魔術師の神託
廊下をカツカツと音を鳴らし、マツリは夫を追いかけた。少し前を、いつもよりゆっくりした足取りで彼は歩いている。長く伸ばし軽くゆった金色の髪が、陽を受けてきらめいた。
「……マツリ」
追いつく直前、彼は足を止める。
振り返りながら、マツリを抱き寄せた。
彼女の視界の中で、かつてはほとんど目にもしなかった金色の髪が揺れる。
「ここ最近さ、仕事でいろいろ参っているんだよね」
だからさ、と耳元で吐息を吹き込まれる。
軽く抱き上げられ、最寄りの部屋に連れ込まれた。エルディクスがもらっている執務などを行うための部屋で、そのまま隣にある仮眠用の寝室へと運ばれる。さすがに、ここへ来て事態がわからないほどマツリ・カミシロ――神城茉梨という少女は、初心な子供ではない。
いや、昔は初心な方だった。
周囲が恋人ができただの何だのという中、そういう相手を持たない少女だった。憧れはあるが貪欲に求めることはせず、当然そういう行為の経験などあるわけもなく、知識も乏しい。
教えこんだのは、楽しげにマツリを見下ろす男だ。
彼女を誘拐した男。
自分の思うままにむさぼるくせに、常にその視線は優しかった。胸焼けするほど甘ったるい夢物語と錯覚しそうになるほど、すべてを捨ててそこに逃げ込んでしまいたくなるほど。
――便利な道具でいる間は、大事にしてあげるね。
しかしいつか言われた言葉が、夢を見ようとした心に鍵をかける。
何も感じない。
特別な何かを感じたりなど、もうしない。
■ □ ■
城の中を歩きながら、マツリは時折ふらりと身体を揺らしていた。とにかく、身体の節々がきしむようにキリキリと痛むのだ。正直、ベッドで横になっていたいくらいである。
だが、今は休んでなどいられない。
彼女は足早に、彼女を待っているものがいる場所を目指す。
その歩みを鈍らせた張本人の、願いを叶えるために。
廊下を進む中、メイド――ここでは侍女というらしいが、その制服を着た少女や女性が道を開ける。マツリはくっと歯を食いしばるようにして、その間をカツカツと通り抜けた。
あんなところで、こんな場所で、弱った表情など見せられない。
自分はライアード家嫡男の妻なのだ。
飾りでも、妻なのだから。
それは、ここに来てすぐに叩き壊され、彼の願いのために組み立て直された心に、わずかに残った挟持だ。道具として、人形として扱われる中、必死に守っているものだ。
弱さは見せられない、見せたくない。
そこから崩れていくのが、当然の未来であるかのようにわかるから。
与えられたものに、そうして彼女はすがりついている。
だが、近隣では可愛いと評判だったブレザータイプの制服を、なんの特別感も無いままに着ていたかつての自分は、家族や友人の前でどんな表情をしていただろうかと、時々考える。
そろそろ就職や進学といった、重い言葉がまとわりつく頃合い。
その中でのどかに暮らしていた『神城茉梨』は、どんな少女だったのか。
こちらに来て、一気に年をとった気がしてならない。
それは、普段接するエルディクスやリードが、向こうではまだ高校生であろう年齢、つまりそれほど離れていないというのに、とても年上に見えてしまうせいでもある。
マツリはもう、元の世界には帰れない。
道はエルディクスが叩き潰した。
帰る場所はこの国であり、エルディクスが親から譲られた、二人で暮らすにはちょうどいいサイズらしい家。そしてそこで寝起きするエルディクスの妻という椅子が、彼女の居場所。
妻、と思い、マツリはわずかに表情をゆがませる。
初めてこの世界に来た時、少しだけ期待をしたのだ。こういうシチュエーションは、マンガや小説などでよく見かけられるありふれたもの。ある日突然異世界に召喚されて、王子様などに見初められて。そこから始まる、シンデレラのような華々しい物語。
こちらに来た時に目の前にいたのが、いかにもな格好の『彼』だったから。
少しだけ、本当に少しだけ、期待して。小さな小さな夢を見て。
――裏切られた。
いや、そもそも創作を信じた、マツリがバカだったのだろう。読者のニーズに合わせて構築された夢物語を期待した代償は帰り道の消失と、道具として生きることを定められた日々。
あの頃の、初心だった精神に、あの一週間は悪夢として刻まれた。
刻まれすぎて、もうすでに壊れているが。
何かをつぶやかれるけど、言葉はわからず。
もがきあがき、必死の力の無為を知り。
悪夢のような一週間が、途切れ途切れの意識の中で通り過ぎていって。
いつしか言葉を理解するようになり、そして魔術を叩きこまれ。なおも夜ごとの行為は繰り返されて。それを苦痛と、悪夢と思えなくなって。日々が瞬く間に過ぎ去って。
ふと気づけば、マツリは彼の妻になっていた。
妻と言う名の道具に、なっていたのだ。
最初はもちろん怒り戸惑った。意味が無いとわかっていても、勝手に自分という存在を構築していく彼に憤った。もちろんすべて無駄に終わったし、今ではあれでよかったのではという思いもある。そもそも自分は、この世界では天涯孤独なのだから。
仮にエルディクスにいつか捨てられても、教えこまれたことはきっと糧になる。
城で働き始めて、知ったのは魔術は才能に左右される力であること。よって使える人は多いのだが、実用レベルはそう多くないこと。なので実用レベルで使えるというだけで、就職などの生きていく行為に、とても効果を発揮するわけだ。ましてや城仕えともなれば印象がいい。
マツリは、自分はいつか捨てられるのだろうと確信している。
魔術しかない自分を、いつまでも妻にしているわけがないのだとわかっている。実際、何度かあったエルディクス狙いの貴族令嬢にも言われた。飽きられないように、と嘲笑と共に。
飽きるも何も、彼にとってマツリは道具。
今はリードの即位をめぐり、何が起きるともわからないからそばにいるだけだ。元々そのためだけに彼女は、ここにいるのだから。きっと、それが終わればお役御免になるのだろう。
でも、リードのためならば、道具である身を誉れと思えた。
彼はいい人だ。彼が王になるなら、きっとこの国は大丈夫だろうと素人でも思う。そして彼を引きずり降ろせば国が揺れ、戦乱になることは平和ぼけした世界に生きてきてもわかる。
だから、マツリは夫の願いを叶え続ける。
いつか使い古したおもちゃのように、捨てられることを承知の上で。
ゆえにそれまでは――使い勝手のいい道具としてでも、求められていたかった。
マツリは他の世界を知らない。
エルディクスが与えた世界しか知らない。
彼が守りたいと思うものを、その隣で守っていく。
それが、マツリが選んだ『道』だ。
そのための、最初の一歩を――今日、自分たちは踏み出すことになる。マツリは気合を入れるように大きく息を吸い込んで、目の前にそびえるとても大きな扉を押し開いた。
■ □ ■
「すみません、エルと少し相談をしていました」
ここは城の敷地にある巨大な塔。
中央が吹き抜けになったその一番下に、マツリを待っている彼らはいた。
彼女と同じように国と、王に仕える宮廷魔術師の一団だ。城に努めている魔術師の大半は男性だが、数人の女声が在籍している。若い女性はあまりおらず、ほとんどがマツリの親ぐらいの年代だった。反対に男性は年下の少年から、白いひげを蓄えた老人まで、実に幅広い。
「例の計画に変更点はありません。このまま続行します」
マツリの言葉に、誰もが表情を引き締めて頷く。
そして、すぐさま準備が始まった。
必要な物を揃え、所定の位置に立って。
その一角に、マツリも移動する。
今回、マツリ達が行っている儀式は、神託という神のお告げをもたらす儀式だ。
この世界において、魔術とは神が授けた力。
マツリからすると、この世界の魔術師とは変わっている。
彼女の感覚では神官と呼ばれる存在が担う役割を、主としていた。祈祷のような祭事を担当している。そして、魔術師らしいこと――儀式なども、当然のように担当していた。
今回の儀式で求めるのは、花嫁。
リードの伴侶となるべき女性――彼の年齢的に少女だろう。
エルディクスは言う。
庶民でもいい、いっそ罪人でもいい。いかなる身分であっても神託に選ばれた花嫁は誰にも否定はされないし、否定してはいけないし、世論がそれを許されない。
なぜならば、神が選んだ娘なのだから。
とにかく神が選んでくれれば、それでよかった。
そう、どんな存在でも、神が選んだ娘を妻にすれば、リードには箔がつく。伴侶も見つかるし一気に問題は片付くだろう。このままでは、一度断った彼の従妹との話が再浮上する。
貴族の中には、リードを若造と嘲り、傀儡にしようとする層があった。
神が選んだ娘を娶れば、彼らの口をある程度はふさげる。
身分の高い愛人をというくだらない雑音も、十年経って子に恵まれないなどの特別な、そして火急の事情がなければ『花嫁に申し訳が立たない』の一言で潰せる。
リードも、神託を無視はしないはずだよ、というのがエルディクスの言葉。恋愛結婚に夢を見ているわけではないようだが、どうも彼は真剣に結婚するという意志が薄いらしい。
だから押し付けるのだ、断れない花嫁を。
誰も否を言えないような王妃を。
この行為の問題は、神がそう都合よく言葉を授けてはくれない、というところ。
だが、それでも彼らはやるしかないのだ。
リードを玉座にすえるために、この国の未来のために。
「神託の儀式、始めます」
厳かなマツリの声を合図に、十数人の魔術師は、各々の持つ魔石を掲げる。魔石が持つ色はさまざまで、形状も杖の先端にあしらわれた球体だったり、ペンダントだったりした。
それぞれの魔術師に合わせて作られた、基本一品モノである。
マツリも、青い魔石と金属を組み合わせた、絵に描いたような魔法の杖を手にしている。下に向かって細く成形されていて、地面につけると目の前に魔石がある程度の長さだ。
魔術師達の表情は硬く、緊張感に満ちる。
石を組んで作られた床に描かれる魔術陣の中、間隔をあけてマツリ達は立っていた。円を描く集団の中にマツリはいて、その他、魔法陣の模様に合わせて数人が四方八方に散っている。
それぞれが持つ魔石や魔法陣から光が溢れ、上へ向かって伸びた。
ある程度空中に滞留した光は、爆発したように更に上空へと向かっていく。普通、この儀式が失敗した場合は上空へは向かわず、そのまま跡形もなく煙のように霧散するだけだ。
つまり。
「……成功、した」
マツリが安堵の声を漏らし、ほぼ同時に周囲が笑顔に包まれる。成否判定の時点ですでに儀式はほぼ終了していて、控えの魔術師が知らせをしかるべき部署に回すために走りだした。
「あとは……エルが、花嫁を無事に確保するだけ、ね」
そう、儀式はすでに完了しているが、この光は放ち続けなければいけない。なぜならばこの光が指し示すところにいる花嫁を、エルディクス率いる騎士団が探しだすのだから。
光を絶やさぬよう意識を集中しなおしたところで、ふとマツリは、この光の先にいるのはどんな少女なのだろうと思った。自分たちが探す、この国の未来を担う片翼たる王妃。
いい子だったらいい、いい人だったらいい。
この世界で、道具として生きた意味を見いだせるくらいの存在だったら。