不安定に揺れる足場
ダンスだけじゃなく、あたしには他にも覚えなきゃいけないことが多い。
目下、最優先なのがダンスなだけで、国の歴史や、他国の王族の名前などなどなど。
王妃として必要とされる知識は、きっと死ぬまで消えることはない。
どうにかダンスに合格点が出たあたしは、今度は文字を目で追っている。
今読んでいるのは、ちょっとした雑学の本。
あたしは声が出ないから、とっさに受け答えはしないしできない。だけど、ないよりはいいだろうってことらしい。喋れないからこそ、それ以外が目につくし武器にできるのだという。
なかなか面倒な注文だけど、やるしか無いから頑張らないと。今日も横たわったらそのまま眠ってしまいそうなソファーに座って、わからないところを『先生』に教わりながらお勉強。
同じ部屋では、ペンが紙とこすれあう音が響く。鋭く、しゃっしゃ、と乾いた音を発させている人物は、時々だけど、あたしをちらちらと見ながら不機嫌そうに仕事をしていた。
「……で」
鋭い音を立ててサインを書き終えた彼――リードは、隣に立つ側近を睨む。
炎色の目の中、不機嫌の影が踊っていた。
「なんでそいつが、ここにいるんだよ」
「ボクが先生だから。それと、まぁ、人員の節約かな?」
くすり、とエルディクスは笑っている。
つまりあたしとリードを一緒にすることで、いろいろと人手を減らすつもりらしい。
確かに護衛はエルディクスとユリシス、時々マツリと申し分ないし。
さらにエルディクスがあたしの『先生』で、リードの『側近』だ。確かに、これは実に無駄のない集まりだと思う。あたしは知らない人に囲まれるのは疲れるから、文句はなかった。
「……最悪」
けれどリードは、それがお気に召さないらしい。
あたしがというよりも、自分とエルディクス以外がいるのが嫌なんだそうだ。普段はエルディクスと二人でいることが多いらしく、それに慣れた感覚が狂ってしまうのだという。
時々、資料などを持ってマツリがやってくるぐらいで、基本は二人で過ごす。
この部屋にいるのはあたしとリード、エルディクスの三人だけだ。ユリシスはこの部屋と廊下の間にある部屋に、数人の部下と共に控えている。マツリは別の仕事があるとかで外出中。
最初、あたしは自分の部屋で勉強して、時々エルディクスに出来栄えをチェックしてもらうて感じだったんだけど、そのうちエルディクスが移動とかで効率が悪いとか言い出した。
その結果、勉強といえばリードの執務室で、ということになってしまってる。
意外にも静かな環境での作業を好んでいたらしい、部屋の主は。
「調子狂うな……」
とか言って、机に突っ伏していた。
まぁ、慣れない相手が一緒にいる苦痛は、あたしはよくわかる。同情もする。しかしわがままを言えない身分と立場なのは、あたしより彼の方がずっとわかっているはずなんだけど。
案の定、ぺしり、と書類の束で軽く頭を叩かれていた。
エルディクスは容赦ない。
「狂うほどの調子も何もないでしょ。いいからさっさと仕事しなさい」
「……はい」
言われ、リードはしぶしぶといった様子で新しい書類に手を伸ばす。
それでよし、とエルディクスは満足気に頷いた。
何とも仲よさげな雰囲気に、この二人はまるであたしとシアみたいだなと思う。
幼なじみでもあるらしいから、みたいだな、というより同じなんだろう。
違うのは、彼らは二人でいられること。
あたしと彼女は、もう二度と会えないこと。
いいなぁ、なんて思いながら目を向けた先では、次々と書類が片付いていく。
口と態度はともかく、仕事はちゃんとする人らしい。
ささっとペンを踊らせたリードは、次の書類を手に取ろうとして。
「あぁ、これはボクがやるよ」
横からエルディクスに、さっと浚われてしまった。やろうとした仕事を取られたわけだし怒るかと思ったけれど、そうか、とリードはまったく動じることも無く別の書類を手にする。
エルディクスはリードから奪った書類を、自分用の机まで持っていく。
それからすばやくサインして、書類の山に重ねた。たしかあれは別のところに持っていくための書類の山だ。ということはあれは、また別の誰かが目を通さなきゃいけないものらしい。
その後も、数枚おきにエルディクスが奪ってはサインする、ということが続く。
あたしが本を読む手も止めて、二人を見ていたのにエルディクスは気づき。
「あの書類は、ボクがチェックして別の偉い人に渡す類の書類なんだよ」
と、説明をしてくれた。
ここに集められる書類の中には、リードに決定権がないものが混ざっているらしい。
それをエルディクス見つけてはサインを記して、しかるべき場所へ。他の書類と混ざったりしないように、サインをしたエルディクス本人が持っていくのだという。
……でも、リードは王子様で、未来の王様。
一応、この国の最高権力者のはず、なんだけど。
あたしが納得できないでいると、エルディクスは苦笑交じりに口を開く。
「リードは王子だからね、良くも悪くも」
『良くも、悪くも?』
「庶民が思うほど、王子の権力なんてたかが知れているってことだ」
新たな書類を手に、リードはため息混じりに言う。
「本当に重要なことは、基本、父上に仕えた重鎮が寄り集まって決めてる」
『リードは?』
「……俺は彼らが決めるほどでもないことを、決める」
それって、何だか逆のように思う。
でも話を聞くと、それは仕方がないようにも思った。これは何も彼が軽く見られているわけじゃなく、彼の決定を『軽く見られないため』の処置なんだそうだ。それと、まだ専門的な知識が足りないから、そんな彼に重要な判断を任せるには未熟だというのもあるのだという。
成人もしていない王子、と侮られるわけにはいかない。
侮られるぐらいならいいけど、それで命令や決定を無視されるのは困る。
だから亡き王に仕えていた人々が、彼の代わりにいろいろと決めているのだという。これから十年ほどかけて、少しずつリードの決定権を増していく予定らしい。
本当なら父親だった王様がするはずだったけれど、その前に亡くなってしまった。
なのでそんな、権力の重さが逆転したかのような状態なんだそうだ。これは王様が亡くなる前に万一に備えて取り決めておいたことらしく、だから国は滞り無く動いている。
彼らは、信じて待っているんだ。
リードが立派な、父親にも負けない立派な王様になるのを。
広大な国は、だからこそ一人で治められない。名前を知らない住民などいないほどの小さな農村でさえ、村長さんと数人の大人が寄り合って、村のことを決めているのだ。
その規模が国となったならば、もっと大勢の人々の協力が無ければどうにもいかない。
王様の言葉は国を動かす。
その言葉が、軽く取られることはあってはならない。
本当は、王様がするべきことだったのだろう。けれど王様は、リードの父親は、息子の成長を見届けることができないままいなくなってしまった。だからみんなで支えなければ。
王子としての仕事は、王がいてもいなくても決して消えない。
けれど同時に王が果たすべき役目もまた、その場所が無人でも消えない。王の不在は長引くほどに、この国は何らかのひずみを貯めこんでいく。それは王子一人じゃ消せないものだ。
だから、リードは焦っていたのだろうか。
一刻も早く王になりたいと、長く続いたしきたりに背を向けてまで。
……だから、かな。
あたしはぼんやりと『嫌な考え』を、頭の中に浮かべる。
最近、リードはそれなりに優しい。口ではやっぱりあれこれいうけど……でも、優しくなった気がする。控えめだけど、大事にされてるというか、つんつんした感じはしなくなった。
勉強でわからないことがあると、それとなく教えてくれるし。
城の中のいろんなことを、細かく教えてくれるし。
食後のデザートの果物とかをわけてくれることもある。ちょっとしたお菓子を持ってきてくれたりも。寝る時だって子供をあやすみたいに撫でてくれたり、抱きしめてくれたり。
……なんか最後のはちょっとムっとするけど、まぁとりあえずいいや。
とにかくリードは、初対面でのアレが嘘のように優しい。
あの頃のあたしに今を見せたら、きっと混乱してわめきだしたと思う。
罠だ、これは仕組まれた罠に決まっている。あいつがあんなに優しいわけがない。これは完全に罠だ。あたしは利用されている、懐柔するために彼は優しくしてくれているんだって。
実際、時々それを疑ってしまうあたしがいる。
だってあたしの存在は、リードの『願い』のためには必要不可欠だって、気づいたから。
あたしがいることで、リードの立場はとても安定した。
エルディクスの計画通り、彼は着実に王となる道を進んでいる。
まず伴侶を得たわけだから、成人していない身で即位する条件は整った。もう一つあるという条件は、彼のお母様の実家が代わらず担当している。元からこっちの心配はなかったろう。
貴族から出ていたリードの若さゆえの苦言も、今はすっかり収まったそうだ。
元々、リードはとても優秀な王子様だったのだから。
そこに加えられたのが神託で選ばれた、神様が選んだ花嫁。そう、あの神様が選んだ花嫁を娶るのだから、いや神様がわざわざ花嫁を見つけ出して選んでくださったのだから
だからこそ彼は、王となる器を持っているのだ。
そんな声が国民から上がって、リードの前にあった障害はグっと低くなった。
若さは神が、世継ぎの不安も神が、全部全部解決してしまった。特に国内外で騒動が起こるなどの問題が無ければ、リードは成人する前に即位することができる可能性が高いと聞いた。
神託の前に反対意見や苦言は姿を消し、一刻も早く、と囁かれ始めている。
だからあたしも、王妃となるための勉強に励んでいるわけだけど。
これも、あたしという存在がいなければ、決して無かったであろう展開。少なくともここまで早く事態が動くことはなったんだろう。仮に神託に頼らずにあたし以外の花嫁を見繕ったとしても、それを婚約者とするには通常なら時間がかかるはずだ。
あたしは、神託という唯一無二の要素があって、だからとんとん拍子に進んだ。
神託がなかったら、庶民で孤児で身分も学もないあたしなんて、王子様と出会うこともできないし。どうにか結ばれたとしても結婚を許してもらえたか怪しい、というか絶対無理。
そんないくつかの可能性を想像すると、あたしはどうしてもこう思ってしまう。
あたしは実に使える『道具』。
だから、大事にしているんだって……思ってしまう。
そんなこと、リードは絶対にしない。父王の後妻を狙う人々に、そういう風に利用されそうになった彼は絶対に。そうわかっていてもあたしの立ち位置は、まだぐらついているから。
エルディクスは……まぁ、やりそうだなって思うけど。
彼ならもっとうまくやるのかな、とか。
ともかく、リードに限って言うなら絶対にないと、あたしは言い切れる。
学のない頭でも、ヒトを見る目なら遅れを取らない。
だからこそ、疑う自分が嫌になる。与えられる『優しさ』を当たり前のように、心から喜んで受け取れないことが、こんなに虚しくて惨めで、自己嫌悪に塗れたこととは思わなかった。
誰かに常に優しくされるのが、当たり前とは思わない。
だけど、こうしてすべてを疑うぐらいなら、全部バカ正直に信じたかった。
醜い、な。
あたし、いつからこうなったんだろう。
今が心地いいから、だからこそ疑ってしまうのかな。
あんなにも、前は育ったあの教会に帰りたかったはずなのに。シアに会いたい、神父様にシスターに会いたい。みんなとまた、貧しいけどそこそこに楽しい日々を送る孤児に戻りたい。
そう思っていたような、気がするのに。