憂鬱な時間
王子にチョークを投げつけ、逃走し、捕獲され。
あたしはそのまま、城の一室へと押し込められた。半ば荷物か何かを放り込むように転がされた部屋の内装を見て、あたしは思わず逃げることも抵抗も忘れてしまう。
思わず息を呑むほどに、その部屋は綺麗で……すごかった。
ここは、国賓だとかに提供する客室らしい。つまりは仮住まいということのようで、そのうちあたしには専用の部屋があてがわれるのだろうと思う。きっと、これよりすごいんだろうなと思うと気分が滅入った。これでも限界近いのに、これ以上とか耐えられそうにない。
これで話し相手でもいればいいけど、いたとしても誰も彼もがこういうものに慣れている人ばっかりに違いない。一応、あたしは未来の王妃らしいし、そんな存在の傍にあたしと同じ価値観の人なんて現れるわけがなかった。彼ら彼女らにとっては、こんなの普通だろう。
とぼとぼ、と歩き、無駄に凝った装飾が施されているソファーに座る。
ソファーなんて所詮座るためだけの道具でしかないのに、どうしてこんな飾り立てているんだろう。フカフカ感を出すのは、使い心地に差が出てくるからそこはわかるんだけど。
意味がわからないな、と胸の内でぼやきつつ、あたしは部屋をぐるりと見回す。
そこには王子が盗難を心配するのも、まぁわからないでもないぐらいに、素人で庶民のあたしでも売ればいい値段が付きそうだなと思うものがたくさんあった。
入ってすぐの部屋は、食事をしたりするテーブルやソファーがある普通の内装。どうやらあたしは普段、ここで過ごすことになるらしい。部屋の隅、窓際には読み書きをするための机なんかも置かれていて、その脇には空っぽだけど一応本棚がある。たぶん、この部屋にはいる人の好みなんかにあわせて、その都度あれやこれやと本を詰めてから向かい入れるのだろう。
そしてあたしの好みなんてここの人が知るわけないので、空っぽというわけだ。
この部屋の隣には寝室。ちょっと覗きに行ったけど、天蓋付きの一人寝には無駄としか言い様がないほどでかいベッドと、あと細々した小物を置くためなのか棚が少しあるだけ。
棚には花瓶が置かれていたけど、花はなかった。
大きさはそう変わらない二つの空間だけど、家具の数はぜんぜん違った。というか寝室にはベッドぐらいしかないといっていい。絶対、あれのせいで何も入らないんだと思う。
そして、そのさらに先にあるのが浴室だった。
教会でのあたしの部屋と、そんなに大きさが変わらないお風呂。どうやらこの部屋の滞在者専用のお風呂らしく、かなりご立派な装飾と大きさがあるお風呂が備え付けてあった。
一応教会にもお風呂はあった。そこそこの広さがあって、年長が年少と一緒に入って洗ってあげたりするのが習わし。あたしもシアも年長だから、やんちゃざかりの小さい子を連れてお風呂に入っていた。一応男は男、女は女なんだけど、年長に男の子がいなくて、神父様が代わりに連れて入っていたけど……かなり大変そうだったなぁ。裸で走り回られたりして。
こっちは女の子が相手だし、あたしとシアとシスターの三人で分担だから、そんなに大変ってことはなかった。たまに集団でお風呂にはいるのを恥ずかしがる子がいたりして、それをなだめるのに苦労したぐらい。ほら、あたしは意思疎通の手段がちょっと面倒だからね。
水が豊富なこの国は、入浴という文化が強く根付いている。他所では王侯貴族ぐらいしか嗜まない行為らしいけれど、ここでは孤児であっても毎日身体を綺麗にできた。庶民や底辺ですらそれなのだから当然王侯貴族はもっとすごいのだろう、入っていないからわからないけど。
と、ひと通り見て回って、あたしは再びソファーに腰を下ろした。
ここは普段、あんまり使われない場所なんだろうと思う。
他には何もない、まるでお湯で野菜をゆでただけの汁みたいだ。ここから塩や胡椒、あるいはトマトとかで味をつけていくみたいに、その時々であれこれと配置を変え彩りすら変えて。
全体的に暖かい感じのする色を使った部屋は……なのに、やけに冷た感じる。
あたしの居場所じゃないと、決まっているせいかもしれない。
そんな場所に閉じ込められて少しして、厳重に外から施錠された扉がまた開く。
やってきたのはマツリと、エプロンと同じ服を着た年上の女性達。
彼女達は、あたしの世話をする侍女らしい。たぶん、誰も彼もがそれ相応の家柄の出身なんだろうなと思い、いくら神託に選ばれてしまったとはいえ、あたしみたいな薄汚れた孤児なんかのお世話、仕事としてもプライドとかがズタズタなんだろうなとか、ふと考えてしまう。
何も言わない彼女らは、あたしを取り囲むとまず服をひん剥いた。ただでさえボロい服を引き裂かんばかりの力は、その細い腕のどこから出てくるのだろう。さすがに嫌だという意志を示すべく抵抗を試みるも、さすがに相手の数が多くてただ疲れるだけの結果に終わった。
それから、さっきまで着ていて、たぶん捨てられるのだろう服と似たような――でもぜんぜん違うワンピースがこの身体を包み込む。形自体は似ているけど、装飾という部分において別物のようになったかわいらしい服だ。袖がなくて膝を隠す程度の丈を持つ純白のワンピース。
それから髪に何かの液体をもみこまれ、櫛で丁寧にとかされ。手にも何かいい香りがするものを揉み込まれてマッサージ、もちろん足の爪も宝石かガラスかっていうくらい磨かれる。
ぴかぴかの爪に、つやつやの髪。
あたしの身体じゃないように思えてしまう。
少し、というには大きすぎるほどの、気持ち悪さがあった。
それからマツリから、いろいろと話を聞いた。今では貴族の奥様をしているマツリは、こことはぜんぜん違う場所から来たらしい。そして故郷ではかつてのあたしと同じ、ただの庶民。
だから、何かあれば自分が力になると彼女は言ってくれた。
マツリは、自分がここでの生活で戸惑ったところを、細かく教えてくれた。
その対処法も、しっかりと。といっても、ほとんどが『相手にするな』の一言で片付きそうだったけど。だって大半が『人災』だ。くだらない諍い、くだらない嫉妬。
わざわざ相手をしてやるほどの価値すらない、馬鹿馬鹿しい。
そうこうするうちに昼食の時間になったらしく、たくさんの料理にたくさんの食器が部屋の中にあるテーブルに並んだ。ナイフやフォーク、スプーンまでもが、何種類も並んでいる理由も何もわからないけれど、どうやらこの昼食はあたしとマツリの二人分あるらしい。
向かい側には、マツリが座った。
てっきりおしゃべりしながらご飯を食べるのかと思ったけど、違った。
彼女は一つ一つの食器の、使い方や順番や、マナーを、細かく教えてくれる。やれナイフやフォークはこの順番で使っていくだの、音を立てないようにしろだの、すごく細かい。
食事の時間さえ、勉強が続く。
そこに少しの甘さもなく、『マツリ先生』はとても厳しかった。
さすがのあたしも、かなり精神的にキた。この目の前にある食べ物はあたしの胃が驚きそうなほど豪華で、ものすごくおいしい料理だろうに、残念なことに味を感じることができない。
それでもしっかり空腹感はあるから、あたしは話を聞きながらお腹を満たしていく。
窮屈な食事が終わって、再び最低限のマナーとやらを教えられた。おやつの時間だと思ったらそれも勉強だった。当然のことだけど、味なんて理解するだけの余裕も何もなかった。
そしてまた食事があって、お風呂の時間となったけど。
この瞬間が、最高に苦痛だったと思う。
あたしの服をひん剥いた侍女集団が再びやってきて、あたしは隣の脱衣所へ。マツリはソファーに座ったまま、にこやかにあたしを見送る。あの笑顔は、今から思えば悪魔のそれだ。
そして、あたしは彼女らに――今度は全裸にされてしまった。
それにとどまらず、浴室で丁寧に、全身をくまなく洗われてしまう。拒絶を全身で訴えるような場所すらも、彼女らは淡々と洗ってくる。またあたしは疲れただけだった。
苦行から開放されたのは、全身を洗い終わってお湯に漬かる時だけ。
心安らかだったのは湯船に使っていた時だけ。教会でもお風呂といえば温水で、交代で火をおこすのが決まりだった。なのでヘタな子が当番だと、温かったり熱かったりしていた。
そのことを思い出す間もなく、あたしはお湯から引っ張りだされて布にくるまれる。ふわふわとした織り方で作られた布は特別製なのか、あっという間に全身の水分を奪っていく。
それと同じ布を丁寧に押し当て髪も乾かされ、それと並行して行われるのは身体に花の香りがする液体をもみこむ作業。ちなみにまだ全裸だった。なので全身くまなく揉み込まれた。
一通り作業が終わって、下着から寝巻きらしき衣服から、全部を着せられて。
外がすっかり暗くなった頃合いに、やっとあたしは『一人』になれた。