伯爵家の兄妹
ある程度、リードの机にそびえた書類の山が小さくなったところで。
「ちっと休憩すっか……」
あー、とペンを投げ出し、リードは大きく伸びをした。そうだね、とエルディクスも作業の手を止めて、部屋を出て行ってしまう。すぐに戻ってきた彼は、あたしを見て言った。
「そこら辺ちょっと片付けて、お茶にしようか」
今持ってきてもらってるから、と笑う。
改めて机を見ると、確かにお茶を置けるような状態じゃなかった。書きかけのメモ、積み上がった書籍。仕事の疲れを癒やす休憩に使うには、あまりにも散らかっている。
ひとまず書籍はエルディクスの机へ。
紙類もまとめて。
軽くテーブルを拭いたなら、ソファーとセットにテーブルになる。
そんな掃除が終わる頃に、何度か見かけた覚えがある侍女が、数人連れでお茶とお菓子を持って部屋に入ってきた。あたしの目の前、てきぱきとそれらが並べられ準備が整っていく。
紅茶の種類は知らないけれど、いい香りがする。
そういえば、そういうのも覚えなきゃいけないんだったか。他にも香水やら花やら、お酒なんかも覚えておかないといけないらしい。王妃って、いろいろと大変だ。覚えるのは苦手ではない方なんだけれど、頭の許容量を超えてしまわないかと少しだけ不安になってしまう。
しかし一人で戦うわけではないし、そこは気が楽だ。
いつかは、あたしを見てそう思ってほしいと、思わないでもない。
好かれたいとかいうのではなく、頼りっぱなしは嫌だから。
そういう負けず嫌いなトコもいいよねぇ、とエルディクスにはよく言われる。
「あー、疲れた」
向かい側のソファーに座り、リードが菓子を摘む。行儀悪いと思うけど、頭を使ったりして疲れると甘いものが欲しくなるそうだし、お茶の準備が終わるまで待てないのかもしれない。
実際、披露している現状に、この甘ったるい香りは毒だ。
用意されたのは焼き菓子。手で摘んで食べられる、一口サイズのものばかり。
生地を薄く伸ばし凝った形に切り抜いて焼いたものを筆頭に、間にクリームやジャムを挟んだものから、ゴツゴツとしたナッツ類を入れたもの。多種多様な種類の菓子が並んでいる。
星の形に切り抜いたものをつまみ、さくり、と先端をかじる。
こういう時、一口でぱくっとするのはいけないんだそうだ。行儀が悪い、だとか。よくわからないけど、普段から気をつけるようにしている。無意識にやらかしたら大変だから。
丁寧に、おしとやかに、を心がけつつ焼き菓子をかじっていると。
「これでセヴレス伯爵でもいれば、少しはなぁ」
そんなことを言いながら、リードがぐったりと四肢を投げ出すように力を抜いた。
セヴレス、という人の名前――たぶん苗字に、あたしは聞き覚えがない。それなりに有力な貴族の話は聞かされているけど、そこにはない名前だった。全部聞いたわけではないから、まだ説明されていないだけかもしれない。この国、貴族という存在は結構おおいから。
……それを名乗るだけの生活をしている家、となるとまた違うらしいけど。
そうだねぇ、とリードの横に座ったエルディクスが、同じようにため息を零す。
「彼がいると即位への準備もはかどるんだけど……いやはや、世の中はうまくはいかないね」
「まったくだな」
二人そろってため息をこぼし、その不在を嘆く『伯爵』。
伯爵、というのはそれなりに上の貴族だと聞いた。
リードはともかく、エルディクスまでもが頼りにするそのセヴレス伯爵というお人は、どんな方なんだろう。あたしは石版に文字をつづり、二人に見えるようにさっと掲げる。
『セヴレス伯爵って、誰?』
「お前知らない……よなぁ、庶民にとっちゃ貴族の名前はあんま関係ないしな」
「どこかの領地住まいならともかく、王都じゃあまり関係ないからね」
「セヴレス伯爵は、俺の父上の信頼の厚かったお方だ。……俺にとってのエルや、ユリシスみたいな存在だな。本当なら俺の補佐について、あれこれ教えてくださるはずの人なんだけど」
「現在、病で臥せっていてね。嘆かわしいことに、その息子は……まぁ、うん」
意味深に言葉を濁すエルディクス。彼は辛辣なこともはっきりズバズバ、切り捨てるように言う方だと思っていたけど、どうやら時と場合でそこら辺のさじ加減は違うらしい。
何と言うか、あまりよくない息子をお持ちの伯爵のようだ。
「息子だけじゃなく、娘もな」
「クリスティーヌ・セヴレス。ハッカも、名前は知っているよね?」
聞き覚えのある名前に、あたしは小さくうなづいた。
先日、マツリに絡んでいた令嬢の片方、やけに不気味だった方だ。単体で見ればそうでもないんだろうけれど、一緒にいたのが『彼女』だっただけにちょっとした不気味さがあった。
あの日、クリスティーヌと一緒にいた彼女――ルーフィのちょっと異常な少女趣味、というか年齢に合わない子供っぽさと対照的に、クリスティーヌはとても大人びていた。
暗い色の青いドレスを着て、見た目は修道女のように露出控えめの姿。上向きに長いまつげに彩られた瞳は、覗き込むとどこまでも落ちていきそうなほど暗い。
綺麗だけど、見ていたくはない。
そんな感想がある。
散々、ああいう暗い目をした子供は、孤児院で見てきた。でも彼女のそれはあの子達の誰よりも暗くて……底が見えない。覗きこんだらそのまま、落ちていってしまいそうな感じだ。
思い出すとわずかに身体が震えそうで、あたしはそっと肌に爪を立てる。
「まぁ、気をつけろ」
リードがお茶を飲みながら、あたしに視線を向けた。
爪を立てたことを気づかれたのかと思ったけど、どうやら違うらしい。
その目は真剣そのもので、これは真面目な話なんだなとあたしも背筋を伸ばす。
「セヴレス家は、伯爵以外お前を恨んでる感じだから」
特に夫人と長男がな、とリードは言う。
セヴレス伯爵の奥方は生粋の貴族で、当然子供もその影響を受けているのだという。息子はエルディクスのような政治の中枢に立つことを望まれ、そして望んだし、娘は王子という高嶺の花を手に入れることを望まれ、望んだからこそ頻繁に城を訪ねてはリードを求めている。
しかし息子はエルディクスを筆頭とした頭角を現しつつある若手に勝てず、娘は娘で突然現れたあたしみたいな孤児にずっと狙いを定めていた花をむしり取られてしまった。
貴族としては後者がよほど頭にきたらしい。
伯爵夫人の怒りっぷりは、社交界でも噂になっているという。
まぁ、生粋の貴族様の自慢の娘が、よりにもよって孤児の小娘に蹴落とされれば、プライドが高ければ高いほどに怒るのは自然なことかもしれない。ただ、夫人のそれは常軌を逸したとすら言われるほどで、あたしを恨んだり妬んだりしてる人でさえも後に引いているとか。
本来なら一緒に愚痴なり恨みなりを吐き出しあう相手さえ引くって、なんか怖い。
その怒りは子供らも突き動かしたのか、娘クリスティーヌは城に通う頻度を上げて、今日も着ているのだという。普通に追い返されたそうだけれど、たぶん明日も来るんだろうと思う。
さらに長男のディオン・セヴレスも、いろいろ動いているとかいないとか。
彼は今年で二十一だか二十二だかになる、立派な成人男性。
しかしこれという役職にはつかず、今も屋敷や繁華街で遊びほうけているらしい。才能は申し分ないのだそうだけど、そういう素行の悪さでどうしても他と比べられるのだろう。
「だからお役目が回らないんだよね」
と、彼より年下で、この上なく重要なポジションに立つエルディクスは笑う。
ディオン本人、そして彼の母である伯爵夫人は、エルディクスが今いる立場――要するに王子を補佐する重要なポジションなんだけど、そこにつくことを望んだらしい。
各種関係者に直談判までしたらしく、しかし結果は現状だ。
挙句にあたしに娘まで蹴落とされ、後ろ盾にエルディクスが立ったもんだから。
「正直、母子で殴りこんでくるんじゃないかって思った」
そういって遠い目をするリードがいる、という流れだった。
あたしの関係ないところで、なんか凄いことになってる……いや、関係なくはないどころか中心人物なんだけど、諸々の事情から直接関われないからいまいちピンとこない。
クリスティーヌさえ、あの日会って以来、姿も見ない。
来たらしい、と話しに聞くだけだ。
「個人的には乗り込んでくれてもよかったけどね、伯爵には悪いけど。親の威光しかないクズにボクは遅れはとらないよ。叩き潰す勢いで、丁重におもてなししてさしあげよう」
「流血沙汰はやめろよ。俺はそんな血なまぐさい玉座には座りたくないぞ」
「あの程度の小物なら言葉で充分だから大丈夫」
五秒で泣かすよ、と笑うエルディクスは、もう絵に描いたような悪魔だった。
相手を知らないけど、絶対にできるんだろうなぁ、と思う。
「……で、そんな男がやたら周囲に根回ししつつ、よりにもよって『ハッカ』に会いたがっているみたいだから、気をつけてね。一応、変な人が近寄らないように手配はしてあるけど」
相手は貴族だからねぇ、とめんどくさそうに言うエルディクス。
『なんであたし?』
「さぁ。妹を蹴落としたのが気に入らない、ということなのかもね」
どこか含みのある言い方をして、ふと、エルディクスの目が真剣な光を宿す。
「伯爵という枷がないから、何をするかわからない。それだけは忘れないで」
少し低い、脅すような声に、あたしはコクコクとうなづく。
夫人も息子も黒髪に青い目をしているらしいから、できるだけそういう人には近づかないようにしよう。一人になることはないけど、貴族相手に侍女が『戦える』とは限らないし。
ユリシスも、常に一緒にいてくれるわけではない。
そこはやっぱり性別の違い、彼が入れないところで夫人と出会ったらおしまいだ。
まぁ、そんな具合に一家総出であたしは恨まれてしまったらしい。幸いなのは、病床にいる伯爵が普通の、いろんな意味で考え方もやろうとすることも実にまともな人であろうことか。
あったことのない彼の、一刻も早い回復をあたしはそっと祈った。
■ □ ■
つーか、と菓子を咀嚼し、飲み込んだリードが口を開く。
「例の夫人、一時期マツリにも噛み付いてなかったか?」
「……あぁ、そうだね。一時期クリスティーヌとの縁談があって、ボクに」
「で、断ったんだったか」
「そう。マツリがちょうど、手元にあったからね」
手早く結婚してあちらにはお引取りいただいたよ、と当然のように笑う姿に、あたしは違和感を覚えた。その言葉の選び方に、気味の悪さと気分の悪さ、そういうものを感じたからだ。
手元に『いた』ではなく、『あった』。
その言い方に、違和と不快が混じった何かがこみ上げてくる。
まるで、それじゃマツリが道具か何かみたい。もしかしなくてもマツリの、あの極度にがんばりすぎるところは、彼の細々したそういう言い方や扱いのせいなんじゃないだろうか。
道具のような物言いをするから、使えないと捨てられると思って。
だから、あんな無茶をするんじゃないか。
それはリードも思ったのか、彼はあたしよりも不快感などをあらわにして。
「いい加減さ、マツリをちゃんと『妻』として扱ってやれよ」
「充分だと思うけどね、現状。向こうも文句言わないし」
「俺としては『言わない』と『言えない』は、ぜんぜん違うと思うけどな」
「そう?」
軽い感じで笑うエルディクスに、あたしは少し怒りを覚える。
マツリが影で、あんなに言われ放題されていることに、気づいていないのだろうか。
それとも、知っていて放置しているとか?
証拠もないのに、何だかそんな気がして、あたしは思わずエルディクスを睨んだ。だってあたしはマツリが大好きだから、彼女の苦しみを知っていてあえて無視するなら許せない。
けれど、エルディクスはあたしの睨みなんて、どこ吹く風。
「かわいい女の子は、そんな顔しちゃいけないよ」
とか言って、片目をぱちりと閉じてみせる。
さすがのリードも、それには若干引き気味というか、疲れ果てた感じになった。
「お前な……」
「大丈夫、ボクはマツリがいればそれでいいから」
サインの入った書類を抱え、扉に向かうエルディクス。休憩を終えて、一足早く仕事に戻るつもりらしい。そういえば結構な時間が経っている、そろそろ再開してもいい頃だろう。
「彼女以外が傍にいるとか、想像するだけで気分が悪くて、世を儚みたくなるね」
彼は部屋から出る直前に振り返って、そんなことを口にする。
リードは心底嫌そうな顔で、ため息を大きく吐き出した。
「儚むな、死ぬな」
「死なないよ」
まだね、と意味深で不穏な一言を残し、彼は部屋を出て行った。
……しかしどうして、人を引っ掻き回すような物言いをするんだろう、彼は。もう少し普通に言えばいいと思うんだけど。あたしは、頭を抱えるようにうつむいたリードを見た。
まぁ、なんだろう。
王様は側近とかの面倒も見なきゃいけないし、大変そうだ。
思わずいたわるような目をリードに向けてしまう。
その視線に気づいた彼は。
「もう慣れた」
と、疲れた声で言った。
王子様は大変だと、あたしはこの日、しみじみと感じた。
下の人は上を選べないけれど、上も上で、下を選べないらしい。