ばかなひと
ダフネは、セヴレス家に仕える侍女である。
幼い頃から屋敷に住み込み、ここのことなら誰より詳しいという自負もある。
主に年の近い伯爵の子供二人の世話を担当していて、兄であるディオンとは幼なじみといえるかもしれない。もっとも性別が違うので、そこまで親しかったわけではないが。
それでも行儀見習いといいつつ、ディオン狙いで入り込む商家の娘よりは、ずっと彼女は彼ら兄妹と近い場所にいる。家族の次に、きっと二人を理解しているのはダフネだった。
でもそれは、うぬぼれだったのかもしれない。
知っている『つもり』で、本当は何も知らなかったのかもしれない。
もしも本当に理解していれば、近い場所にいたなら、こうなる前に気づくことができたに違いないのだ。止めることなんて余裕だろうし、そもそも止めなければいけない事態もない。
それらが叶わなかったのは、つまりそういうこと。
失望とはまた違った何かを飲み込み、ダフネは人気のない廊下を歩いていた。
みんな逃げてしまった、あるいは隠れてしまった。
先ほどの轟音は、魔術を用いて守りを固めていたはずの門扉を吹き飛ばしている。そこから数人の若い男女が敷地に入り込んでいて、それにガラの悪い私兵達が向かったところだ。
……さて、どちらが正義なのだろう。
突如として屋敷を襲撃した彼らなのか、道を踏み外しつつある主の手駒なのか。
ダフネにはわからなかった、何もわからなくなっていた。
ただひとつ、彼女でもわかっていたのは、自分の主が間違いをおかしてしまったこと。洒落では終わってくれないことを、現在進行形で今も続けているということ。
なんて、あぁ、なんてバカなひとだろう。
どうしてあの人は、こんなにもバカなんだろう。
ダフネは見知らぬ人が増えた屋敷の中、そんなことを思いため息を付いた。長らく見ない屋敷の主たる伯爵、次々と現れる夫人に雇われたらしい謎の男達、城に上がった令嬢。
そして神託の花嫁に興味を示すダフネの主。
それくらいなら、割りとよくある貴族の有り様だった。このセヴレス家では異質だが、夫人が夫人だったこともあって、ダフネもついにそうなったかと思うだけだっただろう。
けれど状況は、そこにとどまってくれなかった。
高みを望むだけではなく、思慕を抱くだけではなく。
主は、ディオンは手に入れてしまった、手に入れてはいけない人を。
どうしてこうなった、なぜこうなってしまった。そう疑問を浮かべて嘆くまもなく、彼女の周囲には不穏と不和の不気味な種ばかりが増えていく。芽吹かないで、そのまま朽ち果ててくれればどれだけよかっただろう。しかしダフネの願いも虚しく、ある日それは芽を出した。
それが今だ、それが今日だった。
こっそりと開放し、逃がしたあの少女はどうやら仲間を連れてきたのだろう。
うまく外に脱出してくれたのだろう。
ならば、次は自分が動かなければいけない。
ダフネの足は、自然と屋敷の外へと向かっていった。ただし前ではなく後ろ、裏庭へ。主が消えていった森の奥に、侵入者達の目標はある。けれど教えているヒマはなかった。
彼らはまだ屋敷の中に入っておらず、戦場に踊り出る勇気はない。
戦いが終わるのをまっていたら、きっと手遅れだ。
場所を知っている、ダフネがいかなければ。
――でも、そんなの全部建前。
彼らはきっと怒っている。主を、ディオンを殺してしまう。それは嫌。それは嫌なの。最悪の状況に火を灯したくはない、ほんの少しでも状況を好転させたい。悪化だけは阻止したい。
そんなことを、言えた立場でもないというのに。
ただただ、彼の命だけでも救いたくて。
バカなのは、きっと自分だった。
■ □ ■
森を抜けた先、ダフネは一人の少女をじっと見る。
白い、とても白い人だった。
汚れ一つ無い、汚れなどあってはいけない。まるで深雪のような、白。美しい、息が詰まるほどに綺麗な人だと思う。まるで作り物のように、魅入られる感覚が全身に走った。
主は、これに取り憑かれたのかもしれない。
そうであっても、おかしくはない。
これが、神がその光を持ってして示した花嫁。
この国唯一の王子の。
白いはずのその人はけれど、あちこちが薄く汚れてしまっていることに気づく。やらかした張本人は、どこかバツが悪そうに離れたところで俯いていた。
まるで叱られた子供のようで、なんと情けない。
しかしそんな情けない彼の相手などしていられないダフネは、少女の前に膝をついて目線を合わせた。彼女は、まだ床に座り込んだままだったから。
名前は知っている、誰もが知っている。
王子の花嫁、神託が道いびいた人――その名前は。
「ハッカ様、ですね? わたくしはダフネ。セヴレス家の侍女でございます。此度は当家の坊ちゃまがとんでもない無礼を働きまして……でももう大丈夫ですわ、何もさせませんから」
そっと手を握れば、微かに震えがあった。
そこで拗ねたようにしている主、あとで引っ叩こうと心に決める。
「あなたの侍女をわたくしが逃がしました。ですから、もうじきここに彼らはきます」
「ダフネ、お前……!」
なんてことを、と続けそうなところを、睨みつけて止める。
それを言いたいのはこちらであり、彼女を助けに来た彼らの方だ。
本当に、本当になんてことを。やっと顔を上げたかと思えば、ディオンはまだ諦めていない様子を隠さない。嘆かわしい、情けない、悲しい。いろんな感情がうずを巻いた。
立ち上がったダフネは、こちらを睨むディオンを見つめ返す。
う、と息を呑むように彼の動きが止まった。
「おとなしくなさいませ、坊ちゃま。いい年をして、無いものねだりとは見苦しい」
「な、何を」
「もはや言い逃れなどできないのですから、だまらっしゃい」
「……」
きつく言い放つと、自覚はしているらしく静かになる。
ダフネはため息を深く深く、わざとらしいくらい強くこぼして、再びハッカの方を向いて前に膝をついた。服のポケットからハンカチを取り出し、その頬についた血をそっと拭う。
ここに来てから、彼女はどんな目にあったというのだろう。
綺麗に整えられているはずの髪もボサボサで、乱暴に扱われていたのは間違いない。それどころか、彼女は軽い暴力すら振るわれたのではないだろうかと感じる。
殴られたというよりも、平手だろうか。
ハンカチを水で濡らして冷やしてあげたいが、ディオンを背にしてそんな余裕はなかった。
ひとまず彼女を連れて外に出ていようか、ダフネが思案した時だ。
外から、草を踏み走る音がする。
その音はだんだん近寄って、そして。
「ディオン・セヴレス、今すぐあいつを返しやがれ!」
半分開いたままだった扉を、破壊しかねない勢いで蹴り開ける少年がやってきた。黒髪の少年はダフネらを順番に見て、最後にディオンを視界に入れてその目尻を軽く釣り上げる。
燃えるような炎色の瞳にはぎらりと、底冷えするような痛い鋭さがあった。
火を見るよりもわかりやすい、ダフネは思う。
彼は、誰よりも強く怒りを強くたぎらせているのだと。
わたしの、バカな主。
あなたの夢は、もう終わります。
せいぜいたっぷりと叱られてらっしゃいませ。数発は殴られることも、覚悟なさいませ。大丈夫です、すべて終わったら少しくらいは傷跡を撫でて差し上げます。
本当にバカなのは、きっとわたし。
どうしようもないくらいにダメな人から、離れてあげられないわたし。