遠ざかる日常
窓の外の景色は、だんだんと変わっていく。
あたしが見知ったものから、遠い昔に見た気がするものへ。もう、あたしがいた世界は名残すらない。二度と戻れないような気がして、あたしは外に向けていた視線を戻した。
ずっと無視していたからなのか、エルディクスはさっきから何も言わない。
こちらがもう逃げない、抵抗もしないとわかっているのだろう、隣にいた彼は今、あたしと向かい合っている。作ったような薄ら笑いが、あたしをじっと眺めているのがわかる。
ふいに、その手があたしのかばんへと伸ばされた。
咄嗟にあたしはその手を振り払って、かばんを抱きかかえる。この中には特に貴重なものが入っているわけじゃない、だけどこの人にだけは触ってほしくないと思う。
その抵抗は、彼からすると予想外だったのかもしれない。
「君も、平穏にことを進めたいなら、おとなしく素直になればいいと思うよ」
くすくす、と、エルディクスはあたしをバカにするように笑った。
脅すような物言いに、一瞬だけ心が揺れる。
でも、耐えた。
シアの声が、あたしに力をくれる。
こんなのに負けるなって、励ますように。
大体、素直になってほしいなら、あんな誘拐のようなことをしなければいい。シアに、見るからに年下とわかるあの子にひどいことをして。挙句に半ば脅すような言葉を口にされて。
そんなやつに、どうして素直に従わなければいけないの?
しかし、言わなければ伝わらないだろう。
この人はきっと、そういうタイプだ。
あたしはかばんから筆記用具を取り出す。使い込んで白く汚れた石版を、念入りに、読み間違えたりしないように綺麗にして。そしてあたしの声――意志を、そこに綴った。
『シアにひどいことをしたから、だからあなた嫌い』
「……筆談?」
何事かと思っていたらしい彼は、あたしの文字を見て飽きれた様子を見せる。そこまでして自分と話したくないのか、とか思っているんだ。あぁ、そうだよ、口も聞きたくないよ。
だけど何か言わないと気が済まない。
だからあたしは次に、首に巻いた包帯を緩め、傷口を晒してやった。
自分でも見たくないものを、よーくみえるようにあごを上げて。
あたしの肌に残る、グロテスクなでこぼこ。
お医者様が魔術を使っても、二度と消えないと言われた痕跡。赤黒く変色して、もっと日に焼けた肌だったら目立たなかったのに、と何度か思うくらいには白い肌との相性が悪い。
彼は騎士だ。騎士なら傷は見慣れているはず。だからこの傷口がどういうものか、どれくらいの規模だったのか、そしてどうして筆談を余儀なくされているのか、わかるはずだ。
わからないなら、その程度のバカだったってことだ。
さすがにそれは予想外だったのか、初めて彼の表情が曇る。
その間に、あたしは次の言葉を書く。
『あたし、声出ない。喋れない』
石版を裏返して、そちらに。
『喉、事故で切った』
そして石版を膝に乗せて、首に巻きつけたそれを外す。
小さく、息を呑むような音が聞こえた。
「……とりあえず、名前ぐらいは教えてほしいのだけどね」
視線をはずしながら、エルディクスは小さくつぶやく。先ほどまではあからさまなほどだったあの見下した感じというか、上からこっちを見下しているような威圧的な雰囲気は消えた。
むしろ気まずそうにしているので、居心地は余計悪くなった気がする。
案外、悪い人ではないのかもしれない。
善人ではないだろうけど。
あたしは石版の片面を綺麗にすると、そこに名前を書いた。
『あたしは、ハッカ・ロージエ』
十五歳、と聞かれていないけど書き添える。エルディクスはそれを見て、取り出した紙の束をまとめたものに何かを書いた。たぶんあたしの名前と年齢、だと思う。どうやら神託が示した先に向かっただけで、あたし個人を認識して捕まえに来たわけではないようだ。
……まぁ、それもそうかと思う。神託の結果が最初からわかっていれば、そもそもそれを求めたりしないだろう。わからないから騎士団を率いて、彼はあたしを捕まえに来たんだ。
それにしてもこの馬車は結構揺れているのに、その中で何事もなかったかのように文字を書くなんて器用な人だ。それくらいじゃないと、騎士としてやっていけないのだろうか。
貴族ばかりで構成されているけど、有事の際、最前線に立つのは騎士だという。
それだけ、彼らは誇りと威厳のある立場。
……間違っても、十五歳の女の子に、暴力を働いていい存在じゃない。
あたしの喉が人並みだったら、今頃罵詈雑言を投げつけていた。もっとも、その程度じゃ彼は少しも気にしないだろうし、こっちも自分の言葉の少なさに悔しい思いをするだけだろう。
どっちにしろ、あたしはただ彼を睨みつけるしかない。
ひと通り何かを書き終えたエルディクスは、改めてあたしを見る。
先ほどと違い、嘲りなどがない真剣な目だった。
「とりあえず君に拒否権は無いよ。魔術師が賜る神託は、絶対だ」
わかっているよね、と問われ、あたしは少し迷ってから頷いた。神託というものが、どれだけの影響力を持つのか。わからないなどと言える年齢ではなく、そういう環境でもない。
神託を重要視するのは聖職者。つまり、神父様やシスターのような立場の人。教会の孤児院にいたあたしがわからないなんていうことはできないし、許されないことだろう。
「逆らいたければ逆らえばいい。だけどね、そうするほど彼の、あの神父やシスター、果ては孤児院出身者や、これからあそこを巣立っていく子への悪影響が強くなるだろう。神託の意味もわからない子供を育てる場所、教えられない愚鈍な聖職者。そんなレッテルが貼られるよ」
それは、脅しのような言葉だった。
あたしの行動次第で、神父様達に何かがあるかも、と彼は言いたいんだ。そしてそれはあたしにもわかっていることだから、ひざの上に乗せた手を握ってうつむくことしかできない。
実際、あたしは神様についての勉強は、それなりにしてきたつもりだ。
絵本の代わりに、神様の教えを子供向けに噛み砕いたものを読むのが普通。みんなが文字の勉強をする時の教材は聖書。神様の教えは大事なもので、無視するなんてしてはならない。
個人によって信仰の深さや方向性に違いはあれど、共通するのが神託への畏怖だ。
世界を動かす神様の言葉。
それに逆らえる人は、この国にはいない。
そういうところを理解した上で、エルディクスはすべてを利用してみせたのだろう。
彼は、どうやってもあたしを『神が選んだ花嫁』にしたいらしい。
神様は、王子に『神が選んだ花嫁』を嫁がせたいらしい。
だから神託に頼ったのだろうか。
だから神託を授けたのだろうか。
神が選んだというのは、この世界の多くの人にとって無視できない大事なことだ。あたしの低い身分なんていう問題すら軽く吹っ飛ばすぐらい、人によっては重要な問題だと思う。
そもそも、神託が下ること自体が、実にめでたいことなのだろうから。
神託に選ばれた花嫁を、もうじき王となる王子が娶る――という彼らの企み。
あたしは、まるでアクセサリーだ。
父親という後ろ盾を失った王子を飾るための、宝石だ。いや、あたし自身はただの孤児でその前もごく普通の平民だったのだから、宝石を装っているだけのガラスに過ぎない。
どうしてこんなことになったんだろう。
なんで、彼らは神託なんかに頼ったんだろう。
どうして神父様は、シスターは、シアや他の子供達は。どうしてみんな、誰も彼もあんなにいい人でいい子なんだろう。冷たい人なら、ひどい人だったら、嫌いな相手だったら。
あたしは、逃げることができたのに。
少しでもそう思う自分を嫌悪することだって、きっとなかったのに。