3.追われる九条みゆき
喫茶『黒猫』のドアを恐ろしい数の雨粒が叩いていた。吹き荒れる風が流れる落ちようとする滴を斜めに引きずっていく。
みゆきは傘立てに傘を立てると髪をかき上げた。いつのまにかぐっしょりと濡れている髪は頬に張り付きいいようのないない不快感をみゆきに与えていた。髪をすくう指先が凍るように冷たかった。店内の空気は冷たく、みゆきの髪は完全に冷え切っていた。
トレーを胸に抱え不安げにみゆきを見ていた長浜晶は大きく目を見開いた。そして、ショートカットの髪が弾けるほど勢いよく首を振ってマスターを見た。
マスターは背筋を伸ばしたものの、晶の見開いた目を見るといぶかしげに眉をひそめた。
目の前にいる女性、髪をかき上げる姿、まるで映画の一場面を見ているような気分だった。晶はその顔立ちに目を奪われた。堀の深い目元と綺麗に整えられた眉、滑らかな曲線が鼻先まで伸びている。鼻孔には影ができ口先に向かって緩やかに伸びていた。濡れた唇は厚く、うす赤色の口紅が自然な輝きをはなっている。柔らかそうな下唇が上唇から離れ吐息が漏れると白く形の整った前歯がちらりと見えた。
ふくらはぎの砂を払うために腰をかがめたみゆきのシャツの胸元が雨に濡れて艶やかに光っているのが見える。美しい白い肌をしている。首筋から艶やかな胸元へ目をやるとやわらかなふくらみへ続いている。
「アアァ……」晶の口から吐息が漏れた。
みゆきが顔を上げるとそこに頬をうっすら桃色にそめたウェイトレスがたっている。
目を上げて自分を見つめるみゆきの瞼がゆっくりと降りていくのを晶は見た。潤んだ大きな瞳がふたたび現れると厚い二重の瞼に長い睫がのっている。
晶は我に返ると急いで反転しカウンターに取って返した。
「マスター、水…」トレーをカウンターに置くとグロッキー寸前のボクサーさながらに水を要求した。
水と木の受け皿にのせられたおしぼりをマスターはカウンターに置いた。
晶はグラスを手に取ると口に水を含んで一気に飲み込んでしまった。
「おい!……それ…」
「え?…」
「彼女のだよ…」マスターはみゆきに向かって手を差し出した。「お前仕事する気あるのか…?」
「ごめんなさい!ある、あります…」
晶はいそいでカウンターから離れてみゆきのもとに歩み寄った。店内を見渡し寒そうに二の腕をさすっているみゆきに声をかけた。
「い、いらっしゃいませ…。どうぞ、ちょうど窓際の席があいてますよ、はは…」客はみゆき一人だった。晶の空笑いが空しく店内に響いた。
みゆきはウェイトレスが差し示す窓側の席を見た。窓際の席は皮のソファーになっておりたしかにゆっくり休めそうな気がした。それにこの雨、いずれ止むだろうがそれまでゆっくり休んでいたかった。窓に歩み寄ると外をみた。やはり外が気になった。肩にかけたバックを抱え窓際に座り皮のソファーに身をゆだね外を眺めた。
店内に目を向けると、ウェイトレスがひきつった笑顔をみゆきに向けすぐ傍にたっていた。トレーにのせていた水とおしぼりをみゆきの前に置くと「少し温度あげましょうか?」と不安げに聞いた。
「ええ…。ありがとう」みゆきは笑顔を作った。ウェイトレスは予想以上の嬉しそうな笑みを見せて足早に大きなエアコンのもとに向かってしまった。
「ああ…コ、コーヒ……」みゆきは手を上げたが、慌てて去っていくウェイトレスは全く気付く様子もない。 扉近くのエアコンのボタンをすばやく2、3度叩くと、足早に店の奥のエアコンへと駆けていった。
みゆきはソファーに深く腰掛けるとため息をついた。
まただ、みゆきはウェイトレスの赤面した顔、ぎこちない動きを思い返した。人は私の魅力の虜になる。男も女も…。いやなことではなかった。今では当然のことのように思っている、いまでは…。
この魔法のような力に気付いたのはいつごろのことだったろうか、小学生の高学年頃か…、ちょうど胸のふくらみに気付き始めたころと記憶がダブっている。気付いた時には自分の周りに取り巻きのような女の子たちが集まり、男子は遠くで眺めたり、手紙をくれたり、ぎこちなく話しかけてきたりした。まるで自分中心に世界が回っているような気がした。
自分の表情ひとつで相手の心を手で触れるように動かせるのだ。簡単なことだった。
また人に嫌われないすべも知っていた。あの頃の性格だったのだろうか、そこには細心の注意を払っていた。男女ともにうまく距離を取った。友達を選びはしたが、それは女性特有の派閥のようなものから距離をとり、別の自分中心の世界を作り出すことが目的だった。
初めて男性と付き合ったのは大学のときだ。そうとう遅かったが、二人だけの世界を築くよりも、自分中心の世界が居心地良かったのだ。でも、それが間違いだと気付いた。
それと気づいたのは、男の体を知ってからだ。ただ、わたしにそのことを気付かせたのは私自身の肉体だ。
私の世界は崩壊しなかった。わたしの世界はより万能になった。
時として、わたしの世界に踏み込まない男たちがいた。私の笑みを、私と会話をし、目線を交えても私という人間を正面からみようとしないのだ。昔から気付いてはいたが、私の世界ではこの手の男は取るに足らない存在だった。しかしわたしの肉体はそう思わせなかった。そいつらを引きづり込んでやりたいと思うようになった。仕事上の付き合い、彼女がいるから、結婚しているから、そんなことは関係ない、いや、だからこそだ。守るものがあるならそれを破壊してでも取り込んでやりたい。それがいい男、人から注目される男ならなおさらだった。
そしてわたしは片っ端から引きずり込んでやった。
私の世界の一部が崩壊する?たしかに崩壊した。でも欠けた部分はピースを穴埋めするように簡単に修復される。私の世界では代わりの人間はなどくさるほどいる。そしてわたしに逆らえる者もいない。わたしの作り上げた世界はそれほど強靭で万能だったのだ。わたしはそのことにずっと気付かなかったことを後悔さえしている。
今ではわたしの精神を恍惚とさせ、肉体に快楽を与える方法を私自身が熟知しているのだ…。
長浜晶は店の奥のエアコンの温度をあげて戻ってくるとカウンターの傍に立ち満足げに立っている。みゆきが晶に気付き笑みを見せると、晶はニコリと笑って見せた。
「おい…!」
夢から覚めたように振り向きマスターを見る。
「…。彼女なんて?」
「エアコンの温度上げましょうかって言ったら、『ありがとう』って。はは、気が利くでしょ」
「ちがうよ、注文だよ。お前まさか…」マスターは晶を見て、眉を寄せた。
「……!」晶は慌ててトレーを持ち、店内を駆けながらポケットから伝票を取り出す。
「男子高校生か、おまえは…」あきれながら突っ込みをいれたが、真っ赤な顔をした晶が注文を取っているそのソファーに座る女性は、たしかに魅力的だった。晶のような女の子が動揺するのも無理はないかもしれない。女性が髪を濡らしている姿がこうも美しいとは思わなかった。シャワーを浴びた後のようだと思うと、思わず唾を飲み込み喉を鳴らさずにはいられなかった。ガウンを着て首をかしげ、白い柔らかいタオルで髪を包みながら笑顔を自分に向けるみゆきを想像した。
バスルームのタオルを持ってくるため、咳払いをしながら喫茶『黒猫』のマスターはカウンターから姿を消した。