折れたる獅子の影
捕虜交換は、いつも祈りより先に数を数えるところから始まる。
エリアナ・レオハルトは、霧に濡れた石橋の崩れかけた陰で片膝をつき、湿った泥の上に並べた五つの平たい小石を指先で静かに動かした。
こちらから引き渡す帝国製の薬箱が二つ。帝国軍の補給隊から強奪した乾燥糧秣が三袋。返されるはずの王国側の鉱夫が五人。だが、情報屋のレムから事前に回ってきた木札には、たった「四人」とだけ刻まれていた。
「一人、足りません。」
隣に伏せた若い連絡兵が言った。声を低く抑えているが、その喉の強張りには押し殺しきれない怒りが滲んでいる。
エリアナは泥の上の小石の列を見つめた。
「分かっている。」
「なら、直ちに交換を止めるべきです! 奴らは契約を破った!」
「止めれば、生きている残りの四人も戻らない。」
連絡兵は奥歯を噛み締め、それ以上は何も言わなかった。
朝霧の立ち込める対岸の平原、帝国の臨時検問所には黒塗りの馬車が一台、無機質に停車している。馬車の側板の脇には、鉄の鎖で手を繋がれた鉱夫たちが泥の上に直に座らされていた。顔は煤と乾いた血で汚れ、この距離からでは誰が誰なのか判別すらつかない。
一人足りない理由は、相手の指揮官に尋ねるまでもなく明白だった。
移送中に力尽きて死んだ。あるいは、逃亡を図って背中から撃ち殺された。もしくは、最初から名簿にインクを載せる価値すらないと切り捨てられた。帝国は、どの答えを突きつけられても全く同じ冷徹な役人の顔をするのだ。
「取引相手は、信用に値しません。」
「誰も最初から信用などしていない。」
エリアナは腰の後ろの短剣の鞘に触れ、その感触を確かめた。
「だが、今日ここで取り戻せる命がそこにある。」
彼女の左手の包帯の下には、古い木剣の柄がしっかりと括り付けられていた。刀身はすでに失われている。十二年前のあの滅亡の朝に根元から折れ、今はただの握りの部分だけが残された遺物。戦場では、敵の薄い胸当て一枚すら穿てない木屑だ。それでも、エリアナは任務が始まる直前、必ずそこへ右手の指先を当てる。
父ダリウスは、勝てる戦いだけを選べとは一度も教えなかった。
ただ、救える命の数を数え間違えるな、とだけ言った。
「合図を出す。」
エリアナは静かに立ち上がった。
「折れたる獅子」の構成員たちは、朝霧の深い森の影に散っている。装備は王国時代の旧式ばかりで、数も圧倒的に少ない。正面から平原でぶつかり合えば、帝国兵の半分も削れずに全滅するだろう。
だからこそ、まともにぶつかるような戦い方はしない。
彼女は白い合図の布を、ゆっくりと掲げた。
取引自体は、拍気抜けするほど短時間で終わった。薬箱と糧秣の入った木箱を橋の中央へ置き、引き換えに手を縛られた鉱夫四人を受け取る。帝国の下士官は値踏みするような視線すら向けず、こちらも一切の言葉を発しない。不要な言葉を増やせば、それだけ橋の上の銃口がこちらの額に近づくだけだ。
最後の鉱夫が橋を渡りきり、こちらの泥を踏んだ瞬間、糸が切れたようにその場へ膝から崩れ落ちた。
若い連絡兵が、焦燥に駆られて思わず駆け出しかける。
エリアナはその肩を、鉄の爪のような強さで掴んで引き留めた。
「まだだ。」
対岸の帝国兵の銃口が、崩れた鉱夫ではなく、飛び出しかけた連絡兵の胸元へ静かに照準を合わせる。
その刹那、森の奥深くで乾いた爆ぜ音が響いた。
帝国兵たちが、反射的に顔を背ける。
あらかじめ放棄された古い荷車に仕込んでおいた煙筒が、検問所の真後ろで、勢いよく濃密な白煙を吹き出していた。殺傷力はない。ただ、向こうの射線を一瞬にして覆い隠すための、古い王国の点火機巧だ。
「──走らせて!」
エリアナの短い命令で、連絡兵たちが鉱夫たちの腕を担ぎ上げた。
背後から帝国兵の放った小銃の銃声が二発、乾いた音を立てて響いたが、どちらも遥か霧の彼方へそれた。追っ手の靴音は聞こえない。帝国にとって、泥まみれの鉱夫四人の生死よりも、手に入れた薬箱の登録記録の方が重いのだ。
鬱蒼とした森の奥深くへ逃げ込んでから、連絡兵が悔しげに呟いた。
「……五人目は、どうなるんですか?」
エリアナは歩みを止めず、振り返らなかった。
「名前を確認し、居住区の家族へ伝える。」
「それだけですか!?」
「それ以上の深追いをすれば、今日連れ戻した四人の命を、再び帝国の銃口の前に晒すことになる。」
連絡兵は口を閉ざした。
エリアナもまた、奥歯を噛み締めた。
救い出された鉱夫の一人が、泥と血で汚れた手で、彼女の外套の裾を固く掴んだ。
「ありがとう、ございます……。」
その声はかすれ、風が吹けば消えてしまいそうなほど細かった。その男に礼を言われる資格が、果たして自分にあるのだろうか──エリアナには分からなかった。彼の隣で鎖に繋がれていたはずの一人を、自分は今、冷酷に切り捨てたばかりなのだ。
正しい判断は、決して心を軽くしてはくれない。
夕刻、折れたる獅子の潜伏先である、古い粉挽き小屋の二階に戻ると、部屋の中には濡れた防寒外套の湿気と、獣じみた血の匂いが重く滞留していた。救出された鉱夫たちは奥の藁ベッドで手当てを受け、誰かが安堵のあまり咽び泣き、別の誰かが助かった現実を受け入れられずに力なく笑っていた。
エリアナは、簡素な机の上に広げられた地図の前に直立した。
「南の街道は、今後二日は使い物にならない。帝国の巡察の目が一気に厳しくなる。」
年かさの女性副官、ミラが深く頷いた。かつて王室騎士団に属し、ダリウスの気骨を知る数少ない生き残りだ。
「避難民の移動ルートを西の湿地水路へ切り替えます。ですが、泥濘地を越えるとなると、老人や子供の足は著しく遅れるでしょう。」
「運ぶ荷物を極限まで減らして。防寒用の毛布だけは、子供と病人を最優先に。」
「当然、若い者たちから不満が出ます。」
「出る。だから、私が直接伝える。」
ミラはエリアナの横顔を見つめ、微かにその固い口元を緩めた。
「……あなたは、本当にダリウス様によく似てこられました。」
「私には、あまり良い褒め言葉には聞こえない。」
「半分は、敬意を込めています。」
エリアナは左手の木剣の柄に触れた。父の名を聞くたび、今でも背筋の奥が冷え切るような感覚に襲われる。ダリウス・レオハルトは、陥落する王都から彼女を逃がした。逃がし、自らは殿軍として戦い、二度と戻らなかった。
残されたのは、この折れた握り拳一つ分の柄と、いくつかの方針だけだ。
部屋の薄い木扉が、三度、短く叩かれた。
姿を現したのは、情報屋のレムだった。帽子を深く被り、片耳だけに銀のリングを下げている。信用に値しない男だが、信用できない情報ほど、誰よりも早く運んでくる。
「高い話だ。」
レムは扉を閉めると、開口一番にそう囁いた。
ミラが警戒するように眉をひそめる。
「さっき薬箱を引き渡したばかりよ。これ以上払うものはないわ。」
「そっちの薬箱とは別口だ。帝国魔導局の巡察網の隙間から、文字通り命がけで帝国から引き抜いてきた情報だからな。」
レムは机の端に、小さな金属製の紙筒を置いた。
「これを抜いた身内の協力者は、もう二度とあの街道には戻れない。」
「廃鉱街アイゼンベルク。昨日、旧王家認証系に極めて近い波形反応が記録された。」
部屋の空気が、一瞬にして凝固した。
エリアナは紙筒を見つめた。包帯を巻いた指先が、木剣の柄へと強く食い込んでいく。
「近い、とはどういうこと?」
「帝国の地方巡察官が報告書に記した分類語だ。正式な鑑定はまだ下されていない。だがその報告は、即座に帝都の機密魔導局へ回された。」
レムは紙筒の縁を、爪で小さく叩いた。
「この紙が俺の手に届いた時点で、向こうの『本隊』もすでに動き始めていると見るべきだな。」
「罠です。」
ミラが即座に遮るように言った。
「このタイミングで、そのような情報が都合よく我々の前に現れるはずがありません。」
「罠かもしれない。」
エリアナは、紙筒を見つめたまま答えた。
「だが、もし帝国が罠として仕組むなら、わざわざ地方巡察官の公式な報告経路を偽装する必要がない。」
レムが片目を細め、値踏みするように笑った。
「買うか?」
「値段は?」
「銀貨十枚。それと、南街道の検問の『最新の時間表』だ。」
ミラが驚愕に息を呑んだ。
「時間を渡せば、別の避難ルートが完全に潰れます!」
「だから、本物の時間は渡さない。」
エリアナは炭筆を取り、地図の端に細い線を引いた。
「古い時間を渡す。今日の取引で変更される前の古い検問時間表なら、向こうの巡察は少なくとも二日は本物だと信じ込むはずよ。」
レムは声を立てて笑った。
「『折れたる獅子』も、ずいぶんと薄汚い取引を覚えたな。」
「生き延びるためよ。まだ足りないくらいだわ。」
エリアナは金属の紙筒を強く掴み取った。
中から引き出した極薄の紙には、極めて短い記述だけが並んでいた。
──アイゼンベルク。揚水設備。未登録機巧反応。旧王家認証系の疑い。工房監視指定。
そこには、「ノア・グレイ」という名も、「ゼノ」というかつての王太子の名も、どこにも記されていなかった。
それでも、エリアナの胸の奥で、十二年前の朝に凍りついたままの時間が、音を立てて軋み始めた。
「行くのですか?」
ミラが、重い口調で問うた。
「──確認しに行く。」
「あなた自身が動く必要はありません。斥候を走らせれば済むことです。」
「私が行く必要がある。」
エリアナは地図の北東の端、荒涼とした「アイゼンベルク」の文字の上に人差し指を置いた。補給路からは外れた廃鉱街。だが、帝都の魔導局が本気で動き出せば、一瞬で踏み潰されるほど無防備な場所。
もし罠なら、その踏み方をこちらで選ぶ。
もし本物なら、一秒の遅れすら致命傷になる。
夜半の出発であっても、すでに手遅れかもしれない。
彼が本当に生きていると、まだ無邪気に信じているわけではなかった。
ただ、十二年前の朝にすべてを失ったあの日に消え去った名前を、完全に「死者」の領域へと置き去りにすることは、どうしてもできなかった。
そう言い切れるほど、エリアナは自らの心をごまかすのが得意ではなかったのだ。
「出発は夜半。同行者は三人。避難民の誘導はミラ、あなたに一任する。」
「了解しました。」
「それと、五人目の鉱夫の名前を調べておいて。──家族のところへは、戻ったら私が行く。」
ミラは一瞬だけ目を伏せ、痛ましげに呟いた。
「それも、あなたがご自身で?」
「私が小石を数えた。」
エリアナは、左手の折れた木剣の柄を、自らの血が滲むほどの力で握りしめた。
「数えた者の責任は、絶対に置いていかない。」
地図の上で、彼女の指先が廃鉱街の文字を強く押し潰す。
錆びついた街。
そこへと続く夜の闇は、十二年前に終わったはずの、あの光あふれる朝へと繋がっているように見えた。




