逃れられない運命
ちゃぷ、と音がする。
ほわほわと舞い上がる湯気と、身体を包み込むぬくもり。
あたしは朝っぱらからお風呂に入っていた、強制的に。乳白色に濁ったお湯は、花かハーブの香りがする。何だか眠くなる香りで、ちゃんと寝たはずのあたしは小さくあくびを零した。
でも、こんなのんきでいられるのはあと少し。
今日からあたしは、王子の婚約者としての立場に立たされるという。昨日、誘拐同然に城に連れて来られた次の日からか、と思わないでもないけど、国の現状を考えれば仕方がない。
なにせこの国は現在、国の頂点にあるべき国王がいない状態だ。
もしどこかの国が攻め込んだら、とか考えると、急ぎたくなる気持ちはわかる。あたしだってそんなことになって、国が王がいないせいでまともに動かなかったら困るし恐ろしい。
そんなことを理由にしながら、あたしは逃げたいという気持ちに抗った。
婚約者という立場になったとはいえど、まだお披露目ってわけじゃないらしい。いつまでも孤児のままでは置けないので、この城に住む理由をくっつけたようだ。これからあたしの知らないところで養子縁組とかが勝手に決められていき、王子の花嫁になる頃には名前も知らないどこかの貴族の養女、つまりは形だけは貴族令嬢として嫁いでいくという物語のようだ。
つまり、すでにあたしは『ただの孤児』じゃない。
現に――絶賛入浴中のあたしの近くには、静かに佇む数人の侍女。落ち着くとか恥ずかしいとか言うどころじゃない。もう嫌だ。勉強なんかより、こっちの方が精神的に苦痛だった。
漏れそうになるため息をグっと飲み込んで、あたしは朝のひと時を堪能する。
傅かれてお世話されること、誰よりもいいものを食べていいものを着ていいものにだけ触れる生活をおくること、その代償にいろんな責任と義務を背負うこと。それがあたしの運命。
もう逃げられないんだなって、今更ぼんやりと思う。
今更、今更すぎるけど、思ってしまう。
あの教会で、ただの孤児として暮らす日は二度と帰ってこない。貧しかったし、辛いことも多かったけれど、平穏で平凡で、あたしが愛した日常は。もう二度と、帰ってこないのだ。
ここであたしは、生きて死ぬ運命だ。
その運命を決める神様が、あたしを選んでしまったのだから。
逃げ道なんて、どこにもないよ。
「――」
鳴き声の代わりに息を吐いて、嘆くように膝を抱える。大丈夫ですか、と声をかけられたけど無視した。どうせ大丈夫という喉もない、小さく頷いて後は全部意識から追い出した。
「姫様、もうそろそろ出ていただかないと……」
予定が、と言われて、あたしは顔を上げた。さすがに少しくらりとするし、彼女達に迷惑をかけるのも心苦しい。この状況が気に入らないとはいえ、ワガママを言うのはよくない。
揺れる水面に、自分の姿が見えた。
名残を惜しむように、あたしは心の中でつぶやく。
――さよなら、孤児の、庶民だったあたし。
■ □ ■
ざばり、と湯船から勢いよく出る。
と、そこで髪を結い上げていた髪留めが、外れてお湯の中に落ちてしまった。慌ててお湯の中から手探りでつかみ、濡れて重くなった髪をいつもの癖で無造作に絞ろうとして。
「姫様はこちらへ」
その前に、侍女に取り囲まれてしまった。二人が持つ、例のふかふかの布で丁寧に身体の水分をぬぐわれる。その間に別の侍女が髪を同じ布でくるんで、何か呪文を唱えた。
どういうものかは知らないけど、唱えられている言葉の雰囲気と、それから何を言っているのかわからないところから、それがおそらくは魔術の類だということはわかる。
神父様がよく、擦り傷とかをそうやって治してくれたから。
どういう仕組みなのかはわからない。雰囲気でそれが魔術なのはわかったけど、特に熱を感じるわけでもなく。ただ、だんだんと髪の重さが、抜けていくような感覚だけがあった。
昨日も同じことをされたはずだけど、いろいろありすぎて記憶から抜けている。この髪は毎日乾かすのに苦労していたので、そこが解消されたのはちょっと嬉しい。
面倒なら切ればいいんだけど……なんだか面倒だったのと、もったいなかったから。
それにこの髪は、ちょっとした貯金のようなもの。
意外と、長い髪は『高値で売れる』のだ。魔術などの触媒とやらに使ったり、あるいは付け毛なんかに使ったり。そういう市場がある程度には、需要があると聞いたことがある。
だからあたしに限らず、女の子は結構髪を長く伸ばしていた。
いざという時、お金に変えることができるように。
どうせ切ってもすぐに伸びるし、身体を売るよりはマシな行為かなとか、ね。教会なんかにいると、特に神様への信仰に目覚めていなくても、そういう行為への抵抗が芽生えてしまう。
でも、もうそんな金策を考えなきゃいけないような心配も無いのだし、思い切って切ってしまってもいいかもしれない。あたしの世話が仕事とはいえ、この長さは面倒だろうし。
長い髪を手に、侍女が少し考えた素振りを見せたところからしても、これほどの長さはいかにお嬢様などであってもお目にかからないものなんだろう。……やっぱ、切ろうかな。
そんなことを悩むうちに、侍女の手はするすると動き始める。
左右や後ろと一緒にずるずると伸ばした前髪、それをさっと左右に分けるとそのまま後頭部の方でまとめて、さっと髪留めをつける。髪留めはどれにしますかと問われ、花を選んだ。
白い花を模した造花の飾りは、綺麗だと思う。
細い鎖でガラス球を吊るしているから、動きがあってキラキラしていた。
後頭部だから自分で見ることはできないけど、それなりに見栄えはいいと思う。
髪が整えば次は服。
下着も何もかも着せてもらうという、別の意味で非常に疲れる仕様。それくらいできるという言葉は、きっとしゃべることが可能だったとしても無視されたような気がしてならない。
だけど納得できないし、着替えのたびに神経が磨り減る。
せめてそれだけはなんとかしてもらおう、と改めて胸に誓う。
さて、そんな朝から疲労を与えてくる時間の末、着用したのはやっぱりワンピース。昨日のとはデザインが違うけれど、同じような雰囲気のもの。ふんわりとして、かわいらしい。
だけどお姫さまっていうものは、普通はドレスじゃないのかな。腰をこう、ギュっと絞り上げる感じで、ドレスには骨を通してふんわりさせて、腰をより細く見せるとか何とか。
……って例の子が言ってたし。あれだけ貴族社会に戻りたがって、幸運を掴みとって戻っていった彼女が、間違いを口にするとは思えない。さすがに数年でそんな様変わりは、うん。
着替えが終わったら、部屋の隅にある鏡の前へ。
ここ、脱衣所だと思ったけど着替えのための部屋でもあるらしい。だから数人の侍女が入っても余裕って感じに広いし、クローゼットとか等身大の鏡とかドレッサーがあると思った。
そのドレッサーの前に座って、髪に櫛が通される。
昨日のように手足には何かが塗りこまれ、ふんわりといい香りが部屋に満ちた。
手から腕へ、それから足も念入りにむにむにともみ込まれる。どういう意図があっての行為なのかわからないけど、気持ちいい。肌も何だかスベスベになるから、気分もいいし。
それにしても、お姫様って大変なんだと思う。
お風呂さえ一人では入れず、食事も周囲に見守られながらの窮屈なもの。
単純な着替えさえも手伝われて、本当に何もやることが無い。
……いや、こうやって誰かにお世話されるのが、お仕事なのかもしれない。
なんていうんだろ……お人形? まぁ、国の代表なのだから見目がいいのは、とりあえずはよいことだと思う。きちゃないよりは、綺麗な方が見ていていい印象を残すと思うし。あたしはそれなりに見目がいい、と思う。中の中、あるいは中の上ぐらい、とか。
少なくとも、一目見ただけで顔をしかめるような不細工ではない……はずだ。しいて言うなら表情が乏しいと言われるくらいで、つまり性格由来の愛想の無さを言われる程度。
しかし、おそらくは美容目的だと思われる作業を、こうも昼夜を問わず徹底的に行われるとなると、自分に対する美的評価は、子供にありがちなうぬぼれだったのかもしれない。
なんど、そんなことを繰り返せばいいのか。
ため息を心の中で零し、逃げられないこの運命を呪った。