目覚めぬ少女
姫様、と声をかけられる。
気づくと傍に、ユリシスが立っていた。
外はすでに薄暗くて、もうすぐ夕食の時間なのだろうと思う。これくらいの空模様になっていると、いつもはお腹が空いて、むしろご飯はまだかなってそわそわする感じだった。
だけど、少しもお腹がすいていない。
……お昼を、食べたような記憶はないのに。
あぁ、でも食べようって言われたような気はしている。少しだけ、焼き菓子を口に入れたような記憶もある。だけどあまり食事をとれなくなっていた、自覚するのに治らないけれど。
動かないあたしの肩に、そっと手が置かれる。
励ますように、あるいは諭すように。
「ここは先生に任せて……もう、部屋へ」
ユリシスに退室を促されるけれど、とてもそんな気分にはなれなかった。それが正しいと理性は語り、それ以外が拒否する。首を横に振って、まだここにいたいと意思表示した。
でもわかっている。
ここに長くいたところで、あたしには何もできないんだって。
だけどね、わかっているからこそここにいたいの。何もできなかったから、せめてその手を握って目覚めを待っていたいの。ありがとうとごめんなさいを、誰より先にいいたくて。
マツリは、まだ目を覚ましてはくれない。
■ □ ■
――あの誘拐事件から、二週間ほど。
あたしはよく知らないけれど、とりあえずあの連中は現在牢獄の中だ。
細々とした軽犯罪ってヤツが大半とはいえ、余罪がそれこそ数えきれないくらい、文字通り腐るほどあるらしく、あの組織の中での立場が上に行けばいくほど厳罰は免れないという。
あの日、あの儀式めいた空間にいた中には女性やその子供も存在していたけど、全員ひとまず一箇所に集めて監視されている。話が通じなかったり錯乱していたりと大変だそうだ。
特に、あの時、マツリを傷つけてしまった男なんかはひどい。
茫然自失状態が続いている。なのにふと目が覚めたように動き出し、よくわからないことを喚いて暴れたりするそうで、魔術やクスで寝かしつけてベッドに縛り付けているそうだ。
それはつまり……たぶん、そういうことなんだと思う。
あんなに崇めていたんだもの、それを自分が殺しかけたなんて知ったら。
彼以外の人々にマツリの状態を伝えたりしたら、きっと同じような人は増えるだろう。
それだけ彼女は、彼らにとってとても重要な存在だから。だから彼女の様態については緘口令というか、知っている人はごく一部に限られるように手配されているという。
まぁ、あの人達のことはいい。
あたしにはもう、手の出せない段階の話だ。
そもそも、手を出す気さえないけど。
現状、残っている問題は秘密だったお出かけが、あの日急遽決まったあの外出が、どこから敵に漏れたんだってことだ。マツリはこうだしあたしは言わない、兵士も調べられたけれど彼らとの接点はなかった。誰が話を漏らしたのか、リードはそれを調べさせているらしい。
そもそもあの状況で出かけるなんて、というあたりの問題はともかくとして。
マツリと兵士達しか知らない、あのことが漏れたというのは確かにおかしいことだ。前から決まっていたならともかく、あたしの外出はほんの数時間前に決まったことだったんだから。
内通者がいるかもしれないな、とリードは呟き、真剣な目をしていた。
今は調べていないし、そもそも疑いも向かないようなところにいる侍女や兵士が、偶然聞いたお出かけの話を仲間に流した。そんな可能性を彼は、あとユリシス達も考えているらしい。
まるで喉元にナイフを突きつけられたようで、あたしは何もいえなかった。
文字を、綴れなかった。
だってつまり、あのお出かけがなかったとしても、その潜伏した何者かの手によって、何かあった可能性があるわけなのだから。だから、騎士団は今、ぴりぴりしているという。
そんな殺伐さが増している状況の中にあって、マツリはまだ目を覚まさない。
安全を考慮して、彼女は回復するまで城に置かれることになっている。城に常駐している医師とその助手の人が寝泊まりできる客間を病室にして、ベッドの中で目を閉じたままだ。
幸い、傷自体はそう深くはなかったらしい。
でもあの場所が僻地だったのと、薬がなかったために治療が遅れてしまった。血がだいぶ流れてしまったとかで、今もまだ血色が良いようには見えない。これでもマシになったけど。
血を回復させるには食べるしかない。なのに、マツリは目を覚まさないままだから、回復もゆっくりだ。こればっかりは魔術でもどうにもならない、自然と目覚めるのを待つしか無い。
だから、あたしは手をとって祈るだけ。
でも、でも……。
「あのね姫様」
と、診察などに使う器具が入った籠を手に、部屋に戻ってきたのはお医者様だ。あたしの主治医でもある彼女は、あれからずっと城に泊まりこんで仕事をこなしていらっしゃる。
程よく砕けた口調で話しかけてくれるから、あたしは先生が好きだ。
その先生が、あいた方の手を伸ばして。
「ここであなたが倒れたりしたら、彼女は余計悲しんでしまう」
まるで、娘か妹にするようにあたしの頭を撫でた。
いや、ここは妹としておきたい。まだ二十代ですからね、と怒られそうだ。
実際先生は若くて綺麗で、モテてもいるというし。
「だからお休みになってくださいね、姫様」
ね、と言い聞かせる声に、あたしは首を横に振る。
調べ物や仕事などで、夫であるエルディクスが傍にいられない分、あたしだけでも傍にいてあげたい。あたしには特別しなきゃいけない仕事はないから、だから、だから。
だけど時間も遅いし、食事を取らないとマツリが悲しむ。
自分のせいであたしが倒れたりしたら、きっと悲しそうな顔をする。
自分の無力さを嘆きながら、あたしは立ち上がって部屋を出た。
こういう時、あたしは何をできるんだろう。
神様にでも祈ればいいのか。
あたしに、試練と困難ばっかり与える神様に。
どうかマツリを助けてくださいって、彼女を早く目覚めさせてくださいって。
そんなことしか、あたしには。
「……」
ぎゅう、と服を握り締める。
何が神託だ、花嫁だ。あたしは我が身も守れないし、誰かを救うこともできない。魔術の一つも扱えないし、守られるばかりでなんの役にも立てていない。迷惑ばかり振りまいている。
神様なんてやっぱり嫌いだ、好きになれない。
困難とか試練は雨のように与えるくせに、それでいて傘は決してくれないのだ。雨宿りできる場所も用意してくれないし、どこに向かえばいいのかという地図すら差し出してくれない。
何もできないあたしに、守られるだけの価値が――。
「やぁ、ハッカ。それにユリシス」
なんて考えていると、書類の束を抱えたエルディクスが前方から歩いてくる。
たぶん、リードの執務室からどこかに移動する途中なんだろう。ついでに、少しマツリの様子を見ていくのだと思う。こうして遭遇するのも、すでに数え切れないほどあった。
たぶん、あたしの次にマツリのそばにいるのは彼だ。
「マツリは、相変わらず……なんだろうね、その様子じゃ」
その言葉に、あたしはうつむきながら小さくうなづく。
彼と交わす会話は、マツリに関するものばかりになってきた。本当はあの事件の続報とかこれからどうするんだとか、尋ねたいこと、知っておきたいことは山ほどある。
でも、マツリがああなってしまったエルディクスに、それを聞くのは気が引けて。
だからあたしは、時々ユリシスにそれとなく尋ねる程度だった。もっとも、それさえ『そのうちに説明があります』としか返らなくなったから、最近は何も訊いていないけど。
小さく息を吐き、あたしは再び歩き出す。
ここで突っ立っていても、何もどうにもならない。食事の準備もあるし、せめてこれ以上の迷惑だけはかけないよう、今はおとなしく部屋に戻るのが一番だ。
それに、エルディクスのジャマはできない。
忙しい彼に、もっとマツリのそばにいてほしいと思う。そうすればきっと、マツリだって目を覚ましてくれる。お伽話でもよくあることだ、相手役をきっかけにお姫様が目覚めるのは。
いつものように出会い、会話をし、そしてすれ違おうとして。
「あぁ、そうだ」
すれ違ったはずのエルディクスが、足を止めて振り返った。
その視線の先にいるのは、あたしじゃなくてユリシス。
何か、あったのだろうかと不安になるけど、そこに浮かぶのは薄いけれど笑み。
「例の侍女について、話をするの忘れてたよ」
「……そういえば、そうだったな」
ユリシスが口を開く。
あたしも、やっとその存在のことを思い出した。
そもそもの原因というか、きっかけとなった『侍女』の話。あの日、城で働くために迎えにいくということは、かれこれ二週間はその就職について放置されていたということになる。
いっぱいいっぱいで思い至らなかったとはいえ、少し申し訳なくなった。
彼女――侍女だから女性か少女だと思うけど、あまり気に病んだりしていなければいいな。
「とりあえず、彼女を今日、城に召抱えたよ」
「……ずいぶん、時間がかかったようだが」
「あんなことがあったからね。いろいろ疑いやらなんやら。最終的にはボクの強権発動で」
ふぅ、と憂鬱そうにため息をこぼすエルディクス。あの日、前々からの予定をサクっと終わらせるはずだったものを、二週間かけて何とかした、という感じのようだ。
確かに、タイミング的に何らかの疑いが向けられてもおかしくはない。そこにやましいところはないのだろうけれど、余計な邪推や付け入る隙をうむのはあたしでもわかることだ。
あのお出かけを、知っていてもおかしくない立場なのだから。
エルディクスは、それをかなり強引に何とかしたようだ。
何と言うか、申し訳なくなってくる。リードもエルディクスも、そしてユリシスも。マツリの治療にあたっている先生とかも。みんな、この二週間、ずっとずっとがんばっていたのに。
あたしは何をしていたんだろう。
ひたすら、マツリの傍にいるだけだった気がする。
勉強なんて投げ出して、ずっと彼女の傍にいるだけで。
しかももっと傍にいたいなんて、ワガママまで発揮して困らせて、迷惑をかけて。それしかできないんだから、なんていうのは結局自己満足なんだろう。わかっていたけど。
だからこそ、自分にしかできないところにみっともなくしがみついて、そこで考える。
何か、あたしにできることはないだろうか。
考えても、何も出てこない。
でも考えていないと、本当にあたしがダメになりそうだから。