そんな無意味な勘違いを
わたしはね、とマツリは口を開く。
ここじゃない世界から来たの、と続ける。
言葉の意味がいまいち、というか全然ピンとこなかった。
そもそも『ここじゃない世界』って、なんだ?
石版にチョークを押し当て、しかし動けないあたしをみて、マツリが苦笑する。
彼女の説明いわく、文字通り『違う世界』ということらしい。異国は異国、でも世界すら違うまったく別の文化体系と理を持った別の国が、彼女の遠すぎる出身地なのだという。
「エルが、わたしをここに連れてきたの」
「え? え?」
「……誘拐と、その行為は世間で呼称されていると思うのだが」
シアが混乱した様子なのに対し、ユリシスは冷静だった。彼はエルディクスの従兄弟ではあるけれど、マツリのことは異国から嫁にもらった、ぐらいにしか聞いていないという。
たぶん真実を知るのは、ごく一部なのだろう。
本人と首謀者、それとユリシス曰くリードも知っているかもしれないそうだ。
世界を飛び越えるような魔術は、普通の魔術ではない。王族が所有し、厳重に隠されている禁術書などに記されていても何ら不思議ではなく、そうなるとリードが関わっているはずと。
マツリは、小さく頷いた。
……ということは、リードは全部知っているわけだ。
エルディクスが違う世界の、一般人を『誘拐』してきたことを。
この世界とは、理も、文明も、種族なども。
何もかも異なる世界から、彼女は一年前にやってきた。正しくはエルディクスの魔術で強引に招かれた、という感じなのだろうけれど。マツリはそれを『召喚』と言った。
元の世界でのマツリは、本当にごくごく普通の一般の女の子だった。その世界では一定年齢の子供は、それぞれの学力などに合わせた『学校』に通うのが当たり前だったらしい。
ぎむきょういく、というそうだ。
ちょうど、あたしやシアぐらいまでが、それに該当する年齢だとか。
こっちでは学校に通えるのは、貴族だとか金持ちぐらいだ。庶民は教会とかで最低限の読み書きや計算を教わるぐらいで、まぁ、それで事足りるから特に問題は無いと思う。
田舎なんかじゃ、それすらない場合だって少なくないって聞いたことがある。けれどその場合も読み書き計算できなくても生きていけなくはない生活だろうから、問題はないのだろう。
もっとも庶民の場合、田舎もそうだけど街でも、子供は早いうちから働き手としてあれこれしなきゃいけない場合が多い。学校があっても勉強している余裕は、たぶんない。
そう思うと、マツリの世界はずいぶんとすごいなって、思う。
だって国民みんなが学校に通えて、勉強できるんだから。
マツリの世界の学校は、年齢別に何種類かあるらしい。上の学校に行くことを進学というのだそうだけれど、マツリはその進学をしたばかりだったのだそうだ。彼女の世界での学校には制服というものがあって、新しい学校の、新しい制服に袖を通して彼女は生きていた。
それは新しい学校や人々になれて、次第に友達もでき始めた頃。
彼女はその日、いつものように学校から家へ、まっすぐ帰る途中だったらしい。
変わらぬ明日を信じていたマツリは、家の直前で異変に気づいた。
彼女の目の前に広がっている見慣れた景色が、まるで水面のように揺らめき、徐々にあるべき形を失っていることに。ぐにゃりとねじれ曲がっていく光景に、マツリは動けなくなって。
え、と小さな声を漏らすと同時に、彼女が見ていた景色は消えた。
下へと落ちていく感覚に襲われて目を閉じ、気づけば――そこは見知らぬ部屋の中。
豪華な調度品と、やたら大きなベッドのある場所。
そのベッドの傍らに、マツリはいた。
床に座り込んだ状態の彼女の前に、彼は静かに立っていた。
暗がりでもわかる、長く伸ばした金色の髪。
紫の瞳。
すらりとした青年は、自分の目の前に現れたマツリを、じっと見ていた。
こうして彼女は異世界に連れさらわれて、帰れなくなって。
今、一人ぼっちになりかけているのだ。
■ □ ■
「何とか言葉がわかるようになったら、次は魔術の勉強。そして、気づいたら妻だった」
流されるままに流され、行き着いた先。
それが、エルディクス・ライアードの妻、というポジション。
もうじき彼女が奪われるもの。
「わたしのすべては、彼のものなの」
胸に手を当て、マツリは言う。
住んでいる場所も、社会的地位も、職場も、それを得るために必要だった魔術だって、全部エルディクスが授けたものだ。魔術は自然と覚えられるものじゃない。専門の知識を持っている魔術師が教えて、丁寧に手解きをして、ようやくどうにかなる専門的な技術なのだ。
マツリの世界は彼を起点に広がっている。
だから、とマツリは笑みを浮かべて言い切った。
「わたしは、彼の道具。彼の願いを叶え続けるための道具」
でも、とその表情が歪む。
目を覚ましてすぐ、エルディクスはマツリを尋ねたそうだ。
あたしがさっき彼を見かけるよりも早く。
そして、直接言われた。
――もう終わりにしようか。
夫婦であることも、その政略よりも簡素な契約関係も。
それは、二人の関係の断絶を告げる言葉だった。
『手続きはこっちで勝手にしておくから』
エルディクスはそういい残すと、さっさと部屋を出て行ってしまったという。
それからすぐに令嬢に囲まれ、あたしはそれを見たわけだ。
マツリは背を向けて去っていく彼を見送って、わざと彼女に見せつけるように窓の傍で令嬢を侍らす彼を、見ないようにしながらも時折覗き見るようにして。
あたしが来るまで、ずっとそうやっていた。
――何もかも、諦めるために。
マツリは見てしまう自分自身の行動を、そう表現した。彼の隣、そこが自分の居場所ではないと思い知るため。痛いほどに、我が身に思い知らせるために、覚えさせるために。
「エルが要らないっていうなら、わたしは存在しなくてもいい」
「そ、そんな……!」
ダメです、と声を荒げたのはシアだ。
彼女はマツリの手を握って、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「マツリ様がいたから、私、ハッカにまた会えたんですよ!」
「……そう、ね。でもこれは、エルの命令だったから」
「それでもです! あえて私を選んでくれたのは、ほかならぬあなたなんです!」
そうだ、あたしだってマツリのお陰でたくさん救われた。二度と会えないと思っていたシアにも会えた。何より、彼女が守ってくれたおかげで、あたしはこうして無傷なのだ。
エルディクスがいてもいなくても、マツリは立派なんだ。
そんなふうに、自分を卑下する必要なんてないんだ。
「ありがとう、シア……でもね」
シアの言葉に、少しだけ涙を浮かべて。
マツリは、窓の外を見た。
視線の先にいる、エルディクスを見つめるように。しかしそこはユリシスによって、カーテンがひかれて閉ざされている。まだいるかもしれないけれど、幸いここまで声は届かない。
それをどこか、残念がるように一瞥して。
「わたしはエルに壊され、作り直された。もう、彼しか……わたしの世界には、ないの」
目を閉じ、言い切るマツリ。
それは諦めのようで、ある種の拒絶だった。
周囲が伸ばす手を、そっと振り払うような優しい拒絶。
シアはとうとう泣き出して、ユリシスが支えるように外に連れて行った。かすかに、泣きじゃくる彼女の声が聞こえる。まるで、泣けないマツリの代わりに、シアが泣いているみたい。
その声を聞いて、マツリは申し訳なさそうに苦笑する。
痛々しいほど悲しげなのに、それでも彼女はもう涙を流さないだろう。
心と言葉をこめた、ありったけの涙を――彼女はもう、流しきってしまったから。
残ったあたしは、そっと声を綴る。
『エルディクスのこと、怒ったりしないの? 責めないの?』
「……」
マツリは、何かを迷うように視線を揺らす。
言うべきか、言わざるべきか、言っていいのだろうか。
彼女の中でまだ、その判断がつかないのだろう。
何かを彼に言うということすら、考えたこともなかったのかもしれない。自分は道具として使い捨てられる、それくらいの認識であったに等しいだろうから。
それでも、ぽつぽつと彼女は言葉を綴る。
枯れ果てた中に、わずかに残った言葉をそっと拾い集めるように。
「……わたしは、きっとひどいことをされたの」
道具として呼び出され、道具として使われ続け。故郷に帰ることもできず、今は用済みと言わんばかりに捨てられようとしていて。それはあまりにもひどいことで、許されないことで。
それでもマツリは、うっすら頬を赤く染めるように微笑んで。
「なのにどうして……わたしは、勘違いをしちゃったのかな」
大事にされているなんて、そんなことを。
涙をこぼすように、彼女は小さく呟いていた。