仮面が割れて、夢が終わる
これまでにない量の仕事にてんてこ舞いのきりきり舞いで、その日もリードは執務室に缶詰状態になっていた。文官の数を増やし、早めの処理を求められる類をピックアップ、それらを優先的にこなしているが、せいぜい昼休憩の時間しか確保できていない。
意図的に増やされたその数を前に、リードのみならずエルディクスを筆頭とした文官らの疲労もなかなかに溜まっていて、いよいよ限界も近いのかと泣き言が脳裏をよぎって仕方ない。
それでも口にしないのは、自分などとは比べ物にならないほど、危うくグラついた足場で必死に立っている彼女が、そっと手を握ってそばに居てくれるからだろう。
立場上、恋愛感情というものはよくわからない。
大恋愛の末の結婚を決めたのが両親だが、それは父が名君と呼ばれる偉大な人で、母が立派な女性だったから成せたこと。未熟な自分では、仮に母のような人が相手でも怪しいものだ。
早いうちから、そういうのは無理だとわかっていた。
口では文句を言いつつも、神託に逆らうことはできないと、これも一種の政略結婚だと覚悟の形に近い意味で納得もしていた。どうあがこうと、この縁は絶対なのだと。
それだけ、だったはずなのに。
今、リードはここにいない彼女に無性に会いたくてたまらない。
手を握り、そばに居てほしいと願ってしまう。
けれどあの白い姿は、仮眠室のベッドに沈んだ彼の近くにはいなかった。城に集まった令嬢らの相手をするため、彼女はここに来れないと朝どころか昨日のうちから聞いている。
さみしい、さみしい、あいたい。
ないものねだりとかみっともねぇなぁ、そうつぶやく夢を見た。
数少ない休息を、しかし邪魔する感覚がある。自嘲の夢はそれに消えていき、だがなんとも言えない違和感が全身をこわばらせた。なぜだろうか、奇妙な『重み』が身体の上にある。
上掛けにしては重く、呼吸がわずかに乱れた。
「ん……」
目を閉じたまま手を動かすと、さらりと触れる糸のようなものが指に絡む。
これは――髪、か。
自分の上にのしかかる、長い髪の、おそらくは少女。おしゃれの一環として髪を伸ばす男は少なくないが、さすがに指に絡まるほどに長く伸ばしているものはいない。
――あぁ、なんだ。
小さく息を吐き出す。
こんなに長い髪をもっていて、自分の上にいるとなると、それは一人だけだ。なんで馬乗りになっているのかという疑問は浮かんだが、相手が彼女ならさほど気にすることではない。
リードは安堵して、再び眠りに落ちようとした。
だが、指先に触れている髪の、長さが気に入らない。
彼女の髪は、こんなに短かっただろうか。
この程度の長さだっただろうか。
一つの違和感は、別の違和感を呼ぶ。呼ばれ集まったそれは抗えないほどに膨らみ、リードは圧迫感にも似た警鐘に背を押されるようにして、ようやくその目を開けた。
薄暗い中でもわかる、自分に馬乗りになっているのは――黒髪の女。
一瞬で意識が覚醒する。
――違う、あいつじゃない。
「誰だお前……っ」
慌てて身体を起こそうとするが。
「ダメですわ、殿下」
くすり、と笑う声にそれを止められる。
うまく身体を起こせないまま、リードは再びベッドに身体を沈めた。いくら肉の薄い華奢な女とはいえ、腹の上に乗られ、その体重をかけられてはなかなか振り落とすことも難しい。
ましてや相手が、一応は自分の『相手』として城にいる貴族令嬢ならなおのこと。下手に乱暴を働こうものなら、それを理由に足元をくるりくるりと救われる未来も考えられる。
何より、相手が相手だ。
くすくすと笑う、その声には聞き覚えがある。
覚えがあるというより、うんざりするほど聞いてきた声の一つ。
「クリスティーヌ・セヴレス……」
愛人だか王妃だかを狙って城に滞在中の令嬢の中で、王妃を狙っていることを公言する令嬢の一人。父親は先王の忠実な臣下でリードの教育係でもあり、王妃候補にも数えられていた。
今は後宮と呼ばれる場所にいるはずの、そこに閉じ込められているはずの彼女が、どうしてここにいるのだろう。彼女を含めた令嬢には、あの場所から出ることを禁じたはずだった。
外出が許されても騎士や侍女を伴い、立ち入れる範囲もごく一部のみ。例えば中庭や図書室や衣装室といったところだけだ。当然ながら、ここは立ち入れる範囲ではない。
ゆえにリードは、ここでならゆったりと休めていた。
彼女らに会わずに休息できる、唯一といっていい場所だから。
「そこをどけクリスティーヌ。ここに立ち入ることを許した覚えはない」
「強がらずともよいのですよ殿下。……ほら、いいことをして、楽しみましょう」
くすくすと笑う彼女は、見れば大きく胸元をはだけさせていた。
興味が無い相手とはいえ、年頃の娘が見せるその姿に、思わず意識がにごる。
思えば、同年代の異性とこうも、近くに接するのは初めてだった。夜会などで会うことも少なくないが、リードの感覚ではあれは仕事の一環で、特に何かを感じるということはない。
ハッカとはかなり近い場所にいるが、彼女はまだどうしても幼く見える。本人が聞けば怒るだろうが、年上との付き合いがおおいと、どうしても『子供』だと今でも思ってしまうのだ。
マツリはエルディクスの妻だから数えないし、そんなことしたら明日の朝日を無事に拝めるか少し自信がない。彼女らの次に接点のあるシアも、ハッカと同じく『子供』という感じで。
だから、これがある意味で初めてなのかもしれなかった。
仕事は関係なく、プライベートでここまで同年代と接近したのは。
接近を通り越して密着とも言えるが。
「ねぇ、殿下……私、殿下のお子がほしいんですの」
そういって微笑むクリスティーヌは、とても妖艶だった。
だが、ここで彼女に負けてしまってはいけない。
時折ではあるが、リードを見てやわく笑ってくれる自分の花嫁を思い、リードは身体に力を入れる。一時の過ち、そうとしか言えない愚かな誘いに、乗ってしまうわけにはいかない。
「いいから、どきやがれ……っ」
強引に起き上がって、クリスティーヌの手首を掴んで、身体を押し返す。これでも本職ほどではないとはいえ鍛えている、反動をつけるようにしてリードは身体を起こした。
美しい顔を歪めるクリスティーヌに、少しの罪悪感がにじむ。だが動きに躊躇いを浮かべることはない、できない。抑えこもうと前へ体重をかける彼女の手首を離し、次に肩に触れた。
多少、怪我をしてもかまわない。
突き飛ばす形で、何とか引き離して距離を取ろう。
「お前なんかいらねぇんだよっ!」
そう思い、そう叫び、力を込めると。
「……や、ぁ」
揺れる声が、その赤く彩りを添えた唇から漏れる。びくり、と肩が跳ねるような大きさで震えたと手のひらから感じた次の瞬間、突き飛ばすまでもなく彼女は身体の上から離れた。
そのまま転がるように床に崩れ落ち、壁際に、張り付くように移動して。
「や、やだ、いや、むり、むり……っ」
自分を抱きしめるようにして、その身体が震え始める。
震え、というより、もはや痙攣に近く、まるで彼女だけ極寒の雪山に防寒着無しで置き去りにさられてしまったようだ。空調を整えたこの部屋の中で、彼女の様子だけが異常だ。
「やだ、やなの、もうやなのっ。お母様ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「お、おい……えっと、だいじょうぶか?」
「やだぁ……っ!」
ひたすら謝罪をつぶやき、叫ぶ彼女にリードは近寄ろうとするが、腕を振り回す彼女を前に伸ばした手を思わず引っ込めてしまう。やだ、やだ、と漏れる声の合間に、嗚咽が混じった。
完全に癇癪を起こした子供のような姿に、リードは少し離れたところから見ていることしかできない。相手が本当に子供なら、不慣れとはいえどうにかできなくもないが、相手が相手。
すべてが作戦である可能性が捨てきれないから、どうにもならない。
そもそも、この状況を見られたらそれはそれで問題になりそうだ。どうやってこの状況を脱すればいいのか、寝起きに混乱を叩き込んだ頭でリードは必死に考え続ける。
その間にも、クリスティーヌは震え、泣きじゃくっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ。お母様……お父様っ、お父様っ、ごめんなさいっ。クリスは悪い子ですどうしようもない子なんです許してください許してくださいごめんなさい許し」
口にしていた謝罪の対象は、いつしか彼女の母から父へと代わっていた。
ごめんなさい、ごめんなさい、と震える声と嗚咽が部屋の中に浮かんでは消えていく。まさか伯爵が首謀者なのか、と思ったが、リードが知る伯爵の姿はその考えを全否定した。
あの父が信頼して、息子の教育を任せたのがセヴレス伯爵だ。
名君と呼ばれたかの王が人を見誤るわけがないと、息子であるリードは信じている。たった一人の、最愛の女性が残した息子。その教育係選んだのだから、間違いなどありえない。
だからこそ、彼女の反応が理解できなかった。
母親はまだわからないでもない。かつては王妃になることを望み、されど叶うことがなかったその夢を娘に託した彼女なら、娘に無理難題を言いつけても何の不思議も感じられない。
だが、どうして謝罪対象に父親がいるのか。
どういう形で、病床にいるあの人が関わっているのか。
「わけわかんねぇ……」
リードは頭をかきむしり、ため息をこぼした。
いったい、どうしろというのか、これを。
とはいえ、このまま放置するわけにもいかない。
「誰かいるか!」
さすがに目を離すことができないため、部屋の中から大声を出す。だがいつもなら執務室の外にいる騎士や兵士が、呼べど叫べどなかなか部屋まで入ってこない。聞こえていない、ということはないはずだ。万一に備えて『この部屋は』そこまでの防音などはしていないという。
つまり、すぐに来れる位置、声が届く位置に誰も居ないということだろう。
いや、よく考えれば彼女はここに忍び込んだのだ。
騎士や兵士をどうにかしていても、まったくもっておかしくはない。
完全に詰んだな、とリードがいよいよ頭を抱えた時。
「リード、何かあったのか?」
息を切らし、いつもと違った格好をしたユリシスが飛び込んでくる。ライアード家の紋章が描かれた外套を羽織り、いつもより貴族らしい格好をしていた。
そういえば、彼はマツリをつれてハッカの、親類を尋ねに出ていたはず。話をスムーズに聞き出すため、わざわざ紋章入りの外套を身につけたんだなとリードは考えた。
それを纏ったままということは、彼はついさっき城へ戻ったばかりなのだろう。
そして、リードの声を聞き、走ってきた――という具合か。
ユリシスは警戒をわずかに残しつつ、床にへたり込んだクリスティーヌを見る。その顔には当然ながら困惑が浮かんで、だがリードと同じく泣きじゃくる姿を前に近寄ろうとしない。
「クリスティーヌ嬢、彼女が……なぜここに」
「知らん。いきなり馬乗りになってなんか脱がそうとするし、脱ごうとするし……」
と、リードははだけた彼女の衣服をちらりと見て、すぐに視線をはずす。
そう、本当に意味がわからなかった。
寝込みを襲われたのは、理解している。命にかかわらない方の意味で襲われたことも。しかしどうして彼女は襲ってきたにもかかわらず、いきなり叫んで、あんなに震えているのか。
何も知らない人が見れば、リードが無体を働いたようにも見えるではないか。
こちらはただ、その身体を突き飛ばそうとしただけだ。それくらいの抵抗、寝込みを襲いに来るのだから当然ながら想定しているべきである。いろいろと、おかしいところが多い。
「とにかく、どうやってここに来たのか説明してもらおうか」
がたがたと振るえ、泣いているクリスティーヌを、リードは見下ろした。
その時、部屋の外から再び足音が聞こえて。
「り、リード、様……っ」
勢い良く扉が開き、少女が部屋に飛び込んできた。