たすけて
部屋の中へ、崩れ落ちるように現れたのはシアだった。いつもは清潔そうに整えられている髪はぼさぼさに乱れて、見慣れた侍女服も二度と着れそうにないほど破かれボロボロだ。
全体的にほこりや泥などで薄汚れ、殴られたのか唇の端に赤いものもにじむ。
見目のいい彼女に、それらは余りにも痛々しい彩りは、尋常ではない何かが彼女を襲ったことを無音のままに伝えてきた。そして、シアがいて『彼女』がいないことに、恐怖が浮かぶ。
「……何があった」
真っ先に、シアに駆け寄ったのはユリシスだった。
彼は懐から白いハンカチを取り出すと、それでシアの顔を丁寧にぬぐう。
その合間、シアは途切れ途切れに『何があった』かを、語った。
「あの、ディオン・セヴレスがやってきて、ハッカが連れて行かれて、それで……!」
「は?」
ハッカとディオン、ハッカが連れて行かれた。
それが一瞬繋がらなくて、リードはあっけにとられる。
繋がらないことはない。例えば、すぐそこで泣いているディオンの妹はこの前から城に上がっているし、兄のディオンはどうやらハッカを狙っているような感じだ。そう、ついこの前それについて話し合ったところではないか。そんな程度には、二人には関連があるといえる。
だが、それがどうしたと心の中でつぶやいた瞬間、リードはその不自然さに気づく。
「……いや、まて。なんでディオンがあそこに入り込めた?」
リードの記憶が正しければ、ハッカはかの令嬢らとお茶会をする予定である。つまり、立ち入りが制限されている、後宮と勝手に呼んでいるあの場所にいたはずだ。
一応、貴族令嬢が滞在していることもあり、特に男性の立ち入りは、身内であっても制限されているはずで、入れたとしても人を連れ出すなどおそらく不可能に近いだろう。
しかし、ハッカはどうやらその不可能を可能にされ、今、城にいない。
シアだけが、こうして知らせに戻ってきたのだ。
「詳しくわかんねぇのか、そこんとこ」
「それが、わたしもハッカも箱の中に押し込まれて……ほら、あの荷物を持ち込むのに使ってたちょっとハデなやつです。あれに紛れ込むかなにかして、入ってきたと思います。それと同じ方法でハッカも連れだされて、それで、えっと、知らないお屋敷に馬車で運ばれて」
顔をぬぐわれたシアが言うには、いきなり現れたディオンに拘束され、そのまま箱に押し込まれたのだという。箱詰めのまま城を出て馬車に乗せられ、知らない屋敷に辿り着いた。
そこで彼女とハッカは、離れ離れになったらしい。
やけに静かな場所に放置されたシアは、必至に脱出しようとした。けれど箱に巻きつけられ硬く結ばれた紐が外れず、ばたばたと暴れてみても意味はなく、ただ体力を消費するのみ。
半ば脱出も救出も諦めそうになった時、シアはその屋敷の侍女の手で外に出された。
年齢は少し年上の、おそらくは成人しているであろう女性で、シアがそれとなく尋ねても彼女は決して名を明かさなかったという。その助成はシアを箱から出して道案内をしつつ、ここがどこかを伝えてくれた。二人が連れ込まれたのが、セヴレス家の屋敷である、と。
そして、どう進めば外に出られるのかを、教えてくれたのだという。
彼女は最後、シアに王子への伝言を託した。
――奥様は伯爵様を、死に至らしめるおつもりです。
侍女いわく、これまでは薬と称し娘の手から毒を与えていたが、今は自らの手で飲ませているのだと。伯爵はすべてを知っていて、城にいる娘の安全のために飲み続けていると。
シアは女性に言われた通りに進み、どうにか外に脱出できた。ただ、出口のところで夫人が金で雇っているらしい私兵に見つかって、どうやら彼らと軽く乱闘してきたらしい。
幸いにも休憩中だったのか、彼らは武器の類を持っていなかった。
体格差のある相手を掴んでは投げ、かわしては投げ。時々は吹っ飛ばされ、どうにかこうにか正面突破に成功したわけだ。彼女の惨状は、その時のもののようだった。
「それでハッカはどこにいる」
「たぶん、伯爵のお屋敷にいるだろうって。どこかまでは、ちょっと。例のお姉さんも、屋敷のどこかにはいるだろうけど、今は近寄れないからわたしを先に逃がすって言ってました」
「……信用、できるのか?」
「セヴレス家の使用人が、誰も彼も夫人に従っているとは限らない。実際シアはこうしてここまでこれたのだから、一定の信頼は向けてよいのではないかと思うが」
「そうか……」
よし、とリードはベッドの上に投げ捨てていた上着を手にする。
「エルとマツリ、それからあの三人を呼べ。これから伯爵の屋敷に殴りこむ」
「騎士団はどうする?」
「動かす時間がないし、目立つだろ。連中――いや、ディオンの狙いは、アイツだ。これだけのことをやらかすくらいだ、ちんたらと人を集めてる間に何かあったら取り返しがつかない」
相手は城に忍び込みハッカを連れ去らえる策を広げてきた、とんだ策士だ。どういうルートで連れだしたにせよ、計画は念入りに考えられたものであると思っていいだろう。
こうしている間にも、彼女はひどい目にあっているかもしれない。
痛みに泣いて、震えているかもしれない。
助けに行かなければならない、他ならぬ自分が。そこからくる問題は、後からどうにでも処理すればいい。時間はない、すぐにでも動かなければ。すぐに動ける人材で、早く、早く。
――絶対に許すものか。
自分でもわからない強い感情が、彼の中でそう叫ぶ。
リードは護身用の剣を握り、未だ壁際でうずくまったままのクリスティーヌには見向きもしないで歩き出した。彼女が何をしたかったかはどうでもよく、その身柄は適当な騎士に任せればいいだろう。襲いに来たかと思えば何故か泣き出し震え上がり、話も聞けそうにない。
部屋を出ていこうとしたリードの、服のすそを掴む指。
「おい、邪魔するなら切り捨てるぞ」
振り返った先には、顔が涙でぐちゃぐちゃになったクリスティーヌがいた。
「リード、それは」
「人の寝込み襲った上に誘拐事件の共犯だ、当然だろ」
あらかじめ決められた規則を破った、というだけでも厳罰である。そこに神託に選ばれた花嫁であり、公的にはリードの婚約者でもあるハッカの誘拐に関わった。今、ここでリードに斬り殺されても文句が言える立場ではなく、わかっているはずの彼女はしかし手を離さない。
「……ねがい、します。お願いします、お願いします」
彼女はリードの服を掴んだまま、震える声で、泣きながらこう言った。
俯いたまま、たどたどしい声で哀願した。
「私、わた、し、どうなってもいい、です……から、どうか、どうか」
――あの人を助けてください、と。
■ □ ■
クリスティーヌをテオに任せ、リード達は伯爵の屋敷の傍に潜んでいた。使用人などの出入りで華やかさと賑やかさがある周囲とは違い、伯爵の屋敷は不気味に静まり返っている。
「やっぱり、最近セヴレス家はおかしいって噂になっているらしいね」
エルディクスがそれとなく、周辺に住む知り合いの貴族を尋ね戻ってきた。
その知り合い曰く、伯爵の屋敷に見慣れない、そしてあの伯爵の人柄から考えてあまりにも似つかわしくない素性も素行も悪そうな集団が頻繁に出入りしているのを何度も見たという。
まだ幼いその家の令嬢は、怖がって家から出ようともしなくなった。
他の屋敷も同じようなもので、しかし高圧的な夫人の前になすすべも無いそうだ。
下手にかかわっては、あの連中をけしかけられるかもしれない。
そう思い、みながおびえながら暮らしていたようだ。
それだけでも報告されていいはずなのだが、あのセヴレス伯爵に限って、という気持ちと神託の花嫁にまつわる人の流入の影響で、そこまで至らなかったという話だった。
何かしら悪さをすれば話は別だが、彼らはよくも悪くもおとなしかった。
暴れるわけでもなく、近寄ってくるわけでもない。
だから遠巻きにするだけで、関わらないようにしていたのだそうだ。
そこを責めることは、さすがのリードでも無理だった。
そもそも、貴族が雇い入れる私兵の類は、誰も彼もが人相などがよいわけではない。むしろ無骨で威圧と恐怖を与えかねない見目をしているのが普通、と考えるぐらいがちょうどよい。
人相が悪いくらいで上に訴えていたら、きりがないのである。
「連中が雇われたのはちょうどハッカが現れて、王妃候補云々の噂が吹っ飛んだ時期かな。ヒトが多く入り込んだじゃない? そのせいで私兵を多めに雇い入れた貴族もいて、まぁ、そこにうまく紛れ込んだって感じみたい。いっそ暴れたりしてれば、マークもできたのにね」
やれやれ、とエルディクスはため息をこぼす。
ハッカが城に上がった当時、すでに伯爵は病に倒れていた。よって、私兵と思われる連中を屋敷に召し上げるなどの指示を出したのは、十中八九セヴレス伯爵夫人と見て間違いない。
やはり、すべての中心にいるのは彼女――ヴィオラ・セヴレスだ。
もしかするとディオンが、という可能性もあるのだが……どちらにせよ同じことだ。首謀者が一人か二人か、そんな違いしかない。増えたところで、リードらがすることは同じ。
普段着といっていい衣服に着替えた一同は、静かにタイミングを計っている。屋敷の出入口は二つしかなく、もう片方である裏口はテオとユリシスの部下数人ががっちりと固めている。
作戦としては真正面からリードらが乗り込む、以上だ。
エルディクスが周囲に根回しをして、すでに準備は整っている。さすがに花嫁誘拐の話はしなかったのだが、夫人が雇った連中が何か不穏な計画を立てているから、未然に防ぐ作戦。
そんな感じのシナリオである。
根回しついでに聞いてきた話によれば、屋敷の出入りがここ数時間は一度だけ、馬車が数台入っていっただけ、ということだ。その『一度』が、ハッカとシアを連れ込んだものだろう。
さすがのディオンも、ハッカを抱えて裏口から……なんて、そんなことは難しい。
つまり、彼女はまだ屋敷の中にいる可能性が、きわめて高いわけだ。
「うー、なんか人がいっぱいいる……」
動きやすい服に着替え、髪を整えたシアが、悔しそうにその門扉を見ている。
彼女は普段はくるぶしまであるような、ロングスカートの侍女服を身につけていた。季節に合わせて生地や袖の長さが変わるが、基本的には布地が多いため動きにくいデザインである。
今、シアが身に着けているのは、パっと見は侍女服のような衣服。
ただ袖がなく、スカートの丈もひざより上。
その下には女性騎士御用達の、黒いストッキングを身に着けている。うっすらと肌色が透ける程度に薄いものの、魔術を重ねがけした特注品なので防御力はちょっとした鎧並みだ。
打撃には強くはないが、刃物はだいたい弾いてしまう。
更に指の部分を切り落とした革手袋をはめ、ここにいる誰よりも戦意が高い。
そんな彼女は、門扉を睨んだまま似合わない舌打ちをした。
「たぶん、私が逃げ出したから守りが堅くなってますね……」
「問題ねぇよ。正面突破でぶっ飛ばす」
「だーかーらー、それが難しいんだってば……あーあ、もう、この猪突猛進王子は」
リードの隣でぼやくエルディクスは、傍らの妻を見る。
マツリは青い魔石をあしらった杖を手に、じっと門扉に向かって意識を集中していた。
「いけそう?」
「ん……たぶん」
無理はしないでね、という夫に、マツリは笑顔でうなづく。
実は、最近マツリは魔術の調子がよくなかった。
十の結果を求めてもよくて七、最悪だと二か三ぐらいの結果しか得られなかったのだ。最近は何かと忙しかったから、精神的にも肉体的にも疲労がたまっているのかもしれない。
なので、今回は念入りに意識を集中させ、魔力を練り上げる。
失敗は許されない。
確実に進入口を作り上げなければ。
きぃん、と耳の奥で鈴のような、ガラスが砕けるような音がする。いける、と小さな声で呟いて、マツリはかすれた息を吐き出した。まつげの奥に隠れる黒い宝石のような瞳を晒し。
「――いきます」
身体の中で一つの形を持った魔力を杖の先端で淡く光る魔石に叩きつけ、今はまだ術者にすら目に見ることができないその力を魔術という現象へと変換した。
直後、地面を揺るがすほどの轟音が、周囲に響き渡る。
もうもうと煙が上がるのは、硬く閉ざされたセヴレス伯爵邸の門扉。
跡形もなく、周辺の壁ごと消し飛んでいた。
「あ、あれ?」
マツリはそれを見て、おろおろと慌てる。
あえて言うまでもないが、門扉の、開閉する部分だけを吹き飛ばす予定だった。ああいうものを直すのには時間がかかるだろうから、一応はその程度に留めるつもりだったのだ。
だが実際にやってみると、門扉どころか門そのものが跡形もない。
さーっと、身の内から血の気が引いていく音を、マツリは聞いた気がする。
「……や、やりすぎちゃった?」
「まぁ、いいんじゃない、かな? うん、大丈夫だよ、たぶん」
「大丈夫じゃ、ないよ……」
しゅんとするマツリを抱きしめ、よしよしと頭を撫でるエルディクス。
だが、リードはそんな彼女によくやった、と声をかけた。派手に吹っ飛んだその姿に、少しだけ気分がよくなったからだ。伯爵には悪いが、こればっかりは諦めてほしい。
「よし、行くぞ」
くるり、と黒い布を顔にまきつけ、彼はその素顔を隠す。髪の色はいいとして、目の色は余りにも目立った。こんなもので隠しきれるものではないのだが、しないよりはマシだろう。
今回のことは、完全なる王子の独断だ。
伯爵の屋敷に王子が、部下を伴って押し込むなど前代未聞。もしこれでハッカがこの屋敷ではない場所にいたら、と思うとズキズキとした幻痛で頭が割れるようだ。
だが、迷っているヒマなどなかった。
リードは剣の位置を確かめ、仲間の方へ振り返る。
こちらを見ている彼らにうなづき、いっせいに走り出した。