仮面
どこからともなく、誰かが簡単なお茶のセットを持ってくる。
紅茶、お茶菓子、お茶に入れる砂糖などを入れた陶器の器。二人分のカップに、孤児院での生活では見たこともない濃い色をしたお茶が注がれ、嗅いだこともなかった香りが漂う。
孤児院でも、お茶は飲んでいた。
お茶だったり、薬草を煎じた、薬代わりの薬湯だったり。
味はお察しといったところ、水やお湯よりはマシという程度。
薬湯に比べたら紅茶はまだマシだったけど、子供でも、あぁこれは一人分の茶葉で全員分を淹れているんだな、とわかる薄さ。しかし慣れたらあのうす味が、それはそれで美味しくて。
そんなあたしの口に、この味は少し渋みがきつかった。かといって、砂糖を入れると甘すぎるし。どうにもこうにも身体が慣れず、僅かな吐き気のようなものがこみ上げてくる。
それはまるで、元の世界への帰還を願うような衝動だった。
……今更戻れないと、知っているくせに。
「んー、おいしい」
カップを眺めたまま動かないあたしと対照的に、エルディクスは慣れた手つきで紅茶を味わっていた。さくり、と茶菓子をかじり、意味深に――にやにやと、あたしを見ている。
「……あの、さ。少しは愛想笑いの一つ、してくれないと困るんだよ」
愛想笑いと言われても、と心のなかでつぶやく。
必要なことなんだろうと、漠然とした知識でそれはわかるけど。
家族を失い、孤児院で暮らした時間の中、そんな必要のないものは消えてしまった。愛想を浮かべてみたところで、それを向ける人などいなかった。余裕だって、なかった。
多かれ少なかれ、事情を抱えて孤児院にきた子が多かったから、上辺の愛想なんてなんとなく見ぬかれてしまう世界でもあった。気づかないふりをされるのは、虚しかった。
それじゃダメだと、この男はいいたいらしい。
「あの程度の見え透いたお世辞ぐらい、軽く交わしてくれないとね。君はこれから愛想を売って歩くんだよ。そこを理解してもらわないと、ここじゃ生きてはいけない。わかるかい?」
当然、何を言いたいのかわかりゃしない。
あたしは生まれも育ちも庶民、お貴族様の世界なんて知ったことか。
無言でいたあたしを見て、エルディクスは深く息を、ため息をこぼす。
「まったく、さすが『神託』だ。無意味なくらいリードと同じだねぇ、そういうところ」
言われ、あたしは思わず石版を手に取る。
傍らの袋、以前のより立派で丈夫そうな袋から、真新しいチョークを取り出した。
石版以外は、全部城に来て揃えられたものだ。
最初、エルディクスは城の医者に、この喉の再生はできるかどうか尋ねたらしい。当然ながら無理だったけれど。事故直後ならともかく、数年もたった現在では絶対に無理とのことだ。
それこそ、時間を巻き戻してしまわない限りは。
わかっていたことを蒸し返され、少しばかり悪くなった気分も、新しく与えられたこのチョークと、それを入れる袋を前に少し溜飲を下げてくれている。チョークは以前のものよりモノがいいのかとても書きやすいし、袋だって中で折れたりしない適度な大きさで大満足。
それを確かめるように手にとって、そして声を綴った。
『彼もお世辞がダメなの?』
「あぁ、うん」
君も見ればわかると思うけど、とエルディクスは答えた。
「バカ正直だから、リードって。王族としては歯の浮くような愛想笑いなんてある意味で必須なんだけど、そういうの嫌いでね。笑顔の仮面をつけての腹の底の探りあいは、時に自分を守る盾となるし、時に敵を切り裂く刃となる。料理人が包丁の使い方を覚えるのと同じことさ」
だけど、とエルディクスは続けて。
「どうもリードは、君と同じでお世辞をうまく交わせないヤツさ。父王がお亡くなりになられてからだいぶマシにはなったんだけど、特に年頃の女性への愛想がね、かなーり冷たい」
よくわからず首を傾げる。
すると、エルディクスは苦笑交じりに。
「女のあしらい方が完璧すぎて、逆に相手を泣かすんだよ」
といった。
……確かにそれはダメだ。
今まで庶民の間にすら浮いた話がこなかったのは、どうもそのせいらしい。言い寄ってくる令嬢という令嬢を、片っ端から冷たく突っぱね続ければ、始まるものも始まらない。
まぁ、あの王子様のことは本人に任せればいい。
王子様だし、政治的にミスをしなければ問題もないだろう。それに令嬢をあしらうのが徹底的なだけなら問題はない。一応、花嫁はここにこうしてとっ捕まえてあるわけだし。
問題は、その花嫁の方も負けず劣らず、というところ。
『かわせないと、ダメかな』
「それも仕事だからね。愛想を振りまき、お世辞をやり取りし、本音を隠す。自分の急所を巧みに隠しながら相手の急所を探り、そこにナイフの切っ先を突きつけて、そして笑う」
そういうものさ、とエルディクスは笑った。
王族は、ただぺこぺこと傅かれているだけでいい存在ではない。その周囲に立つ人も、祀られるだけの存在であってはならない。それを当たり前と、思うことは許されない。
そう言いたいらしい。
……いくら学のないあたしでも、ここでの生活でそれはもうわかった。
王族って、結局は国の代表のようなものだ。
個人個人への評価が、国への評価に直結する。
だから食事の作法一つ、なんてことは言えない。
あたしは、すべてをしっかり、完璧にこなさなきゃいけない。
孤児院では夢にも見なかったようなごちそうを、口に入れる生活を当たり前と思ってはいけないのだ。だってそれは、多くの人が収めた税で賄われているものだから。
王族には、民に金を出させるだけの仕事をする『義務』がある、そしていずれは王妃という椅子に座るあたしにも、それ相応の義務がある。そのためには笑顔が必要で、軽く見られないだけの教養なんかも必要になる。手始めに、食事のマナーと身支度、という感じだろうか。
無数の悪意と害意に晒されながらも、常に笑顔でいなきゃいけない。満面ではなくうっすらとした笑みを浮かべて、何事もそつなく軽々とこなしてみせなきゃいけない。
あたしの場合、何か余計なことを口走らないというのは、きっと彼からすると不幸中の幸いとも言うべき安心材料だっただろう。だけど、これは後々響く懸念材料だろうなと思う。
声が出ない分、あたしは表情に感情が出やすいのだ。
普段は無表情に近いと思うけど、ふとした瞬間につい顔に出てしまう……らしい。
シアや神父様に指摘されるくらいには、きっとわかりやすいのだと思う。
それすら制してみせるべきなんだろうけれど、そうなる日は来るのだろうか。無意識までいうことをきかすなんて、そんな器用なことはあたしにできるとは思えなくて、不安になる。
それすら、やっぱり顔に出てしまうのだろう。
「ま、君はオンナノコだからね、そこら辺の腹芸は期待してるよ」
問題はリードだ、と呟く声は小さい。
良く言えば実直で、悪く言えばバカ正直で。
駆け引きとか、そういうのが無理なんだろうなと思う。ほとんど初対面でも、一応は神託というものに選ばれたあたしに対し、あんな反応を人前で見せたんだ。
少し、エルディクスへの同情心が芽生える。
「だからボクらは神託を乞うた。リードをよりよい王にするために、この国のために。神託とはそれくらい、この国や周辺国では重要なものなんだよ。少しはボロも出にくくなるかな。隣国の王女を一度怒らせちゃってね、それはそれは大変なことになったから……」
いい加減にいろいろ自覚してほしいよねぇ、とエルディクス。
同情はするけど、やっぱ理解はしたくないな。
要は、あたしはあの王子様を支える添え木ってことじゃないか。わかってる、そんな程度でも使い道があるだけマシなんだろうって、卑屈気味だけどちゃんと立場を理解してるけど。
なんとも言えない、この不愉快さの行き場はどうしろってのさ。