二人のために
夜になった。
あたしはベッドの中で、まだ戻らないリードを待つ。
あれからマツリを見舞ったけど、彼女はリードを見てもいつも通りだった。ベッドの上に身を起こした彼女は申し訳なさそうにして、エルディクスとのことをリードに話して。
――迷惑をかけてごめんなさい。
そんな言葉をかけられ、あたしもリードも何も言えなくなってしまった。
迷惑なんて、むしろ彼女がかけられたのに。
こちらの世界の事情に、強制的につき合わされているわけなんだから。
けれどそれを言ったところで、きっとマツリには届かない。どんな言葉を使っても、彼女がそれを拒否しているから。次第に口数を減らすリードは、見ていてかわいそうになった。
幸いというべきか、ユリシスがリードを呼びに来て、あたしも一緒に部屋を出る。
じゃあな、と言葉少なく別れた。
最後に見たリードは、明らかに元気がなくて。
だから、今もこうして待っている。
心配――だから。
「……」
息を吐き、ベッドの上で寝返りを打つ。
明かりを落として黒が強い視界に、天井が浮かんでいた。仰向けになったあたしはおなかの上で指を組み、ぐっと歯を食いしばる。きっと、泣きそうな顔をしているんだろうと、思う。
あたしは怖かった。
怖くて、考えたくもないけど、それでも考えてしまう最悪の未来。
――マツリが城を去って、エルディクスはルーフィと再婚。
残されるのは、何もできなかったと悔いるリード。
彼はあれで優しいところもあるから、きっと自分を責め続けるだろう。その表情にはぬぐえない影が生まれてしまって、もしかすると彼は笑わなくなるかもしれない。
もし、これで彼まで笑顔をなくしたらと思うと、あたしは。
「……」
イヤだ、と唇を動かす。
あたしの願いは、至って簡潔なものだ。
もう、誰にも悲しい顔をしてほしくないだけ。
マツリに、もう一度笑ってほしいだけ。
できれば――彼と、もう一度生きていこうと思ってほしいんだ。
手遅れになる前にどうか、どうか。
彼女の身体は、ケガは、確実に良くなっていた。まだあんまり動き回れないけれど、そのうち散歩ぐらいはするらしい。顔色もいいし、食欲もそれなりに出ていると先生から聞いた。
だけど、中身は別。
彼女の中身は、いまだズタズタのままだ。
なのに、外側だけが治っていく。
薄っぺらい笑顔。
それがマツリの笑顔になった。
あれなら、愛想笑いの方がまだいいかもしれない。エルディクスが浮かべている、あっちのほうがまだそういうものだって、呆れ半分に思って納得して受け止められるかもしれない。
今のマツリは、ただただ悲しい存在だ。
このままだと彼女は、いずれ心も身体も病んでしまう気がする。
先生だって、みんなだって、それを案じている。
でも、届かないんだ。
あたしの声も、先生の声も、他の誰の声も、彼女の『中身』に届かない。全部、彼女自身が拒絶してしまうから。もし届けられるとすれば、それは『彼の声』しかないのだと思う。
でもそれはムリなんだ。
彼は彼女に声を届けようとは、きっとしない。
彼は自分が彼女から離れるべきだと、思っているから。
それを今日、知った。
あぁ、なんてもどかしい。互いの気持ちを届けあえたら、素直に叫べたら、それですべてが変わるはずなのに。たったそれだけのことがどうして、こんなにも難しいことなんだろう。
でもあたしが間に入ったって意味がない。
互いに届けあわなきゃ、届いたって意味がない、価値もない。
エルディクスの本音は聞いた。マツリの本音も知っている。あとは、どうやって二人の心をもう一度繋げるか。手遅れになって、全部終わって、エピローグに入る前に、どうか。
……ダメだな。
あたしにはもう何も出てこない。
ここまでこじれてしまったら、もうムリなのかもって思ってしまう。
あたしの人生経験なんて、二人の足元にも及ばないような軽いものだ。波瀾万丈と言いつつも平穏な暮らしだったし、結婚という要素を駆け引きの道具にするような世界も知らない。
あたしは、世界を知らなすぎたんだろうと思う。
一人立ちはまだ先だと思って、あたしはきっと甘えていた。声が死んでいるから、だからどこにもいけない。そう思っていたけど、きっと実際は『どこにもいかない』んだろう。
外は怖い、だから暖かい世界でのんびりと生きていけばいいって。
あの狭い世界だけで、生きていくつもりだったあたし。
それと、どこまでも広くて強い世界を相手に、その力を振り絞るようにして生きていこうとしている彼らじゃ、生まれながらに背負ったものも培った覚悟も、何もかもが違いすぎる。
ましてや相手はエルディクスだ。
マツリならともかく、彼を説得なんてできるわけがない。
言葉巧みにやり込められるリードしか見えない。
じゃあ命令すればいい?
あぁ、それは最悪の手段だとあたしでもわかっている。
命令は説得じゃない、そこに意味なんてない。
そんな言わせたような言葉じゃ、マツリもエルディクスも救われない。そんなのは形だけ見られるように取り繕って、大団円って最後に書き添えるだけの茶番。いや、茶番ですらない。
何を考えても、いい案がでなくて。
身を起こしたあたしは、ぼふん、と枕にこぶしを沈めた。
一回、二回、三回。
何もできない自分への苛立ちを、ふわふわしたそれにぶつける。
何度か繰り返していると。
「やめとけ」
寝巻きに着替え終わったリードが、あたしの手首を掴んだ。いつの間にか彼はここに戻ってきていて、着替えまで終わらせたらしい。ぜんぜん気づかなかった、恥ずかしい。
あたしがしていた愚行は、一体どこから見られていたんだろう。
ベッドの上で、ごろごろうだうだしていたところからか。
それとも枕に八つ当たりをした辺り?
あぁ、どっちにしろ恥ずかしい。あたしは手を振り解いて、うつ伏せになった。八つ当たり去れていた枕に、顔を隠すように埋める。このまま全部忘れて眠ろう、そう全身で訴える。
リードは、あたしの足元でくしゃくしゃになっていた上掛けを引っ張りあげた。
その中に自分も入って、あたしの隣で横たわる。
ちらり、と横目で見た彼の表情は、どこか疲れているように見えた。
「……なんだよ」
視線に気づいたのか、リードがあたしの方を向く。
生憎、寝る前ということもあって石版が近くにないから、あたしは言いたいことがあっても何も伝えられない。お疲れ様とも言えないし、おやすみなさいも言えない。
どうして、から始まる疑問だって。
ねぇ、どうして傍にいたのに、こうなるまで何もしなかったの。
あなたなら何とかできたんじゃないの?
誰よりも、あたしよりも二人の傍にいるじゃない。
リードの言うことなら、きっと二人はそれなりに聞いてくれたはずだ。全部を全部、聞き入れないとは思うけど、それなりには聞いてくれて――手遅れにだけはならずに済んだかも。
同じようなことが起きて、今のような状況になっても。
これほどまでに、悲惨なことにはなっていなかったかもしれない。
「……ってるよ」
あたしを見ていた彼の表情が、苦しげに歪むのが見えた。
「お前に言われなくたって、それくらいわかってるんだよ……」
喉の奥から搾り出すような、苦しげな声。
あたしは思わず目を見開いて、彼を見つめた。
さっきまでの、不安に襲われていたあたしのように、歯を食いしばるリードを。
「一年だぞ? 一年、俺は二人の傍にいた。たぶん誰よりも傍にいて、近くにいて、マツリのこともエルディクスの所業も全部知っていて、それなのに、それなのに何もできなかった」
その結果がコレだと、リードは叫ぶ。
近くから見ていて、時にはそれなりに苦言を漏らし。エルディクスの些細な行動に傷ついたりするマツリを、それとなく励まし。少しでも良好な関係になるよう、気を使って。
何とかならないか、いい方法はないのか。
それとなく探り続けて、気づいたら一年も流れ。
マツリはすべてを諦めるようになり、エルディクスに何も求めなくなって。そんな彼女を前にエルディクスさえ、確かに在った何かを秘めた瞳を完全に隠して存在を抹消してしまって。
「あいつは、エルは……マツリがたしかに好きだったんだよ」
本人は認めないだろうけど、と彼は言う。
リードの目には、確かに見えていた。時折、マツリを目で追いかけている彼の姿。彼女が少しでも笑うと、それを見てどこか嬉しそうに目を細めているエルディクスが。
だからリードは安心していた、したかった。
いつの間にか、エルディクスがマツリを目で追わなくなったことにも、気づかずに。彼の視線の先にいたマツリが、あまり笑わなくなったことにさえ、気づかないままに。
二人が、しかしリードの前でだけは、それとなく親密そうにしていることも知らないで。
そしてあたしがやってきて、事件が起きた。
危うい場所にあった何もかもが、こうして壊れてしまった。
「……俺が、もっとちゃんとしてれば、していれば」
そう告げて目を閉じるリードを前に、あたしは何も言えなくなる。
この数日で、すでに限界に近いあたし。でも彼は一年、ずっと二人の傍にいたんだ。今ならわかる。彼が味わった苦しみは計り知れない、あたしなんかの比じゃない。
何もしなかったわけじゃなかった。
あたしみたいに悩んで、何かしたいと思って、彼なりに行動に移して。それが届かなかっただけだ。届けようとしたけど、けれどそうしたがゆえに相手に受け取ってもらえなかった。
今も昔も、あたしや彼の声は、あの二人には届いていない。
道具として呼んだ側と、呼ばれた側。
それ以外の立ち位置も関係もないのだと、良くも悪くも割り切ってしまったから。
マツリとエルディクスが互いにそんな結論を出して、それを受け入れ、その立ち位置から動こうとしない限りは、リードやあたしだけじゃなく、誰が何を言ってもきっと無意味だった。
「もう、ムリなのかもな……」
どっちもあれで頑固だから。
弱々しく呟いて、リードは身体から力を抜いた。
その姿がまるで――そう、泣いているように、見えてしまって。もぞもぞとベッドの上を少し移動して、あたしよりずっと大きいその身体を抱きしめた。
リードは抵抗しない。
そんな気力もないのかもしれない。
それをいいことに、あたしは彼をぎゅっと腕の中に抱き込んで、背中を撫でる。ちょうどあたしの胸の辺りに彼の顔があって……まぁ、これはこれで、それなりに恥ずかしいけど。
でも今は羞恥よりも、ただ『抱きしめてあげたい』という思いが強い。
腕に力を入れて、さらに抱き寄せる。
リードは――あたしにすがるように、少しだけ抱き返してきた。しばらく続けると、静かに寝息が聞こえる。疲れているらしい彼はいつも、こうしてあたしより先に寝てしまうのだ。
腰の辺りでくしゃくしゃになった上掛けを、あたしはそっと引っ張り上げる。
それからもう一度、少しだけぎゅっとして。
「……」
おやすみ、と。
穏やかで幼さがある寝顔に伝え、頭を撫でた。
リードの身体を腕の中に収めたまま、目を閉じて考える。
だってこのままでいいわけがないんだから。
二人が選んだ選択肢は、きっと二人から幸福を永遠に奪い取る『間違い』なんだ。
探そう、二人にとっての最善を、二人のための最良を。
もう、あんな顔をどちらにも、そしてリードにもさせないために。