夫婦の現実
あたしとマツリは二人に背を向けて、ユリシスに守られるようにその場を離れる。当然といえば当然だけど、彼女達は追いかけてこない。背中に突き刺さるのは、強い視線の気配だ。
少し進んだ先の廊下の分かれ道を、右へ曲がったところで。
「すまない、迎えに行くのが遅れて」
申し訳無さそうに、ユリシスが目を細めた。
彼に、マツリはゆるく頭を横にふる。
「いえ……助かりました」
言いながら浮かべた笑顔は、元気がないものだった。泣いた後みたいな、そんな顔をしているように思う。無理もないことだった、あんなにもひどいことを言われたのだから。
「もうじき侍女が姫様につくから、それまで耐えてくれ」
彼女がいれば問題ない、とユリシスは言う。
そういえば、あたしにはもう一人、侍女がつくと言う話だ。あたしと長く一緒にいることになるらしい侍女のことを尋ねようと思っていたけど、すっかり訊きそびれている。
どうやらその侍女の代わりを、マツリが務めているそうだ。
つまり侍女さえ仕事に参加するようになれば、マツリは魔術師という立場に戻れる。
魔術師としての彼女は、基本的にエルの傍が仕事場だ。
つまり、この上ない『守り』を得る、ということ。少なくともエルディクスはリードのそばにいることが多いから、必然的に三人はセット。となれば彼女らのような令嬢は近寄らない。
あんなことも、起きなくなる。
……でも、あたしは少し不安になる。
マツリはあたしの護衛でもあったわけだから、彼女がいないとどうなるのか。もちろんマツリの安全も大事だけど、やっぱりわが身も不安なわけで。というか、寂しい感じがして。
どこか複雑な心境でいると、姫様、と声がする。
「後でエルディクスから正式に話があるでしょうが、自分は本日付で姫様付きの騎士となりました。改めて自己紹介を。ユリシス・ライアードと申します。よろしくお願いします」
言いながら、彼はそっとあたしの前に跪いた。騎士というよりも王子様だ、どこぞの王子様よりずっと王子様って感じだ。あれ、でもライアードって、確かエルディクスと同じでは。
ぱっとマツリを見ると、少し笑って小さく頷かれた。
「二人は従兄弟なんです」
言われて、改めてあたしはユリシスの顔を見た。目つきが若干違うけど、金色の髪も、紫色をした瞳も確かに同じ色。背丈なんかも似てるから、まるで双子みたいにそっくりだ。
中身は、だいぶ違うようだけれど。
どっちかっていうと、あたしはユリシスの方がいいかな。
エルディクスは裏で何考えているのか、それを思うと精神的に疲れる。
それが彼の仕事なんだとは、わかってはいるんだけど。
「自分の他に女性騎士が数人と、侍女が一人付く予定になっています」
「騎士の選出、終わったんですね」
「あぁ、今は侍女に手解きをしているところだ」
『手解き?』
「自分は男なので入れない場所もあるし、騎士と言えど常にそばにいることが許されるとは限りません。その時、そばに付いて護衛を請け負う人材が必要なので自分が、護身術を少々」
ユリシスの説明に、そういえば国の話の時にそんなことを言われたなと思う。
男性である彼が――例えばお風呂だとか着替えだとか、そういうところに入れないのは当然として、武具を身につけているだけでダメなんてことも国によってはあるらしい。
そういう文化、習わしは無視してはいけないものだ。
なので、直属の侍女に、ということのようだ。
そこでユリシスが、たぶん仕事の合間に手解き中ということらしい。王族に直属で仕える騎士である彼に教わるのなら、それなり以上に戦えるようになるだろう……と、思う。
まぁ、そこら辺はあたしが首を突っ込むことじゃない。
気にはなるけど、どうせそのうち会えるし。
ちなみにリードに付いている侍女……従者なのかな、そういう立場の人にも、護身術の心得がある人が多数いるのだそうだ。基本は素手で、倒すのではなく捕らえる戦法らしい。
リードは本職には及ばないながらもある程度なら剣も使えるそうだけど、あたしも何かしら教わらなきゃいけないのだろうか。我が身を自分で守れて困ることはないだろうし、たぶん。
まぁ、それは後でいい。
今はダンスだけでいいです、はい。
「マツリ、だからもう少しだけ辛抱してほしい」
彼の視線の先にいるマツリは、あたしから見ても明らかに顔色が悪い。憎しみを込めた容赦の無い言葉の刃は、彼女の中身をズタズタにしたように見えた。それは今日に限らない。
きっと何度も何度も、彼女は。
あぁ、もう。どうしてこんな時に限って、エルディクスが傍にいないなんて。
どうして弱いところがある彼女を、夫なのに守ってあげないんだ。
だからマツリは、後ろ向きにこんなことを言い出すんだ。
「わたしが疎まれているのは、わかっていますから」
「そんなことはない。あれは所詮、選ばれなかった者の僻みだ」
だから気にする価値もない、とユリシスは言うけれど。
マツリは、はい、と小さく返事をして俯いてしまったままだった。
どうやらあれは夜会があるとどこからともなく出現し、エルディクスやユリシス、当然のことながらリードの前に現れる令嬢集団。その中でも、特に有名なのがあの二人組らしい。
どちらもあたしより年上だそうだけど、そう見えるのはクリスティーヌだけだ。
特に個性的――というか、忘れがたいのはルーフィという令嬢。
自分のことを『ルー』と呼ぶ姿は、まるで十歳にもならない子供のようだった。床を踏みつけるようにして駄々をこねた様は、もう完全に三つ四つの子供としか言い様がない。
いや、いっしょにするのも失礼かもしれないな。
少なくともあたしがいた教会は、みんな聞き分けがいい良い子ばかりだった。あんな癇癪を起こすような子はいなかった。まぁ、わんぱく盛りのいたずら好きならたくさんいたけど。
彼女は男爵家に生まれ、一時期はリードの花嫁候補でもあったそうだ。
一応、婚約者がいたらしいけれど、普通に捨ててリードに走ったとか何とか。年齢も近いことや父親が男爵ながらそれなりの地位にいたこともあって、有力な候補だったらしい。
しかしあたしの出現により、候補云々の話はぱちんと泡の如くはじけた。
そこで彼女――もとい彼女達は、次に愛人ポジションを狙っているのだという。もはや形ばかり名ばかりの、存在そのものも忘れかけられていたそれならいける、とか何とかで。
もっとも、婚約者を捨てたというところで、相当心象は悪いとユリシスは言う。
――リードのトラウマ、のようなものなんだそうだ。
彼の母が亡くなってから、彼の父にはありとあらゆる再婚の話が舞い込んだらしい。
なにせ若くして独り身になった国王で、子供は幼い。取り入ることも簡単だし、蹴落とすことだって不可能ではない……そう考えた人が、たくさんいたのだという。
中には幼いリードにわざわざ会いに来る令嬢もいて、その欲望に塗れた恐ろしい視線や姿は子供の彼に傷を残した。無理もないと思う、子供があんな姿をみたら怖くて仕方がない。
ゆえに、彼女らに望みはない、というのがユリシスの意見だ。
トラウマそのものみたいなことする女はいらない、至極まっとうな意見だと思う。
それでも城には、ああしてやってくる令嬢が多いんだろう。
婚約者を捨てて玉の輿を狙ってくる人も、決して少なくないんだろう。
きっと、あたしが孤児だからだ。神託で選ばれたからって、あたしを大事にする必要なんてないのだから。あたしが神託通りに王妃であればよくて、王妃の扱いをする必要はないって。
そう考え、見目と身分がいい我が子を、次々と城へ送り込む。
心象の悪さだってカバーできる、きっとそう思っている。
貴族って怖い。
一番怖いのが――彼女らのターゲットが、別に生まれつつあることだ。
例えばエルディクスや、ユリシス。
ルーフィなんかは、露骨なほどエルディクス狙いになったそうだ。神託の花嫁がいても目に見えて競争率の高い王子ではなく、その側近の方が狙い目ということなんだろうか。
彼は既婚者だけど、あの令嬢にとっては些細なことのようで。
あたしは見ていないけど、マツリの目の前で彼に擦り寄ったりもするという。相手が貴族だからか、エルディクスは笑顔で流しているそうだけど……マツリは、どう思っているのかな。
「エルはマツリを大事にしている、何よりも。それを忘れてはいけない」
「……えぇ、わかっています」
ユリシスの励ましに、けれどマツリの表情は冴えない。
「今日はもう屋敷に帰って、休んだ方がいいのではないか?」
「いえ……わたしは、まだ」
「無理はよくない」
『よくない』
あたしは石版に文字をつづり、ユリシスに追随して。
『これは未来の王妃命令。おうちに帰って休んで、マツリ』
という、偉そうな命令という名のお願いを、彼女に向けた。
こういえば彼女は断れないと、あたしはもうわかっているから。本当はただの『お願い』がいいんだけど、きっとそれじゃあマツリは何だかんだ理由をつけて聞いてくれない。
だから、こうするしかない……。
「……はい」
しぶしぶ、という様子だけど、マツリは外に向かって歩いていく。
その背を見送り、あたしとユリシスも目的地に向かう。
「今日のことは、自分からエルに伝えておきます」
ユリシスの言葉に、あたしは小さくうなづく。部外者のあたしから言うよりも、彼の身内からちゃんと言うべきだろう。そもそも、あたしじゃどう言えばいいか、わからないし。
見たままを伝えても、ちゃんと伝わるか自信もない。
それにしてもマツリは、いつからこんな世界にいたんだろう。彼女はあんなにも立派で優しい人なのに、エルディクスも彼女をとても大事にしているように見えるのに。
――あたしも、いつか同じように言われるのだろうか。
何を言われてもリードに気を使ったりして、静かに耐えるだけの日々があるのだろうか。
今のあたしには、マツリの姿が未来の自分のように、思えた。