王妃っていうのは大変だ。
王妃というものは、ただ『あたくしは王妃ザンス』と、椅子に座ってふんぞり返っていればいいもんじゃない。豪華な生活を堪能して、好き勝手していいご身分ではないのだ。
それを、あたしはこの上なく味わっている。
とにかく、貴族王族という類は、死ぬほど面倒だ。上へ行けば行くほどに、必要とされる知識は際限なく増えていく。リードもあれで、幼い頃から知識を叩き込まれてきたという。
叩き込んだのは例のセヴレス伯爵、ちなみに年齢は四十手前らしい。ただ実年齢と比べると見た目が相当若いらしく、彼の年齢をはっきりと言い当てられた人はいないんだとか。
リードの父、つまり亡き王様の友人。
この国で今もっとも、その存在が必要とされている人。
……とはいえ、その奥方や子供達は、うん。
思い出すのは、いつぞやの夜会でマツリに迫っていた長男。そして、嫌みったらしくマツリに絡んでいた長女。記憶の中にある二人を並べてみると、あんまり似ていない兄妹だった。
中身は、カンペキなほどに似ていたけど。
伯爵はぜんぜん違う人らしいので、会えるのを楽しみにしている。
さて、そんな伯爵だけど、実はあたしの教育係になる予定――だったらしい。亡き王の隣で采配を振るった彼なら、未来の王妃の教育係として最適だ、という判断があったらしい。
ただ、それには少々知識が足りないということで、目下勉強中。
臨時の教育係は、文字が読めるあたしに驚いていた。教会出身と言ったら納得されて、あたしは恵まれた立場だったんだなと思った。王妃になったら、孤児の生活改善を頑張りたい。
いざ勉強が本格化すると、ダンスとかの練習が楽に思えるほどの苦行だった。
基本、身体を動かすことをあたしは嫌わない。
もちろん踊ったりとかはしないけど、それでも書物の山よりは可愛げがあった。
そう、山だ。
今、あたしの前に詰まれたのは二冊だけ。全部が全部、ぶ厚くて重いから、読みかけのだけをもってきたのだ。なお、部屋には十冊以上残されているし、追加されることもある。
「大変ですか?」
ユリシスに問われ、あたしは小さく頷く。強がってもしかたがないことだ。これを大変といわねば、今は話に聞くばかりの出産ぐらいしか、大変と思えそうにない。
とにかく、覚えることが多すぎるのだ。通常は十数年ほど子供の頃から覚えるものを、あたしはあと一年足らずでみっちりきっかり過不足なく覚えなきゃいけない。
少しのゆとりもなくて、勉強意外にもすることは文字通り山のよう。
例えばシアだったら、きっと要領よく覚えていくんだろう。彼女は、そこら辺の回転がものすごく速い。あたしで三日かかるものを、彼女は一日たらずでこなすかもしれない。
けれどないものねだりなんかして、後ろを向く余裕もないから、あたしは自分にできる範囲で必死に前へ前へ、歩いて走って這いずって、少しでも前進して行くことだけを考えている。
覚える内容は多岐に渡り、この国に関することが半分で、残りは外国のこと。
この国と仲のいい国、歴史的に縁のある国、あまり交流がない国。
どんな国にどんなものがあるのか。その国の王族はどういう人々なのか。その国の風土や宗教の類は、特産物は、国民の気質やそれを培っただろう国の歴史とは。
誉れとされる行為などは、逆に嫌悪される要素とは。
そういったものを、覚えこんでいかなければ。
なにぜ王族とは、国の看板のようなもの。少しのミスも汚点も許されない、成功以外あってはいけない。些細なことから戦争になる場合もあると、歴史は何度も語りかけてくるから。
例えば、お茶会。
あれは基本、あたしが行わなきゃいけないものなんだそうだ。そういう時に、たとえば相手の国では『ダメ』とされているようなものを、お出ししたりお見せたりなんかしたら失礼に当たる。国によっては、この国では当たり前のことがタブーの場合もあるから大変だ。
鳥や牛、豚といった肉類のどれかを、食べてはいけない国とか。
逆に、喜ばれるようなものを用意するのも重要。
故郷の味や文化というのは、とても嬉しいものだとあたしも思うから。そうやってゲストをもてなして気分よくお迎えして送り出して、この国に対する印象とかを良くしたりとか。
リードほどではないにせよ、あたしの責任もそれ相応に重大なのだ。
もちろん、全部を全部あたし一人でやるわけじゃない。
料理なんかは、専門の料理人さんが作ってくれる。お花なんかも同じような感じで、それを専門にしている職業の人がいる。それ以外の大半も侍女が、滞り無く準備してくれるという。
あたしがすることは、彼らを動かす命令を決めること。
誰を招き、何を準備し、どう整えるのかを、相談しながら決めて了承するぐらいか。
ううん、いっそ『お茶会をしましょう』って言うだけかもしれない。
何もできないなら、その方が国にとってはいいのかも。しかしそれにおんぶにだっこされ続けるつもりは無い。周りに知識を持つ人がいるからと、甘えるわけにはいかないのだ。
自分でもできるようなことは、少しでも自分でできるようにしなきゃ。
でないと、きっとああなる。
そう思いつつ視線を向けるのは、部屋に明かりを届ける窓の向こう。リード狙いなのかそれ以外狙いなのかわからない令嬢集団が、楽しげに語らっているお茶会の光景だ。
彼女らはめげずに城に来ては、リードやエルディクスを追い回している。客人という立場というか扱いになっているためお茶などが振る舞われていて、我が物顔で過ごしていた。
彼女らだって貴族の娘だし、それなりに勉強をしていると思うのだけど。
ああいうのを見ていると、何とも何ともな気分になる。
「姫様?」
――おっと、浮気はいけない。
ユリシスに声をかけられ、あたしは慌てて本に視線を戻した。
あんな遊び呆けている令嬢より、あたしにとっては目の前にある勉強が大事。これができていないと、マツリを尋ねることを禁止されてしまう。自分に、それを禁じてしまう。
勉強をおろそかにしないこと。
それが交換条件みたいなものだ。別にリードだとかどこかの貴族だとか、誰かがあたしにそう言ったわけでもないけれど、マツリのせいで、なんて言われるのはイヤだから。
じゃあ会いに来なければいいのに、と言うのはもう一人の自分。
でもそれは、ナシだ。
あたしが来なかったら、きっとマツリは一人になってしまう。
だって、誰も見かけないもの。日中の長い時間、あたしはここにいるけれど、リードだとか先生だとか以外、誰かが尋ねてくることなんてなかった。……エルディクスも来ないし。
シアもユリシスも、あたしがいる場所にしかいられない。
だから、マツリを一人にしないためには、まずあたしがここにいなきゃ。
一人にはしない、絶対に。




