笑顔
日常は、淡々と流れる。
あたし――未来の王妃にして、神託の花嫁の誘拐騒ぎもすっかり過ぎ去り。
再び、以前と変わらない日々が戻ってきた。
違うのは、シアが傍にいることと、マツリが傍にいないこと。
あれから安全を考えて、あたしとリードはまた同じ部屋で過ごすことになった。というか仮眠室に住んでいる状態だったリードがこっちに戻ってくるだけ、という状態なんだけど。
そうして一緒に眠ることになったわけで、しかし特にこれということはない。
一日のことをあれこれと話し、あるいは聞きあって。
それから同じベッドに入って眠る。
変わったことといえば、時々、あたしが抱き枕にされているぐらいだ。体格的にちょうどいいらしい。でもそれだってそんなに嫌ではない……というか、いい加減に慣れてもきた。
子供みたいだなと思えば、うん。
……まぁ、これを言ったら本人が激怒するだろうから、言わないけど。
今日もリードは朝から仕事だ。
以前の日々が戻ってきたのはあたしだけで、彼はまだ後始末に追われている。
朝食は一緒にとったけれど、昼と、時々夜は別々。慌ただしく部屋と部屋を往復する姿を見ていると、現状が落ち着くまでは執務室で休んだ方がいいんじゃないかって思う。
でも提案したらしたで。
『いや、それはなしだ』
とか言って、一瞬で却下されてしまうわけだ。
よくわからないけれど、警備上以外にも、何か理由がある……のかもしれない。詳しいところはやっぱり聞かされていないのだけれど、聞いてもどうにもならないから尋ねなかった。
そんな感じに、あたしの周囲はぱっと見は穏やか。
姉妹のような関係と絆があるシアがいつも傍にいてくれるし、こじれていたリードとの関係もそれなりに良好。その中に、ぽつんと黒い点のように取り残されたあの夫婦の問題。
エルディクスは仕事の合間に、令嬢に囲まれる日々を送っている。
ユリシスは何か言いたげにしていたけれど、今は見て見ぬふりをしているようだ。従兄弟といえども彼は分家に当たるらしく、いろいろ力関係とかで言えないことも多いのだろうか。
マツリは、静かに傷を癒すことを優先している――ように、見えるんだけれど。
『あんまり、笑わなくなったの』
珍しく昼食を一緒にできた日、あたしはそっとリードに告げた。
ほぼ毎日、あたしはマツリを尋ねている。諸々のことがあって、彼女はどちらかというと遠巻きにされている感じだ。エルディクスに気を使ってか、見舞い客もいないと聞いている。
だから、あたしはシアとユリシスを連れて、連日押しかけているわけなんだけど。
――最初に気づいたのは、意外なことにユリシスだった。
「マツリの笑みが、消えたようです」
見舞い終わって部屋に戻る途中、ユリシスが呟いた一言。
あたしもシアも、そんな風には思わなかったから、驚いてしまった。
彼女は、いつも笑っていた。確かに以前ほど明るい、元気そうな笑顔だとはさすがに思わなかったけれど、でも『消えた』ということを思い浮かべるほどではなかった。
そう言うとユリシスは、ゆるく首を横にふる。
「……あれは、文字通り絵に描いたような作り笑いですよ、姫様」
淡々と、けれどどこか悔しさをにじませて。
「彼女は周囲に気を使っているわけです。……自分の心を砕きながら」
もう砕けているのに、と。
悔しげに呟かれた最後の言葉は、誰に当てたものなのか。
普段、ユリシスはぼんやりとしている……というか、どうにも表情が読めない人だ。少し離れたところから、静かに状況を見守っている感じというか、実年齢以上に大人っぽいと思う。
一応、それなりに実力はあるんだろう。
表情はどことなく眠そうで、大丈夫かなって時々思うけど。
そう思わせる要因の一つとして、あたしはあの乏しい表情が原因かなと思う。リードやエルディクスあたりと比べると、ユリシスはあんまり感情が表に出てこない人だった。
あたしの周りは、比較的感情表現が顔に直結してる人が多い。
だからユリシスのような人は、とても珍しく感じる。
そんな彼が、珍しく感情を表に出していた。
その矛先にいるのは、彼と似た容姿をしている、同い年の従兄弟だろう。今も、あたしの知らないところで令嬢に囲まれて、侍らせて、にこにこと笑顔と愛想を振りまいている彼が。
どこから見ても被害者であろう、一人の少女を……壊した。
「笑わない……か」
エルもそうだな、とリードは呟く。
そして彼は残り少ない食事を、呟きの後に一気に口の中にねじ込んだ。
あたしはもう食べ終わっていて、デザート待ち。リードが食事を終えたことで、フルーツをふんだんに使ったパイが目の前に並んだ。今日はりんごを使ったアップルパイのようだ。
シアが紅茶を、実に慣れた手つきで入れてくれる。
この部屋にいるのは彼女と、あたしとリード。
外の物音が聞こえる場所にユリシスと、彼の配下の騎士や兵士が数人。
シアはあたし達の会話をジャマしないためなのか、深く頭を下げると空になった食器を手に部屋を出て行った。一緒にいてくれないことが少しだけ寂しい――なんてことはない。
扉が閉まる直前、振り返った彼女はニヤリと笑っていた。
明らかに、あたしをからかっている笑み。
一時期、リードとあたしの仲がこじれにこじれて険悪だったのと、今も仕事でなかなか一緒にいられないから、チャンスだねがんばってねハッカ、ということなんだと思う。
そんな笑みで励まされても、話題が話題だから……うん。
「あー、えっと、エルも同じってことの意味だけどな」
フォークでパイをつつきながら、リードは言う。
行儀悪いな、と思うけれど人目もないから別にいいか。
「アイツの場合、まじで笑わなくなったからな……愛想笑いは、しょっちゅうだけど」
『令嬢相手?』
「あぁ。今は笑う余裕がないんだろうな。俺やユリシスにはあんまり笑わない」
愛想笑い向けられるよりはマシだけどさ、と呟く。
それは、確かにそうだと思う。
あたしだって、例えばシアに愛想笑いを向けられたら悲しい。だったら、そんな無理して笑わなくていいと思う。しかめっ面でもいい、愛想で取り繕うことだけはしないでほしい。
けれど同時にこうも思うだろう。
――どうしたら、あなたをそうさせる原因を取り除けるの、と。
もぐもぐ、とパイを味わいながらあたしは考えた。
どうやればいいんだろう、って。
どうやったら、みんな幸せになって、笑顔になれるのか。
そんなことはムリだとわかっていても、どうしてもそれを望んでしまう。
「食べ終わったら、ちょっとマツリを見舞うか」
あたしより早く食べ終わったリードが、紅茶を飲みながら言う。
そういえば、彼は忙しくてぜんぜん会いにいけていないと聞いた。もしかしたらリード相手なら何か、あたしに言うのとは違ったことを口に出してくれるかもしれない。
こくこく、と頷いたあたしは急いでパイを食べ、紅茶で喉の奥へと一気に流し込む。
本当は味わって食べたいけれど、今は時間が惜しい。
リードはやっぱり激務気味で、いつ呼び出されてもおかしくないのだ。あたしのせいで遅れたりしたらもったいない。今こそマツリのために、あたし達が動かなきゃいけないはずだ。
慌てるなよ、と苦笑する本人は、ぜーんぜんわかってないけど。
■ □ ■
すぐに動くのはダメ、と言うことでしばらく紅茶を楽しみ、あたし達は部屋を出た。
シアとユリシスだけをつれて、マツリの部屋を目指す。
一件の責任を取らなきゃいけないかもしれない彼女は現在、この城に『客人として滞在』している身分だ。ケガはまだ治りきっていないようで、今もベッドから出られないでいる。
魔術で治せばいいのに、と思うけれど、そうはいかないのだそうだ。
よくわからないけど、魔術を持ちいらない医者がいる程度には、魔術――とくに医療系のものは万能ではないのだという。最終的には、患者個人の体力や治癒力がものをいうのだとか。
そんな理由と、例の集団が彼女に何かするかもってことで、城にとどまっている。
実際のところは、ある意味で幽閉に近いと思うけど。
警護という名の見張りも、いるし。
でも、今は少しだけそれが安心材料だった。自分を省みずに周囲を気遣うマツリなら、きっと彼らさえ気遣うだろう。警護中に対象、この場合はマツリ本人になにかあったら、彼らの責任問題になるかもしれない。いや、深く聞いてはいないけど、たぶん責任問題だろうし。
そう思ったらきっと……彼女は、軽はずみな行動には出ない。
脱走するとか疾走するとか、そういうのは。
本当は、そんな可能性なんて、考えたくないけど。
でも、それでも不安が消えないから。
何もかも諦めて、帰る場所もない彼女だから、どうしても。
そう思うのはきっと、あたしだけじゃないと思う。
だから、あたしは頻繁に彼女の元に通えるのだろう。
それを許してくれているのは、きっとリードだ。自分がいけない代わりに、あたしに行ってもらっているんだ。でなきゃ、寝る前に根掘り葉掘り、様子を尋ねたりしないだろうから。
「……ん?」
あたしより少し前を歩く彼をちらりと見上げた瞬間、リードは足を止める。
てっきり視線に気づかれたのかと思ったけど、どうやら違うらしい。
その視線は険しく、少し離れた場所を睨むように細められた。