ハッカの日常
さっくりと身支度を整え、あたしは部屋を出た。今日のあたしは洗濯当番。これから各部屋を回って寝間着とかシーツとかを回収し、朝ごはんができるまでに集団でザブザブ洗う。
よって、あたしが抱きかかえているのは自分が使った寝間着とシーツ。あたし一人分だからそんなに量はない。少し前まで相部屋だった子は、お金持ちにもらわれて今は一人だから。
まぁ、彼女は元々そういう家柄の生まれだったから、すぐに馴染むだろう。
今頃は各種使用人さん相手に、ここでも発揮していたワガママを投げつけているのかな。
おかげで迷惑だったけどね、こっちは。
なにせそういう家柄の常識しか知らないから、それはそれはもうわがままで。結局洗濯も料理も掃除も、何もしない子だった。相部屋の子を奴隷のように扱って、何人も入れ替わって。
さすがにあたしの次はもう男の子しかいない、男の子と相部屋になるしかないって聞くとおとなしくなっていたから、なんだかんだで内面は女の子ではあったんだろうなと思う。
とはいえ、やっぱりそれなりに面倒な子だった。
相手はそこそこ裕福で、すぐには没落しそうにないらしいので幸い。
二度と会いたくはないと思う。
そんな面倒娘の面倒を見ていたおかげか、あたしは当分一人部屋だ。朝からやれ髪を整えろだの何だのうるさいのがいない生活、とっても快適。ずっと一人部屋だったらいいのにな。
だって、あたしと同じ部屋に入る子は、次にここに『預けられる子』だから。
あたしがずっと一人部屋だったら、次がいないってことなのだし。
そんな叶いそうにないことを考えながら、あたしは部屋を回る。
念の為にノックしてから部屋に入り、シーツをひっぺがして脱いだものを回収。
それを大きい籠にぎゅぎゅっと詰めたら、次の部屋。
しかし子供達は素直じゃない。男の子なんて、服もなかなか脱いでくれない。やっとひん剥いたかと思えば素っ裸で走りだしたり、もう朝から大騒ぎだ。疲れないんだろうか。
あの体力が羨ましい、なんて枯れた考えが浮かんでしまう。
これで、あたしの同世代の男の子がいたら、少しは言うことをきいてくれるのかな。
たぶんあたしが女だから、なめられているんだろうし。あたしの同年代は元から女の子ばっかりで、十五歳になった何人かの男の子はそれぞれ職人さんに弟子入りして出て行った。
今頃はどこかで、必死に頑張っていると思う。
だから戻って来いなんて言わないけど、いてくれたら楽だったと思う。
ただ、その経験から、下の子は楽だろうなと思う。逆に男の子が多いから、何人かが同じように弟子入りなどでいなくなっても、一人もいないなんてことにはならないはずだし。
それは、今の苦労を思えばとても羨ましい。
まぁ、世話より何より、こういう重いものを持ってほしいっていうのが本音だけど。
全員分のあれこれを詰め込んだ籠は、ずっしりと重い。持って運ぶのも一苦労で、何度窓から外に投げ捨てようと思ったか。……前に一度やって、こってり怒られたからもうしない。
それにあの頃はわからなかったけど、洗濯は最高の贅沢だ。この場所では贅沢なんてとてもじゃないけど不可能だけど、晴れた日に干されたシーツはいい香りがする。
がんばった分、お日様がわけてくれるご褒美だ。
服も、シーツも、それ以外も。
どれもこれもかなり質の低いものだけど、あの香りに包まれれば問題ない。ほのかに香る石鹸の香りもよくて、ちょっとくらい重くて大変でも、あたしはがんばってしまう。
そんなあたしの後ろから、誰かが走ってくるのが聞こえた。
あの靴音は、絶対にあの子だとあたしは知っている。
「おはようハッカ!」
予想通り、友達のシアが後ろから走ってきて、あたしの肩をポンと叩く。
視界の端を、鮮やかな茶色い髪が流れていくのが見えた。
彼女はシア・メイル。あたしの友達、ううん親友だ。明るくて真面目で、小さい子のお母さんみたいな子。あたしは……どうだろうな、お姉ちゃんか、もしかするとお父さんかも。
「今日は、お魚が手に入ったの! つまり魚のパイよ!」
神父様と買出しに行っていたらしいシアは、飛び跳ねるように報告してくれる。彼女はいつも元気で笑顔を絶やさない。健康そうなピンクのほっぺたに、明るい色の茶髪。
あたしと同じような、質素な作りのワンピースを着ているのに、何かが違って見える。
誰かがいった、あの子は太陽みたいって。
シアは、本当に太陽みたいな子だ。
「それでね、神父様が買い物している間、市場のおじさんやおばさんにいろいろ話を聞いたんだけど、少し前に王様が亡くなられたでしょ? ずっとご病気だったっていう」
こくり、とうなづくと、シアはいたずらをする前のように、にやりと笑う。
彼女にとっては、王族なんて空の向こうより遠い。だから、国家の一大事でも、なんだか面白い話のように思えてしまう。あまりにも遠すぎるから、違う世界の話のようにしか思えず。
……まぁ、それはあたしも同じこと。
所詮、孤児にとっては君主なんてそんなものだ。
直接助けてくれたなら、悲しみの涙くらいは流してもいいけど。
それでその亡くなられた王さまが、一体全体どうしたというんだろうか。
「王様ね、若いころにすっごい大恋愛したんだって」
彼女が語るのは、市場で聞いてきた噂話だ。
少し前に亡くなったという王さまには、とても美しい王妃さまがいたという。若くして亡くなられた彼女は、元々は王さまに嫁ぐ予定はなかったとか。そもそも王さまには父親が決めた婚約者候補がいて、そこに王妃さまは入っていなかったらしい。
しかし偶然出会った二人は恋に落ちてしまって、周囲の反対を押し切って結婚。
すぐに可愛らしい王子が生まれ、しかし王妃さまは王子が幼い頃にこの世を去って。以降王さまは周囲がどれだけ進めても次の妻を迎えず、死ぬ間際まで亡き王妃さまだけを想った。
「ねぇ、すてきでしょ……はぁ」
うっとりと目を閉じるシア。確かに女の子が好きそうな、夢に満ち溢れた恋物語だ。
これで王妃さまが公爵家のお姫様という、反対されると言ってもたかが知れているだろう身分じゃなかったら、もっとすごかったかもしれないけど。まぁ、そこは気にしない方がいい。
「私もそんなに、ねっとりあつーく愛されてみたいなぁ……」
うっとり、と目を閉じる彼女のつぶやき。
まぁ……そこまで愛される、というのは、あたしも経験してみたい。相手はともかく大事に思われるというのは、すごく大切で貴重なことだと思うし。
だけど、誰もがうっとりするような恋物語のツケが、今きているらしい。
王妃様は王子一人しか産まなかった。王様は次の王妃を選ばなかった。よって、この国の未来を担うのは王子一人。まだ即位したという話はないから、何か問題があるんだろう。
……大丈夫なんだろうか、この国は。
国が乱れて、一番影響を受けるのが下のものだ。孤児とか、あるいは貧しい人とか、そういう弱いところから影響を受け始める。ただでさえ厳しいここなんて、ひとたまりもない。
さっさと即位すればいいのに。
そのために、人よりいいものを食べていい生活をしてきたんだ。
「でね、その大恋愛の末にできた王子様、もうすぐ結婚するんだって」
でないと王位を継げないらしいの、とシアが言う。
よくわからないけど、なんだかそういう条件があるらしい。
「面倒よね」
というシアに、あたしは頷いた。
とはいえ、王子しか王族がいないらしい現状、結婚必須という条件はあながちおかしいものではないのかもしれない。そこで絶えたりなんかされたら、もう終わってしまうもの。
聞けば王子は、あたしよりちょっと年上の、まだ成人もしていない年齢というし。
……あれ、でも貴族とかってあたしぐらいで結婚するんじゃなかったっけ。結婚に至らなくても婚約とかしてるんじゃなかっけ。元相部屋のあの子が、そんなこと言ってたはずだけど。
じゃあ、王子には何か問題があるのかな。
それとも王妃になる人には、何か条件があるとか。
「ねぇ、ハッカは自分が名家のご落胤とか、そういうの考えたことないの?」
そんなワケがないとお互いに知っているのに、シアはそんな冗談を口にする。
もちろん、あたしはそんな妄想したこともないので、呆れたように息を吐くだけ。それだけでシアにはあたしの声が伝わる。この程度、わざわざ声を綴ることもない。
「夢に恋するお年ごろだっていうのに夢がないなぁ……ハッカは憧れたりしないの?」
お姫様とか、と言われて、あたしはしばし考える。
そういう身分の人間を、あたしは今まで見たことがない。
遠くに見たことは、ないこともないけど、自分を重ねるほど近くではなかった。あたしが知っているのは絵本とか、物語の中の『作られた』彼らだけ。何も知らないと同じこと。
そこまで考えて、あたしは。
『王様とか王子様とか、絵本の中だけでいいもの』
そんな文字を、荷物の脇から引っ張り出した、常備する黒い石版にさらりと綴った。
だよね、と笑ったシアがみているのは、あたしが手にしている道具の文字。
これが、あたしの『声』だ。明らかに小柄なあたしでも楽に運べる、木の枠に入って紐がつけられた石版。腰の袋にあるのはお金じゃなくて、棒状に加工された石灰――チョーク。
あたしの言葉は、全部ここに書くことで人に伝えなきゃいけない。
だってあたしは……声を出すことができないから。
身振り手振りには限界がある。そして通じる相手も限られる。だから、この筆記用具だけは絶対に、絶対に手放せない。これがないとあたしは、何も伝えることができないんだ。
これがあたしが、ここを出ても行き先がないという最大の理由。
こんな面倒なあたしを、誰が雇ってくれるんだろう。
「だいじょーぶだよ」
隣を歩くシアが、笑顔で励ましてくれる。
荷物を半分持ってくれながら、彼女も一緒に外に向かう。
その間、彼女は他の噂話を、面白おかしく声色まで変えて語ってくれた。彼女はその声色の使い分けで、下の子に絵本を読み聞かせる。だから彼女の朗読はとても人気だ。案外、女優さんとかになれるんじゃないかと思うんだけど、本人にその気はないみたい。
隣を歩くあたしは、手がふさがっていて返事を書けないから、適度にうなづくだけ。
でもシアは、ちゃんとあたしの心の中の、返事を掴んでくれている。
時々、二人で冗談を言った。
――どっちかが男だったらよかったのにね。
だったらあたしが、男でもよかったかもしれないと思う。シアみたいな美人さんを、男にするのはもったいないもの。それにやっぱりシアは、お姉さんでお母さんであるべきだと思う。
「んー、私はとんでもない美形になるかもよ? 引く手数多の美青年とかね!」
……それはそれで、あたしが落ち着かないから、やっぱ今のままでいい。
これがあたしの日常。
大声で叫びたくなるくらいに、幸せな……あたしの世界。