最期の笑顔
あたしとマツリが誘拐されたことは、あれからすぐに伝わったらしい。
というより、あたし達がいないことが発覚し、マツリの置き手紙のお陰でなーんだ二人一緒に出かけたのかってひと安心した直後だったんだそうだ。ボロボロにされた兵士の、一番元気だった人が力の限りに城まで走って、そして事態は明るみに出たのだという。
誘拐犯の一味は前から目をつけていた集団らしく、すぐさま騎士団を招集して人員を整えて出発。リードは無理やりついてきたという。黙って城で待ってられるか、とのことだ。
とはいえ王子とその花嫁がこんなところにいるのはマズい。
なので、このことは表向きはマツリの誘拐事件としてのみ扱うという。あたしはもちろんのことリードも、一応ここにはいないという『設定』ですべて片付くと彼はいった。
筋書きとしては『二人がお忍びでの視察中に誘拐事件が起きた』だけ、となるとか。そんなの信じる人がいるのかとあたしは思うけれど、信じる信じないは二の次だという。
表向きでもたてまえでも、そういうことになっていればいいんだそうだ。
王族って、やっぱり面倒なものだなと、思った。
■ □ ■
そんな説明を受けている横では、縄を外されてようやく自由の身になったマツリがエルディクスと話をしていた。やっぱり痛いのか、険しい顔で手首を何度も撫でている。
それから、視線を向けないまま俯き、小さな声で。
「ごめんなさい、贈り物の服……ダメにしちゃった」
真っ先に、謝罪の言葉を告げていた。
あの服、やっぱりエルディクスからの贈り物だったんだ。当然か。あんなにマツリに似合っていたのだから。ダメにした、ということは処分されてしまったのかもしれない。
ひどい奴らだと思う。
ものを大事にできないなんて。
「いいんだよ、また買えばいいからね」
「……うん、でも、ごめんなさい」
無事でよかったとエルディクスは言って、たぶん笑って、マツリを抱きしめている。すすり泣くような音がして、マツリの細い腕がエルディクスの背中に回された。
どうやら、あの夫婦は大丈夫らしい。
ほっとひと安心していると、今度はリードが、すまない、なんて言い出した。
「まさかこんなことになるなんて思わなくて……巻き込ませて悪い。こんなことなら、微罪でも何でもいいから、かたっぱしからとっ捕まえて、牢獄に押し込んでおくべきだった」
謝罪するリードに、あたしは首を横に振って答える。
あたしだってバカじゃない。
何の罪も無く、市民を捕らえたりできないことぐらいわかる。微罪でも何でもいい、なんて彼は言っているけれど、軽い罪じゃあ牢獄には入れないし、入ってもすぐに出てしまう。
その程度では済ませないし、済ましてはいけない集団だった。
だから尻尾を出すのを待っていたんだ、彼らは。
それより、あたしも謝らなきゃいけない。
マツリの言った通りだった。
あたしを部屋から出さなかったのは、彼らからあたしを守るためだ。まさかこんな連中がいるなんて思わなかったし、想像もしていなかった。警戒するべきは貴族だけだと思っていた。
……あえて言うつもりはないけど、たぶん心のどこかでこう思ってもいた。
あたしは庶民の代表だから、庶民はみんな味方をしてくれるって。
そんな無条件の味方なんてそうあることではないのに、目の前にわかりやすい『敵』がいたこともあってか、きっとあたしはそんな傲慢な考えを当然のように浮かべていたんだろう。
その結果がこれで、しかし被害らしい被害もないなら、よかった。
リード、と心の中で名前を呼ぶ。
もう一度、ぎゅうっと抱きついて背中に手を回す。
これで、少しは感謝とか、反省とか。
そういうのが、いろいろ伝わったらいいんだけど。
「……と、とりあえず、離せ。俺はまだやることがある、から」
あたしに抱きつかれて戸惑ったのか、リードが急に慌てた様子を見せた。強引にあたしの腕を振り解くと、そのまま兵士や騎士と話をしているユリシスのところに行ってしまう。
マツリはまだ、エルディクスに抱きついていた。
あたしの手前、気丈に振舞っていたけど、やっぱり怖かったんだろう。早く城なり家なりに帰って休んでほしい。部屋から出られなくてもいいから、彼女には休息してほしい。
そう思い、息を吐いた時だ。
「ハッカ……!」
エルディクスから身体を離したマツリが、あたしに手を振る。
ずっと険しい表情だった、彼女の笑顔に気が緩んだ。泣きそうな笑顔には強く安堵と安心が浮かんでいて、きっと彼女の目に映るあたしも、同じような顔をしているに違いない。
あたしはいてもたってもいられず、自分から彼女の方に向かう。
「かくなる上は――邪神の花嫁だけでも!」
その時、兵士に取り押さえられていた男が、あたしを目指して走り出した。それは牢屋であたしに、聞いてもいないのに饒舌に、あれやこれやを語っていたあの男。
彼の手に握られた小ぶりのナイフが、その意思を示すように鈍く光っていた。
あたしはどの兵士からも、騎士からも離れたところにいて。
マツリがこっちに向かって、歩き出していて。
男は、ナイフの切っ先をこちらに向けて、走っていて。
気づいた瞬間、あたしの身体は動かなくなった。腰が抜けたわけじゃないけど、こちらに向かってくる彼の目の、ぎらぎらと突き刺さるようなその色に、狂気を感じて。
さっき、祭壇で剣の切っ先を向けられたよりも強く、あたしの身体を恐怖が縛った。
リードがこっちを向いて、顔色を変えて走ってくるのが見える。
ユリシスが、それについて走ってくるのも。
誰も追いつかない、間に合わない。
あたしはよけられない。指すら動かせない。
だから、だから。
「――」
身を堅くして、目を閉じる以外に、あたしには何もできなかった。
けれど、あたしが覚悟した痛みは来ない。
代わりに誰かに抱きしめられる、あったかい感覚があった。
優しい香りのする、柔らかい身体。
目を開けて、その誰かの肩越しに見上げた、ナイフを手にしていた男の――驚愕と、少しの絶望に満ちた表情。あ、ああ、と呻く彼の姿が視界から消える。追いついたユリシスがその襟首を掴んで引き倒し、再び拘束したからだ。抵抗の音もなく、男は静かだった。
リードが、こいつを縄で縛り上げろだとか、近くの兵士、あるいは騎士にに命じている。
そして――エルディクスは、彼は何もできないでいた。
呆然と、あたしの方を見ていた。
あたしを抱きしめている、マツリを見ていた。
「ハッカ、ケガ……ない?」
声を震わせる、マツリの身体から力が抜ける。ずるり、と崩れ落ちていく。
あたしはとっさに、彼女の身体を支えた。
けれど、力が抜けた人間というのは、意外と重い。元々、そう腕力があるわけでもないから抱きとめきれず、マツリに押し倒されるようにあたしはペタンとしりもちをついてしまう。
そして見てしまった。
彼女の背中に、男が握っていた凶器が突き刺さっている光景を。
マツリは、あたしより先に男に気づいたらしかった。
そして走って、あたしと彼の間に割り込んで、あたしをかばって。あたしの肌を裂き、肉に埋まるはずだったそれは、彼女の背中にある。抱きしめるようにして、守ったから。
あたしのせいで、あたしのせいで……!
とにかくケガを何とかしたくて、あたしはナイフを抜こうと手を伸ばす。
「バカ! 抜くな!」
そこに、リードの怒声が飛んできた。
傍らに彼が駆け寄ってくる。
「抜いたら血があふれて止まらなくなる! そのまま、絶対に動かすな!」
兵士から布を受け取ったリードは、それを細く引き裂いて包帯のようにした。ナイフがずれないように注意しながら、別の布を傷口に添えるように置いて、裂いた布で固定していく。
かなり強く抑えているはずなのに、布はみるみるうちに赤く染まった。
「医者の手配をしろ! 早くっ!」
傷口を軽く押さえながら、リードが兵士に命令している。
その間に、布を抑えている彼の指までもが赤く染まっていく。
血が少しも止まっていないことは、明らかだった。
「……え、る」
かすかに、マツリの声がした。
その唇が紡いだか細い声は、彼女の夫の愛称を紡ぐ。
動けない身体で、マツリは傍らに立つエルディクスを見ようとした。
それに気づいたエルディクスは、あたしの隣にしゃがむ。
彼の表情は蒼白としかいえない状態で、一瞬、彼もケガをしたのかと疑うほど。
「マツリ……ボクは、ここだよ」
ゆっくりと、エルディクスの手がマツリの手を握った。
ふにゃり、という感じに、マツリの表情が笑みに崩れていく。お母さんにだっこされた赤ちゃんみたいな、安心しきった幸せそうな笑顔。それをここで浮かべる理由を、考えたくない。
「え、る、わた、ちゃん、と、できた……べんり、どう、ぐ、なれ、た?」
道具、道具って。
今はそんな話をしている場合じゃない。
第一、マツリはマツリで、道具なんかじゃないのに。マツリは生きている、あたしとそう年の変わらない女の子だ。エルディクスから贈られた服をダメにされて、悲しげにする女の子。
けれど、彼女はそれだけを言いたかったのか。
あるいは、それしかもう言う力が残っていなかったのか。
笑みをそのままに目を閉じて、今度こそその身体からすべての力を失わせてしまう。ぱたりと地面に落ちた手。リードが急かす声。もう聞こえてこないマツリの声。
そして。
「マツリ……?」
ぽつりと、涙のようにこぼれるエルディクスの声は。
今まで聞いたこともないほど、震えて、掠れて、弱々しいものだった。