ルーフィとクリスティーヌ
足を動かしている間にも、嫌な声は確かに聞こえていた。
早く早く、そう思うけれどなかなか近寄れない。
「ルーだったらぜーったい、お傍を離れたりなんかしないものー。ルーはエルディクス様がだーいすきだからぁ、どんな時だってずぅっとお傍にいるの。えへへ、健気でしょー?」
「ですが、それでは仕事が……」
「そもそも貴族の家に嫁入りしたのに、お仕事してるのがおかしーのよ。雑用なんて、そこら辺の下っ端に任せればいいし、彼らはそれがお仕事なんだもーん。それにあんな卑しい小娘なんてどーせいてもいなくても変わらないし、なおさらそこら辺にほっとけばいいのよぅ」
「それはできません!」
張り詰めたような、マツリの強い声が響く。
あたしは声のする方に向かって、ひたすら走った。
この城は意外と声が響くのか、彼女の姿が見つからない。声は近くなるけど、場所までなかなか辿り着かない。どうしようどうしよう、マツリの声が悲しそうに聞こえて仕方ない。
しかも、お題目はあたしなんだ。
殴ってでも止めて、マツリを助けなきゃ。
「あの方は神託に選ばれた方です、そのようなことは許されません!」
「な、なによ! あなたに指図される謂れなんて、ルーにはないんだから!」
ねぇクリスティーヌ、という声。
そうね、と冷ややかそうな声が聞こえた。
そのタイミングで、あたしはやっとマツリのそばまで辿り着く。
そこにいたのは、華やかに着飾った二人の令嬢。
一人はあたしの想像通りの貴族令嬢で、もう一人はどこか雰囲気が異質だった。
あまり、関わりたくはないタイプだなと思う。ほとんど直感だ。
そしてその直感は、ものの見事に当たる。
「ルーは優しいから言わないけどぉ、ほんとーはみんなみーぃんな知ってるんだから! あなたがエルディクス様の『愛』を受けていない、むしろ嫌われてることなんてっ」
だん、と左足で床を鳴らし、薄いピンクのドレスを着た令嬢はマツリを指差す。
「疎まれているくせに妻のように振舞うとか、当たり前のように一緒にいるとか! ルーとあの方に失礼だと思わないの! 最低! ひどい! ルーが一番あの人を愛してたのにっ」
ひどいひどい、と喚く姿は完全にあれだ。
わがままを言い始めて、癇癪を起こした子供と一緒。
けれど相手はあたしと同じぐらいの年齢で、だからこそその異様さが浮かぶ。飛び出そうとした足が、思わず止まってしまう程だ。さらに援護射撃するのが、もう一人の方。
扇で口元を隠しながら笑う、黒髪の少女だ。
「でも平民ですから、仕方の無いことではないかしら……」
喚き散らす方がルーフィなら、じゃあこっちがクリスティーヌか。こちらもあたしとそう年齢は変わらないような感じで、しかし口調や雰囲気はだいぶ大人びているように見える。
彼女の濃い灰色の瞳が、じとり、とマツリを見た。
「あなたも、ずいぶんとプライドがないのね」
「……なんの、ことでしょうか」
「城仕えしたい、その一心で慰み者になるなんて」
息を呑む、マツリの肩が跳ねた。
震えているようにすら見える。
ただただ喚くばかりだったルーフィと違って、クリスティーヌの『攻撃』は的確に狙ったようなものだった。たぶん、そうなんだろう。マツリの反応を見る限り、きっと。
そんな、ことは、と震える声が、今にも消えそうだ。
弱みを突かれたとあからさまに分かる、それを見逃すほど彼女は優しくないらしい。
「じゃあ、一年も経つのに子の気配もないのは、どうして?」
「……っ」
「きっとそうだわ。でなきゃ爵位も無いあなたに、ルーが負けるわけないんだから!」
うふふ、と笑うルーフィと、冷たい目でマツリを眺めるクリスティーヌ。
実際子供がいないマツリは何も言い返せず、俯いたまま。ハッカ様、と不安そうに背後から聞こえる侍女の声。振り返ると、彼女は首をそっと横に降った。出て行くなと言うように。
どうして、とあたしの顔は告げたんだろう。
小さな声で、いつものことです、下手に出るとマツリ様に迷惑が、と言う。
それは、確かにそうなんだろうと思う。彼女らは貴族で、城にいるのだからそれなりの身分なりがあるのだろう。そこを刺激するのはよくない、それはあたしだってわかってる。
だけど。
それでも我慢できることとできないことが、あった。
足音をひときわ高く鳴らすように、あたしは再び走りだす。
最善はマツリを見守ること、見捨てること。そうかもしれないけれど、あたしのために必至になってくれている彼女を、こんな連中に好き勝手言わせたままなんてことは。
――そんなこと、あたしにはできない。
マツリとの間に割り込んで腕を広げ、二人を睨みつける。やっと動いた身体は、それでもこんなことしかできない。だけど紛いなりにもあたしは王子の婚約者だ、それは武器になる。
少なくとも、この二人を追い返すなり黙らせるなりは。
まさかあたしがいるとは思わなかったのか、二人は笑みを消す。
「な、なによぅこの子。子供のくせにルーの邪魔をする気?」
生意気っ、と。
自分のことを名前――というか愛称で呼ぶ、ルーフィという少女があたしを睨んだ。
せっかく気分よく笑っていたのを、邪魔されたからだろう。
一方、その隣に立つクリスティーヌは、先ほどとは違う笑みを浮かべてあたしを見た。ぞわりと背中があわ立つような、息を奪い取るかのような、どこか気色悪い笑みを。
その唇が、扇の向こうで音を発する。
「白い髪、灰色の瞳……この子が例のお姫様?」
「えっ」
うそ、と小さくつぶやいて、ルーフィがあたしを見た。その表情が、驚きから怒りのようなものへと塗り替わっていく。握った手をぷるぷると震わせて、彼女はまた叫んだ。
「こ、こんなガキが、うそ! こんなのにもルーは負けたなんてっ」
思わず、だったのだろう。
ルーフィは腕を振り上げて、あたしをひっぱたこうとした。
後ろのマツリが息を呑んだ瞬間。
「――マツリ、何をしている?」
聞きなれた声が、間に割って入るように響いた。
かつ、かつ、と歩いてくる音。振り向けば、そこにはユリシスの姿があった。エルディクスいわく『眠くてぼんやりしてるだけ』らしい眼光は、場の雰囲気のせいなのか鋭く感じる。
彼は二人の令嬢を一瞥すると、うつむいたマツリを見て。
「そろそろ夕食の準備ができると聞いた。姫様を早く」
「え……あ、はい。わかりました」
それとなくマツリを、そしてあたしをかばうように立ち、ユリシスは言う。
「ここは貴族令嬢如きが立ち入っていいエリアではない。早く去れ」
「で、でもルー達はリード様の」
「その話はここでするべきことではない、と思われるが。そもそも殿下はそれらの話をすべて断っていらっしゃる。なおも主張するのであれば、父君の方に話をつけることとなるが」
「……う」
悔しげにするのはルーフィ。
やはり相手がユリシスだから、あまり威圧的には出られないらしい。たぶん彼からリードやエルディクスに、悪評が流れるのを警戒しているのだろう。彼はリードに付いている騎士だ。
今はあたしについているけれど、彼の、騎士としての立場などは強い。
ルーフィは握った手をかすかに震わせて、マツリとあたしをキっと睨みつける。その傍らにいるクリスティーヌは無言で、やはり口元を広げた扇で隠すようにしていた。