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王子の喉には小骨が刺さっている

掲載日:2026/09/09

王子の喉には小骨が刺さっている


「お前との婚約を破棄する!」


ロデリック王子の声が、王宮の大広間へ響いた。王子は桃色のドレスを着た男爵令嬢の腰を抱き、私を罪人のように指さしていた。私はきつい袖口のレースを引っ張りながら、昨夜洗い忘れた靴下のことを考えていた。


「シャラップ」


王子の口が開いたまま止まった。喉を押さえて何度も息を吸ったが、出てきたのは壊れた笛のような音だけだった。男爵令嬢が王子の肩を揺さぶる横を通り抜け、私は表面に脂の膜が張ったスープにも手をつけず大広間を出た。


「殿下、どうなさいましたの。何か仰ってくださいませ!」男爵令嬢の甲高い声が背中を追いかけてきたが、私は振り返らなかった。王子の機嫌を取る仕事は、婚約破棄を宣言された瞬間に私の担当から外れていた。


正面玄関を出ると、冷たい雨が石段を濡らしていた。迎えの馬車の前には、領地から同行してきたアルバンが外套を抱えて立っていた。隣国で農業を学び、半年前から我が伯爵領の管理を手伝っている侯爵家の次男である。


「イレーネ様、右手首から血が出ています」アルバンは私の肩へ外套を掛け、つっぱったレースを小さな鋏で切った。皮膚から離れた布が雨に濡れ、私の手首がようやく自由になった。


「婚約も切られたわ。今夜は、よく切れる日ね」私が言うと、アルバンは大広間から聞こえる騒ぎへ目を向けた。けれど事情を尋ねる代わりに、馬車の扉を開けて私の足元へ踏み台を置いた。


「屋敷では干し鱈の雑炊が待っています。料理長が生姜も残しておいてくれました」アルバンが御者台へ上がると、雨粒が彼の黒髪から顎へ落ちた。私は座席へ置かれた乾いた毛布を広げ、冷えた指を包んだ。


「あなたは、何も聞かないのね」


「お話しになりたくなったら聞きます。今夜は温かいものを食べて、眠るほうが先です」アルバンは前を向いたまま手綱を鳴らした。私は王子から一度も言われたことのない言葉を、馬車の車輪が刻む音と一緒に聞いていた。


婚約破棄は翌月、国王の承認を受けて正式に成立した。ロデリック王子は声を失ったまま公務から外され、男爵令嬢は三日後に持参金をまとめて隣国へ逃げた。私は王都に残らず、父から相続した北部の伯爵領へ戻った。


領地の畑は、二年続いた長雨で荒れていた。倉庫には芽の出たジャガイモが積まれ、農民へ貸した種籾の記録も途中で途切れていた。私は王太子妃になるために覚えた会計と法律を帳簿の整理に使い、アルバンは隣国で学んだ排水技術を畑へ持ち込んだ。


一年後、庭では紫色のルピナスが、人の背丈を競うように伸びていた。私は袖をまくった麻の作業着で畑に座り、ジャガイモの余分な芽を摘んでいた。少し離れた場所では、アルバンが鍬の柄を直しながら、農夫たちと今年の収穫量を計算していた。


「お嬢様、また王都から手紙です。今月だけで六通目ですよ」侍女のポーラが木製のまな板に手紙を載せ、畑へやってきた。王家の封蝋は、誰かが強く握ったため細かくひび割れていた。


「暖炉の火種にするか、山羊にやって。紙の糊が好きらしいわ」私は手紙を受け取らず、井戸水を喉へ流し込んだ。山羊小屋から白い雌山羊が顔を出し、自分の取り分を期待するように口を動かしていた。


「その前に読んだほうがよろしいかと。王都の馬車が門の前に止まっています」ポーラが門を指さすと、泥をはねた王家の馬車から特使が降りてきた。その後ろには、痩せたロデリック王子が青ざめた顔で立っていた。


王子は私を見るなり喉を押さえた。金糸の上着は一年前と変わらず豪華だったが、襟元には何度も指を入れた跡が残り、絹布が毛羽立っていた。私は作業着のポケットから干し葡萄を一粒取り出し、土のついた指で口へ放り込んだ。


「どうか、ロデリック殿下にかけられた『死の沈黙の呪詛』をお解きください!」特使は敷石へ膝をつき、泥の上へ額をこすりつけた。王子はその横で私を睨み、羊皮紙へ何かを書き始めた。


『呪いを解けば、再びお前を婚約者にしてやる』


差し出された紙を読み、私は口の中の干し葡萄を噛んだ。王子は私が喜ぶと信じているらしく、顎を持ち上げて鼻を鳴らした。その音だけは、以前と変わらず立派だった。


「お断りします」


王子の眉が跳ね上がった。彼は羊皮紙を裏返し、ペン先を何度も折りながら文字を並べた。『王太子妃になれるのだぞ』『田舎で土にまみれて一生を終える気か』『その男は侯爵家の次男にすぎない』という言葉が、紙面を埋めていった。


「私は呪いなどかけていないわ。最初から、何も」私が言うと、特使は血走った目で顔を上げた。ロデリック王子は喉を押さえ、私を指さしながら「うぐ、あぐ」と唸った。


「そんなはずはありません! あの夜、イレーネ様が放たれた異国の呪文――シャラップ。その言霊が、今も殿下の喉を締め上げているのです!」特使は私の長靴へ縋りつき、白い手袋を泥まみれにした。王子は何度もうなずき、私へ解除を命じるように指を振った。


王宮の医官は王子の喉へ銀の匙を入れ、聖職者は寝室で香を焚き、魔術師は枕の下から呪物を探したという。しかし、王子の喉にも寝台にも異常はなかった。咳もくしゃみもできるうえ、眠っている間には寝言まで口にするらしい。


「イレーネ様、お答えにならなくても構いません」いつの間にか隣へ来ていたアルバンが、私の長靴に縋る特使の手を外した。彼の袖には鍬の柄を削った木屑がつき、指先には油が染み込んでいた。


「いいえ、答えるわ。一年も手紙を燃やしてきたのだから、今日で終わらせたいもの」私は王子の前へ立ち、その喉元を見た。襟飾りの下には傷一つなく、ただ飲み込めない言葉だけが詰まっていた。


「解除の方法なら分かるわ。まず息を吸って、ゆっくり吐きなさい」


王子は疑いながらも胸を膨らませ、細く息を吐いた。特使は私を拝むように両手を組み、ポーラは山羊が連れていかれないよう小屋の戸を閉めた。庭を吹き抜けた風がルピナスを揺らし、積んだばかりの鶏糞の臭いを運んできた。


「そのあとで、『ごめんなさい』と言えば治るわ」


王子の顔から表情が消えた。唇を開きかけたものの、一音も出さずに閉じ、代わりに羊皮紙へ乱暴にペンを走らせた。『王族である私が、なぜお前に謝罪しなければならない』という文字が、大きく紙面へ刻まれた。


「その小骨を抜く気がないなら、一生刺したままでいなさい」私は羊皮紙を二つに裂き、白い山羊の餌箱へ入れた。山羊は王子の名前が書かれた部分から食べ始め、最後に王家の紋章を奥歯ですり潰した。


王子は顔を赤くし、私の腕をつかもうとした。その前へアルバンが立ち、土のついた手で王子の手首を止めた。身分を示す剣も勲章も身につけていなかったが、一年間畑を耕した肩は、王子よりずっと広くなっていた。


「彼女は、あなたの所有物ではありません」アルバンは王子の手を払い、私との間に腕一本分の距離を空けた。守ったことを恩に着せず、私が自分で前へ出られる場所を残す立ち方だった。


「ロデリック殿下、王命をお伝えいたします」特使は懐から新しい書状を取り出し、震える手で広げた。王子が三か月以内に公の場で婚約破棄の非を認め、イレーネへ謝罪しない場合、王太子の地位を正式に剥奪すると記されていた。


王子は書状を奪い取り、その場で破ろうとした。しかし、特使と護衛に両腕を押さえられ、馬車へ連れ戻された。扉が閉まる直前まで「うぐ、あぐ」という声が響いていたが、謝罪の一音だけは最後まで聞こえなかった。


馬車が見えなくなると、私は手押し車へ戻った。ところが、アルバンは畑へ戻らず、ルピナスのそばで黙っていた。作業着の胸ポケットには、折り畳まれた一枚の書類が入っていた。


「それは何?」


「一年間の契約満了届です。排水路も完成し、帳簿も整いました。イレーネ様なら、もうお一人でも領地を守れます」アルバンは書類を取り出し、両手で私へ差し出した。紙の端には、何度も出し入れした跡がついていた。


私は受け取ったが、署名欄を見ても手が動かなかった。彼がいなくても帳簿はつけられ、畑も耕せる。けれど朝の井戸水を二人分くみ、焦げたパンを半分ずつ交換し、眠れない夜に来年の種籾について話す暮らしは、彼がいなければ続かなかった。


「一人でできることと、一人でやりたいことは違うわ」私は契約満了届を折り、作業着のポケットへ押し込んだ。王子の喉を笑っていた私の中にも、言葉にしなければ抜けない小骨が刺さっていた。


「アルバン、行かないで。領地のためだけではなく、私のそばにいてほしい」


アルバンはすぐには答えなかった。初夏の風が黒髪を揺らし、ルピナスの花粉を彼の肩へ落とした。彼は油のついた両手を作業着で拭いてから、私へ差し出した。


「それは、新しい雇用契約でしょうか」


「違うわ。雇い主と使用人ではなく、同じ食卓につく人になってほしいの」


「期間は?」


「できれば、一生」


アルバンはようやく笑った。私は彼の手を取り、節の硬くなった指を握った。王宮で差し出された宝石だらけの手より、土と油の染み込んだ手のほうが温かかった。


「その契約なら、私からも条件があります」アルバンは片膝をついたが、土の上だったため、すぐに膝へ黒い染みが広がった。彼は気にせず、私の手を両手で包んだ。


「困ったときは、一人で抱え込まずに言葉にすること。食事を抜かないこと。それから、私を愛しているなら、いつかきちんと聞かせてください」


胸の奥へ、今度は別の小骨が引っかかった。好きだと認めたら、いつか失うかもしれない。けれど黙ったままでは、王子と同じように、大切なものを自分の傲慢さで遠ざけることになる。


「いつかではなく、今言うわ。アルバン、あなたを愛している」


彼の指に力が入り、私の手を強く握った。台所から焼きたてのライ麦パンと焦がしニンニクの匂いが流れてきた。ポーラは両手で口を覆い、山羊小屋の陰からこちらを見ていた。


「私もあなたを愛しています。明日の畑も、明後日の食卓も、その先もずっと、ご一緒させてください」


その日の昼食には、干し肉とキャベツのスープが並んだ。私とアルバンは同じパンを半分に割り、焦げたほうを押しつけ合った。窓辺の素焼きの壺では、黄色いマリーゴールドが寄り添うように咲いていた。


三か月後、ロデリック王子は王太子の地位を失った。最後まで「ごめんなさい」を言えなかったため、喉の小骨も抜けなかったという。けれど私の小骨は、あの日、たった五文字の言葉と一緒にきれいに抜けていた。


結婚式の朝、アルバンは私の右袖がきつくないか何度も確かめた。私は笑いながら腕を大きく回し、彼の肩を軽く叩いた。台所では祝いのスープが煮え、庭では紫色のルピナスが、誰の許可も得ずに空へ向かって伸びていた。


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