最善にして最良の選択
そこは、廊下の一角。
少し広い、ソファーとかが置かれた休憩用の場所。
まるで人目を忍ぶかのように、三つの人影があった。
「約束は守られるのでしょうね、男爵殿。彼女には手を出さないと」
「えぇ、もちろん。条件さえ守っていただければ」
「……わかった。娶りましょう、あなたの娘を」
「では、実際に結婚するのは王子殿下の後、ということで。よろしいですかな?」
「――あぁ」
会話を交わす二人の男。
片方は中年で、もう片方は若い。体型も中年の方は小太りでだらしなく、服だけがやたら豪華な感じだ。若い方はすらりとして、ごてごてしていないが品のいい感じの身なりだった。
そして、若い男をキラキラした目で見上げている一人の少女。
まぁ、はっきり言えばエルディクスと知らない中年男、そしてルーフィがいた。
エルディクスは、あたしやリードに背を向ける位置だからわからないけど、男と少女はものすごく嬉しそうに笑っている。ぎらぎらした光と喜色を目に浮かべ、花が咲くようだ。
ルーフィのそれは、無邪気でかわいらしい。
でも男の方はというと、見るだけで背筋がぞわっとする気色悪いものだった。
たまに、奴隷という名前の養女を求めて教会を尋ねる下種がいたけど、あぁ、そういえば彼らもあんな気味の悪い笑みだったなと、あたしはぼんやり思った。
思わず睨むように見ていたから、だろうか。
男があたしとリードに気づき、表情を一瞬堅くする。
だがすぐに温和そうな笑みを浮かべて見せて、エルディクスに一礼した。
「ではエルディクス様、またいずれ」
「エルディクス様にはルーがいるんだから、浮気はダメなんだからね!」
そして、彼に手を振るルーフィの手を引いて、足早にどこかへと去っていく。リードはさっとユリシスに視線を向けた。一瞬置き、ユリシスは小さくうなづいて二人を追いかけていく。
それからリードは、こちらにゆっくり振り向く、己の側近の前に立つ。
ちらりと見えた視線は鋭く、怒気のようなものをあたしは感じた。
一方、エルディクスはこちらを見て薄く、笑みのようなものを浮かべている。
作り笑いってリードが言っていたけど、これのことなんだろうか。
「やぁ、リード。何か用?」
「こんなところで、あの親娘と何の密談だ?」
「……密談って、ほどじゃないよ」
エルディクスはそう言って笑うけど、とても信じられない言葉だ。こんな場所で話し合うなんて、しかも人が来たらやめるとか、とても公的なものとはあたしには思えない。
あとこれは私情だけど、ルーフィが絡んでる時点でもうダメだ。
どう見たって、あれは『ヒソヒソ話』だろう。
明らかに、後ろ暗い内容をお話していたんです、と書かれた看板を背負っていた。
それでもエルディクスはきっと、しらばっくれるんだろうと思う。でなければリードが現れた時点で何かしら言うだろうし、作り笑いをする必要だって無いだろうから。
「あの男爵令嬢を、どうする気だ」
リードも同意見なのか、いつになく強い口調でエルディクスに迫る。
声は低く、明らかに怒っているのがわかった。
「あの女と結婚するのか」
「……さぁ、ね。そういう話はあるけど」
「マツリはどうなる。お前があいつの『すべて』なんだぞ」
「じゃあ……リードが飼ってあげればいいよ」
「か、う?」
「男爵との話はもうついた。あとは最終調整するだけなんだよ。だからね、これは『終わったこと』なんだよ、リード。所詮はすべて政略さ。うまくことを運ぶための手段でしか無い」
政略結婚。
貴族社会では良くあること。
あたしとリードのそれだって、ある種の政略と言っていい。
まぁ、それはともかく。
どうやらエルディクスはルーフィと政略結婚するらしい。マツリを捨てて、身も心もボロボロになったままの手放して。行き場のない世界に放り出してしまうつもり、らしい。
「マツリがあれこれ言われているのは知ってるでしょ? そこは彼がいろいろ、手を回してくれるらしくてね。マツリなら一人でも大丈夫だろうし、ボクも心置きなく手放せる」
「……お前、何言って」
「もうマツリは要らないってこと。リードが欲しいならあげるけど?」
「おま、え……っ」
「り、リード様、だめっ」
思わず殴りかかったリードを、シアが飛び出して止めようとする。
でもその前に、エルディクスを『それ』は襲った。
白い棒。
あたしの声を作るもの――チョーク。
いきなりの横槍に、彼はすぐには動けなかった。あたしは、さらに一本、もう一本、次から次へとチョークを投げつける。もったいない、という言葉は脳裏で口をふさがれていた。
そして最後の一本で、あたしは石版に大きく文字を、声をたたきつけた。
『どうして彼女を捨てるの』
エルディクスと一緒にいる時、マツリは穏やかに微笑んでいられた。今みたいに、周囲を気遣うような痛々しい笑みじゃなかった。作り笑いなんてしなかった、少女らしく笑ってた。
彼女は、間違いなく幸せだった。
エルディクスと、夫となった彼と一緒にいられて、彼女は幸せだったはずだ。
確かに始まりは良くなかったのかもしれない。異世界から誘拐してきた彼にとっては、彼女はそこまでするほど魅力的な道具だったのかもしれない。それだけだったのかもしれない。
でも、マツリは、マツリは。
確かに彼に――恋を、していたんだ。
それをエルディクスが、気づいていないなんてありえない。
知っていて、その恋心すら利用したなら、あたしは彼を許さないだろう。でも、そう交流があったわけではないけど、彼がそういうことをする人ではないと、あたしは信じたかった。
「――そんなの、わかってるよ」
頬についた白い粉をぬぐいながら、エルディクスが低い声で言う。
「ねぇ、ボクがどれくらい一緒にいたと思う? わかるよ、相手の気持ちぐらいさ。彼女の気持ちぐらい、きっと本人よりも、だって、ボクはリードみたいな『子供』じゃないからね」
おい、と不満げにリードが一歩前に出ようとするが、あたしが服を引っ張って止める。
今はエルディクスに喋らせてあげたい。
後でいくらでも、グチには付き合うから。
あたしの意図がわかったのか、彼は黙って引き下がってくれた。エルディクスはあたし達の様子に気づかない。気づかないまま、言葉を静かに連ねて、気持ちをそこに載せていく。
「……わかったんだよ、わかってしまうんだよ。彼女の反応が、表情が、声が、ゆっくりとだったけれど変わっていって。ふとした瞬間に、それを見て、感じて、ボクは思ってしまうんだ」
にじんでいた嫌悪が消えて、戸惑いの色が生まれ。それさえも消えて、切なさと悲しみをまとう『それ』に気づいて。手を伸ばしそうになり、けれど勘違いだったらと引っ込めて。
そうしているうちに時間は流れた。
気づけば、一年。
最初はただの都合のいい道具、駒だったのに、気づけば大事になっていて。
その死に恐れ、失えないと感じるほど。
『エルディクスは、リードや国を守りたい?』
「当たり前だろ……それが、ボクの目的で、目標だからね」
『そんなの、ムリだよ』
睨むように、あたしは彼を見る。
『好きな女の子一人、守れないヤツが国なんて守れるわけがない』
国は、たくさんの人が集まったもの。彼女はそこに含まれる、ちっぽけな『一人』かもしれない。いざとなったら切り捨てなきゃいけない、その程度の価値しかない存在かもしれない。
でもね、自分のことを想ってくれる、慕ってくれるその『一人』を。
守れない、救えないようで、どうやって国を守れるのか。
マツリ一人守れない、助けられない分際で、偉そうに国だとか政略だとか。
あたしには、とんでもない『驕り』に聞こえた。
「そんなことはわかってるよ!」
足元に転がるチョークを踏み砕き、エルディクスは声を荒げた。
……うまい具合に、彼に火をつけられたらしい。彼みたいに取り澄ましたような子は、そうすることで取り繕っているような人は、こうやって怒らせるのが一番手っ取り早い。
小説からの受け売りだったんだけど、うまくいって良かったと思う。
売り言葉に買い言葉。
こうなれば、彼は本音を言うしかない。
「だけどボクには何もしてあげられないじゃないか。いっそ彼女がさ、あの令嬢みたいに立場だとか財産が好きなら、それはそれでよかったよ。わかりやすくて、差し出せて。だけどマツリは何も望まない、望んでくれないから、余計に自分が間違ったことをしたって思って」
「エル……」
「だけど気づいたんだよね。彼女が望んでいるのは『帰還』だって。きっと彼女はそんなこと言わないだろうけど、帰りたいんだろうって。帰れない代わりに何でもしたいと、そう思ったけれど、ボクの傍にいる限り彼女は平穏にいられない。だったら、手放すしかないじゃない」
エルディクスは言い、どこか泣くように苦笑する。
マツリは平穏な世界から、まったく違う世界に浚われてきた。
立たされた舞台は政略と謀略に晒された彼の妻、そして未来の王妃の護衛役。
今回はよかった。命を落とさずに済んだ。
でも次は?
次も同じように助かるのか、それとも――。
「だから、お前、マツリのことを」
「そうだよ? ボクから離れて、城からも離れれば、彼女は普通の、人並みの幸福と平穏を手にする人生を送れる……これ以上の、最善も最良もない。ボクにはもう、それしか返せない」
肩を揺らし、エルディクスは顔をあげた。
笑っているけれど、まるで笑っていない笑みの仮面が、そこにある。
「ボクには彼女を幸せにしてあげられないから」
これしかない、と言い残し。
一瞬、マツリがいる部屋の方角を見るように目を細め。
エルディクスは、あたし達に背を向けてどこかへと去っていった。