あの日
翌日、キッチンから音がして2階までいい匂いが上がってきていた。
「今、何時なんだ?」
携帯で時間を確認すると、起きるにはまだ早い時間だった。
それでも体を起こして下に降りた。
「ふぁ~、こんなに早く何をしているんだ?」
「おはよう、ハルトマンさん? 挨拶が先でしょ」
「おはよう」
ハルトマンさん?
そして雫の声が異様に低い、朝から雫が機嫌が悪い理由は判らないが……
「朝食の準備です。ハルトマンさんが来る前まではこの時間に準備していたんです」
「そうか。で、雫は何が機嫌悪いんだ?」
「ハルトマンさんが勝手に切った髪が纏まらないんです。だから短い髪は嫌なのに……」
俯いて口を尖らせて、雫が伏し目にして拗ねていた。
まぁ、俺が切った訳ではないが俺が美容院に無理矢理連れて行った訳だし責任があるのだろう。
「毎朝どこで髪の毛のセットをしているんだ?」
「あそこです」
雫が指差す方を見るとリビングのテーブルに鏡や櫛、ムースやワックスが置かれていた。
「今、髪には何か付けているのか?」
「何も。決まらないから洗って乾かしただけです」
「ちょっと来い」
「へぇ? や、止めてください、恥ずかしいから」
「暴れるな」
雫を抱き上げてリビングに行き、ソファーに座り俺の膝の間に雫を座らせた。
「何を真っ赤になっているんだ?」
「馬鹿……」
「ほら、鏡を見る。美容師の説明聞かなかったのか?」
「あの時はいきなり髪を切られて……」
「こうやってクリームタイプのワックスを大まかにつけて、軽く握るようにしてふんわりとさせたら毛先を軽く捻って束感をつければ出来上がり。トップが落ちてきたら軽く握るようにすれば直ぐにふわっとなる。これで良いかな?」
「う、うん。ありがとう」
「これからは自分で出来るな。この髪型が気に入ったのなら同じ美容院に通う事だな、あそこは中々腕が良さそうだ。ちゃんとニュアンスショートでと言うんだぞ」
その後、直ぐに食事をすると雫は学校に行ってしまった。
送ろうかと聞いたが、いつまでも甘える訳にはいかないし他の生徒に示しがつかないからと断れてしまった。
仕方なく少し時間を遅らせて家をでることにした。
校門の手前で雫を追い越して車を駐車場に止めて車から降りると、雫がみんなの視線に気付き恥ずかしそうに俯いていた。
その横をクラスの女の子が声をかけて通り過ぎていくのが見えた。
「姫宮さん、おはよう。どうしたの? イメチェン? 凄く可愛いよ」
「あ、ありがとう。うぅ、恥ずかしいよ。何かみんな私を見ているし」
「ええ、そりゃそうだよ。姫宮さん、凄く可愛くなったもん」
そんな声が聞こえてくる。
今度は数人の男子が駆け寄ってきた。
「ひ、姫宮さん。おはよう、一昨日はゴメンなさい。怪我は大丈夫だったの?」
「う、うん、大丈夫。少しだけ怪我したけどたいした事ないし月城先生が手当てしてくれたから……」
「あのさ、その……」
姫が俯いて下唇を噛み締めて鞄を両手で持ち、その手に力が入っている。
あまりにも可哀相なので仕方なく声をかけた。
「姫、おはよう」
「つ、月城先生……おはようございます」
男子生徒の顔が一瞬、強張ったのを見逃さずに畳み掛けた。
「俺は姫の叔父として姫が誰と付き合おうが構わないが、後ろの3人が何て言うかな?」
男子生徒達と雫が振り返るとそこには、もの凄い形相で黒い物が背中から立ち昇っている女の子3人が立っていた。
それをみた男子生徒達は蜘蛛の子を散らすように昇降口に駆け込んでしまった。
「雪乃ちゃん、奈々枝ちゃん、ミコちゃん。おはよー」
「おはよう。私達も雫が誰と付き合おうと構わないからね」
「奈々枝ちゃん?」
「私達は月城先生さえ居てくれたらそれで良いもんね」
「うん!」
「はい!」
「月城先生の事は私達に任せてね」
「えっ?」
雫の瞳が揺れている、紺野の顔を見ると少しにやけていた。
「雫は他の人を探してね」
「だ、駄目!」
「なんで、雫がそんな事言うの?」
「私はハルトが、ゴニョゴニョ……」
なんだか雲行きが怪しくなってきたので早々と逃げ出す事にした。
「先生は、昨日の報告と説明があるから先に失礼する。ホームルームに遅れるなよ」
「あっ、逃げた」
そんな声が聞こえてくるが気にせず逃げ出した。
数日もすると雫も慣れてきたのか落ち着きを取り戻していた。
友達も増えて今も校庭ではしゃぎまわっている。
それを職員室の窓から眺めていると不意に後ろから声をかけられた。
「雫ちゃん、変ったわね。生き生きとしている」
「そうだな、これからも頼んだぞ水蘭」
「なんで、そんな言い方するの、シュヴァリェは」
「お前も、知っているだろ。俺がここに居るのは不自然な事なんだよ」
最近、溜息をつく事が多くなっていた。
「それでも出会った。出逢えたそれで良いじゃない。今の雫ちゃんは幸せそうだもの」
「でも、別れはそう遠くないはずだ。そして10年後の世界では俺の側に雫はいない」
「もし、もしもそうなった時は探しなさい。どんな手を使ってもいいわね。それまでは頼まれてあげる」
「10年後か……俺らの10年なんて数日みたいなモノなのにな。雫は10年後どう変っているんだろうな」
「大人のレディーに私がしておくわよ」
そんな話をしていると雫が俺達を見つけて嬉しそうに両手を思いっきり振っていた。
それから数日すると、水蘭から落ち着きが無くなった。
落ち着きが無くなったと言うより怯えている感じさえ見てとれた。
その日も放課後に水蘭と他愛のない事を話していると喧嘩になりそうになった。
「水蘭、最近のお前は変だぞ」
「良いわよね、シュヴァリェは。雫ちゃんとラブラブで」
「あのな、何をイライラしているんだ?」
「判らないのよ何でか自分でも、ただ胸騒ぎがするの」
「胸騒ぎ? 人魚の胸騒ぎなんて聞いたこと無いぞ」
「だから、イライラするんじゃない。こんな事初めてなんだから」
その時、地鳴りがしたと思った瞬間、校舎が大きく揺れた。
窓ガラスがガタガタと音を立てた。
咄嗟に、近くにあった小型のテレビを付けるとテロップが流れた。
『地震速報 綾音島 震度5……島 震度4 震源地 綾音島南西沖……』
「でかかったな、雫は大丈夫かな」
そう言って水蘭の顔を見ると真っ青になり震えていた。
「どうしたんだ水蘭?」
「海から何かが来る。大きな何かが、逃げてハルトマン!」
水蘭の言葉を聞いた瞬間、頭の中で俺がタイムスリップしたあの夜、車の中で何気なく聞いていたラジオが流れた。
『今の地震、大きかったですね』
『そう言えば、もう直ぐで10年ですね。綾音島南西沖地震の津波で甚大な……』
周りから音が消え。走り出しながら叫んでいた。
「津波が来るぞ! 逃げろ!」
あらん限りの力で走り、車に飛び乗り急発進させる。
雫を守る為に。
ちょうど霙の屋敷の前に来た時、車が不自然な挙動をし始める。
後ろを振り向くと既に数メートルの水の壁が迫っていた。
水の壁に飲まれるが辛うじて車は濁流にもまれながらも浮いていた。
そして目の前で雫の家が大きな波に飲み込まれた瞬間、俺の視界から光が消えた。
どの位、時間が過ぎたのだろう。
気が付くとハンドルに抱きつくような姿勢で気を失っていたようで……
何故かライトに照らされて見える目の前にはコンクリートの壁がありエンジンルームから煙が上がっている。
そしてナトリウム灯のオレンジ色の明かりに包まれていた。
「ここは……」
車から降りると外は土砂降りの雨が降っていた。
音が蘇る、遠くでサイレンの音がする。辺りを見渡すとそこは、俺が飛ばされた日の深夜の環状線だった。
「雫……」
覚悟していたとはいえあまりにも突然の別れに俺は膝から崩れ落ちた。
滝の様に降る雨が情け容赦なく俺の体を打ち付けていた。