傷跡
シアと別れたあたしは、洗濯物を抱えて井戸の傍にいた。結構広く取られている庭の中央に井戸はあって、井戸の隣には小さい子なら隠れられるぐらい大きなたらいが置かれている。
これは、さっき物置から引きずってきたものだ。
あたしは、粉末の石鹸を、木でできた大きなたらいに入れる。そこに井戸から汲んだ水を入れてしっかり溶けるようによくかき混ぜて、次にシーツ以外の洗濯物を入れた。
よーく石鹸水がしみるよう、手で押さえて体重をかける。
しっかりと浸さないと、洗う時に綺麗になりにくい。
次にあたしは、物置から小ぶりのたらいと、洗濯に使う板を引っ張り出した。そのたらいの中にも石鹸をいれて、水を入れてかき混ぜておく。あとは大きい方から適度な量の洗濯物を小さい方へ移し、一枚一枚、板にこすりつけるようにしてごっしごっしと洗うだけ。
これはすぐに片付く、問題はシーツ。なにせ大きいから大変だ。
ざぶ、ざぶ、とシーツを洗う。
ひたすら板にこすりつけ、泡立てながら洗い続ける。
時折、喉の奥の方から、空気の塊がこぽりとこみ上げてきた。それはまるで小さく漏らす吐息のように、口から外へとこぼれていく。前髪が張り付く額には確認しなくてもわかるくらい汗がにじんでいて、あたしは一度手を止めると袖で額を適当に拭って作業を再開した。
これが、意外と体力を必要になる仕事。
ただごしごしとこするだけでは、ぜんぜん綺麗にならない。そんなの、ただでさえ品質が悪い布がただ無駄に傷むだけ。つまり、非常にもったいない結果にしかならないわけだ。
リズミカルに、絶妙な力加減を心がけること。
それはとっても大事。
……そう、あたしはここに来てすぐの時、お姉さんにしっかりと教わった。彼女は今、一緒にここにいたお兄さんと結婚して、遠くの農村で家族を作って暮らしているという。時々美味しい野菜を届けてくれて、子供が生まれるから名前をつけてほしいと神父様に言っていた。
あたしの中に少しだけたまっている、幸せな記憶の一つ。
それを思い出しながら、すぅ、と息を吸い込んで。
ざぶ、ざぶ、と音を鳴らしつつ、再び手をしっかりと動かし始めた。
結構ゆっくりしているのは、そのうち応援が来るから。シアや他の子が、よその仕事を片付けて来てくれる。たぶん三枚目のシーツを洗い終わったぐらいで、くるんじゃないかな。
今頃、台所は右へ左へ、シスターの指示でシア達がせわしなく動いているだろう。今日は魚が手に入ったからそれをパイにするとか言っていたし、特に時間がかかりそうだ。
この時間の台所は、紛れもない戦場。
意思疎通がしがたいあたしは、あの場所にいても邪魔になってしまう。簡単な料理なら作れると自負しているけれど、集団戦となるとちょっと足をひっぱってしまうのは明らか。
だから一足先に、ここでお洗濯というわけだ。
三枚目のシーツに手を伸ばしたところで、朝食のおいしい香りに気づく。
もうすぐシア達が洗濯の手伝いに来てくれる頃合だ。
ひと通り準備が済んだら、あとはシスターだけでなんとかなるので子供はお役御免。しばしの遊びに興じたり、他の子の作業を手伝ったり。ちょっとしたお勉強は……逃げられるかな。
あたしは一度手を止め、彼女らが来るまで休憩する。
少し離れた場所に座り込んで、ずっと動かしっぱなしだった腕を振った。
考えるのは、朝ごはんのこと。
海がそばにあるこの町は、魚が安く手に入りやすい。加工とかして内陸の国に輸出とかもしているそうだ。とはいえ、あたし達の口に入る魚は、あんまり美味しくないものが中心。
美味しい魚は、貴族やお金持ちとかに渡ってしまうものだ。
あたし達に回ってくるのは、小さい魚。味もバラバラで、基本的にそんなにおいしいわけではないらしい。あたしは他を知らないので判断できないけど、よくそう言われるから。
でも数が手に入るから、数が必要なここではそれでちょうどいい。
パイとスープ、それがきっと今日の朝食だ。
デザートの果物はでるのかな、ぼんやりしていると、遠くからはしゃぐ声が聞こえる。掃除担当の男の子達が、ほうきを剣に見立てて騎士様ごっこで遊んでいるのだ。
食事が終われば同じようなことをして遊ぶ彼らに、飽きというものはないのだろうか。
確実に、学習能力や記憶力はない。
そろそろ、シスターの雷がどっかんと、盛大に落ちるだろう。そんなことを思っていると急に静かになったので、やはりシスターか誰かの雷がしっかりと落っこちたのだろう。
バカだなぁ、と思いながら、あたしは疲れた腕をひざに乗せた。
朝食を食べ終わったら、何をしよう。みんなどこかに遊びに行って、あるいは庭でままごととかして遊んで……シアは、読書だろうか。この前から熱心に、小説か何か読んでいたし。
もしかすると、神父様に勉強を教わるのかもしれない。
あの子は、本当に頭のいい子だ。
どこかいいところに、引き取られたらいいのにと思う。
だけどあたしは、きっとそんなことはないだろう。
そっと、あたしは指先で喉をなぞる。
何重に包帯を巻いてもかすかにわかる、でこぼこした――傷跡を。
その存在を確かめて、あたしは小さく息を吐き出す。
ため息のようなかすかな音が、あたしが生きている証だった。
あたしの今の声は、かつ、かつ、と石版を叩くチョークが綴る文字だ。かつてはこの喉が紡いでいたあたしの声という音はあたしの頭の中にしかなくて、それさえも、だいぶ曖昧で。
いずれあの幼い響きすら、あたしの中から消えてなくなってしまう。
あたしが喋ることができたことも、いつか。
消えてしまうのだと、この傷跡はあたしに告げていた。
■ □ ■
今でこそあたしは、教会の孤児院に暮らす、立派過ぎるほど立派な孤児だけど。
もちろん元々は、そういう身の上ではなかった。
あたしは、十歳まで穏やかな、孤児とかとは縁のない一般市民だった。小さな商店を夫婦で仲良く営んでた両親と、生まれて間もない小さくて可愛い弟と。
四人家族、平和にやっていた。
裕福ではなかったけど、あたしは確かに幸せだった。
髪のことでからかわれることだって、気にならないくらい幸せだった。辛かった相手に言い返したり、それでもうるさい連中を、棒切れを握って、振り回して、ひたすら追いかけて。
もちろん、やりすぎると怒られたりして。
そんなごく普通の日常があった。
家を手伝うのも、当たり前のこと。簡単な家事は、全部お母さんに教わった。二人して店に立って忙しそうだったから、少しでもできることを増やしていきたいと願っていた。
いつか、弟がこの店を継ぐのかな、とか。
その片隅であたしも、店を手伝っていくのだろう、とか。
いや、やっぱりお嫁に行くのかな、とか。
十歳児らしい、夢にあふれた他愛のない未来を、思い描いて。
その日を――迎えてしまった。
あたし達家族はその日、生まれて間もない弟を伴い、病院から帰る途中だった。
かわいい弟の、健康を確かめる定期健診。
医者の先生のお墨付きが出るほど、弟は健康だった。誰に抱かれても泣かない、笑顔がすてきないい子だとみんなが褒めてくれる。お父さんとお母さんの間を、あたしは上機嫌に歩く。
早く、弟と遊びたい。
どんなことをして遊ぼう。
何を教えてあげよう。
最初に、おねえちゃんと呼ばせてやるんだ。
目を細めて笑う二人に、あたしはいろんな『夢』を語った。弟でこれだから、妹だったらもっとすごかったんだろうなと、今はそんなことを考える。とにかくあたしは満ち足りていた。
たしか、そんなころだったと思う。
制御を失って、暴走した馬車が――突っ込んできたのは。
誰かが叫び、ふわりと身体が浮かんで、全身に声も出ないほどの痛みが走って。
特に、喉が痛くて。
じわりと浮上する意識と視界で、あたしは遠くに倒れる両親を見つけた。ぐったりとしたまま動かない二人を見つけ、ほんの少しの安堵と、動かない二人という光景への不安を抱える。
手を伸ばすけど、動けない。
なんだか、周囲がやたらと騒がしくて。
あぁ、お母さんの傍に、すぐ傍に弟がいる。
泣きもしないで耐えている、強い子だ。さすがあたしの、あたしの大事な弟。
だけどあの子はまだ小さいから、助けてあげなきゃいけないの。
おねえちゃんが、たすけてあげる。
だけど、どうしてもそれがかなわないあたしは。
――たすけて。
声が、出なかった。
痛いのに、こんなに痛いのに。
弟が、あんな場所に横たわっているのに。
お父さんもお母さんも、いるのに。
再び沈む意識は、あたしから何もかもを奪い去る。視界も感覚もすべて奪っていく。そしてふいに目が覚めた時、あたしは少し前までいた病院の中にいた。
お父さんと同い年ぐらいに見えるお医者様は、安堵の笑みを浮かべている。
『気分はどうだい? ……あれから、一ヶ月も経ったんだよ』
そんなに、と言おうとしたけど、やっぱり声が出なかった。
声を出すと、普通は喉が震える感じがある。
だけど、今はなぜかその感覚さえなくて。
せんせぇ、とあたしは唇で問うた。
お父さんとお母さんは。
弟は、あたしの家族は――あたしの声は、どうなってしまったんですか。
お医者様は、言いにくそうに表情をゆがませて、でも事実を伝えてくれた。
あたしの喉は――馬車のガラスで切り裂かれてずたずたになった。血がたくさん出て、命が危なくなっていた。選べるのは二つだけ。命か声か。そのどちらかしか救うすべがなかった。
お医者様は命を優先して、喉を犠牲にあたしを救った。それでも危なかったけど、一ヶ月の間に何度か危ないところまで行きかけたそうだけど、あたしはこうして生きることができた。
だけど、お父さんとお母さんは、弟は。
『ごめんよ……手の、施しようがなかったんだ』
即死、というものだったらしい。
どうやっても、奇跡でも起きなければ、助からない状態だったらしい。
泣かなかった弟。
強い子だと思った。
だけど、違った。
泣かなかったんじゃなくて、もう、あの時は、もう。
『――』
喉の奥から空気が漏れる。
視界がゆがんで、涙がだばだばと流れていった。
だけど、あたしは、ちゃんと泣くこともできない身体なんだ。生まれて間もない赤ちゃんでもできることが、あたしにはもう不可能だった。そんな簡単なことすら、叶わない。
泣き声をあげられない。
感情を、外に出す回路が死んでしまった。
声も死んで、誰かと深くかかわる力が死んで。別の要因で同じようなことに、声を失うことになったとしても、それでもいいよって、大丈夫だよって笑ってくれるであろう家族さえ。
もうどこにもいなくて。
あたしは一人。
ずっと、これから一人で生きていくしかない。
神父様も、シスターも、シアも。他のみんなもあたしを励ましてくれる。ハッカは誰よりもいい子だから、必ず居場所が見つかるよって。一人で生きることはないよって。
うん、とあたしは笑顔を浮かべてうなづくけれど、本当はそんなこと思ってもいない。
鏡で見るこの喉は、あまりにもひどい。
自分の肌なのに、触れるのも嫌になるくらい。
でも触ってしまうのは、過度な期待を持たないよう戒めるため。
期待なんて、するだけ無駄なんだよって。
言い聞かせるために。
すっかり癖になったその行為をまた、繰り返していると。
「遅くなってごめーん」
そこに走ってくる、シアと他の女の子達。
いいよ、と言うようにあたしは手を振って、みんなで残りの洗濯物に取り掛かった。
ごしごし洗う係と、水ですすぐ係に分かれての作業。
あたしは、水ですすぐ係に入る。
石鹸などを綺麗に落としたものを、庭に張り巡らされた紐に引っ掛ける。風が吹いて飛んでいかないように洗濯バサミでおさえて、また次のシーツを綺麗にして、そして干して。
あっという間に、庭は洗濯物で満たされた。
毎朝のこととはいえ、この光景を見ると達成感が胸に沸いてくる。
それはあたしだけじゃなくて、他のみんなも同じらしい。
「皆さん、そろそろ食事のお時間ですよ」
そこへシスターが、二階の窓から身を乗り出して、声をかけてきた。
ぱぁ、とシアの表情が明るくなる。魚がとても大好きな彼女は、とにかく魚が使われる料理に目がない。小さい洗濯籠を振り回しながら、シアは誰より先に屋内に飛び込んでいった。
そんな姿に、互いの顔を見合いながら苦笑するのも、もちろんあたしの日常の一部。