巡察官と古い刻印
「この修理をした技師は誰だ?」
巡察官の声は、決して荒らげられたものではなかった。だからこそ、広場の空気は余計に重く、固まった。隣に立つ書記官が音を立てて分厚い記録板を広げただけで、住人たちは抱えた木桶の水をこぼさないよう身を縮め、一歩、また一歩と後退していく。
ゼノは工具箱の真鍮の留め金に、指先をかけた。
(逃げるな。)
ここで背中を見せれば、この廃鉱街に残るすべての人々に、帝国の疑いの目が向けられる。
巡察官は埃と泥で色褪せた灰色の外套を静かに整え、揚水機の前に立った。年齢は三十を少し過ぎたあたりだろう。剃り跡の青い細い顔に、慢性的な寝不足を思わせる落ち窪んだ目をしている。測定杖の先端に埋め込まれた青い魔光石は、今はもう、眠るように光を失っていた。
「マルセル・クライン巡察官だ。」
彼は静かに名乗ってから、吐水口へと視線を落とした。
澄んだ水が、絶え間なく石畳を濡らしている。
「まず、事実として言っておく。街の生命線たる水が戻ったこと自体は、歓迎すべきことだ。診療所も鍛冶場も、稼働を止めればこの街の税収に直ちに響くからな。」
ガルドが何かを言いかけ、隣の女に鋭く肘で制された。
マルセルは視線を巡らせ、淡々と続けた。
「だが、帝国技師が公式に封印を施した機械に、登録外の野良修理屋が勝手に手を入れたとなれば、それは統治上の別問題だ。」
やはり、そこを突いてくる。
ゼノは意を決して、泥を踏みしめて一歩前に出た。
「俺です。」
広場の端で、誰かが小さく息を呑む音が響いた。
「名は?」
「ノア・グレイ。下層の工房区で修理屋をやっています。」
「帝国の居住台帳に登録されている名か?」
「はい。ヘイマー工房の助手として登録されているはずです。」
助手、という肩書きを自ら口にしながら、ゼノは内心でひねくれた苦笑を漏らした。ヘイマーがここにいれば、助手ではなくただの下働きだと言い張るだろう。もっと機嫌が悪ければ、まだ金槌の握り方も知らん見習いだ、と吐き捨てるに違いない。
マルセルは顎で合図を送り、書記官にその名を書き留めさせた。
「封印紙は?」
「切っていません。」
ゼノは揚水機の下部を指し示した。
「帝国技師が貼った封印紙は、上部の圧力弁と主軸の点検口にあります。俺が開けたのは下部にある点検蓋です。古い王国式の補修口で、そもそも封印の管轄範囲には含まれていません。」
「管轄外であると、誰が判断した?」
「機械の構造がそうなっています。」
答えた瞬間、また言葉が短すぎたと気づいた。
マルセルの目が、値踏みするように細められる。
ゼノは意識して深く息を吸い、声を整えた。
「失礼。外板の上部は、圧力弁と主軸の制御部です。帝国技師が補修したのもその部分です。ですが、今回の不調の原因は、調速歯車と、吸い上げ側の配管に噛んだ空気でした。下部の点検蓋を開けなければ、配管の空気抜きすらできません。封印紙を切れば重い罰金になる。だから、切らずに済む場所から手を入れただけです。」
マルセルは無言のまま、揚水機が放つ回転音に耳を傾けた。
金属の悲鳴のような不協和音は消え、低く、力強い鼓動が石畳を揺らしている。
「圧力弁の故障ではなかった、と?」
「はい。」
「帝国の巡察技師の診断が、誤りだったと言いたいのか?」
広場の静寂が、さらに深く張り詰めていく。
ゼノはガルドの方を見なかった。視線を動かせば、言葉の端々に迷いが滲む。
「誤りではありません。帝国製の代替歯車は、規格の上では極めて正しい寸法で作られていました。ただ、噛み合うべき中央の古い王国製中歯車と、噛み合わせの角度がわずかに違ったんです。規格がどれほど正しくても、受け入れる側の機械が古すぎれば、その正しさが半歯のズレを生むことがあります。」
「ならば、帝国規格の新しい部品に合わせて、古い機械の方を丸ごと交換すべきだ。」
「部品がこの街にあれば、そうしたでしょうね。」
ゼノは、少しだけ棘を含んだ声で答えた。
「ですが、ここにはありません。鍛冶場も、診療所も、今日流れる水を待っていました。帝都からの部品調達を待っていたら、今日の水は戻っていなかったはずです。」
マルセルは口を閉ざした。
その沈黙は、激昂からくるものではなかった。彼の乾いた目は、ゼノではなく、この錆びついた街の住人たちを観察していた。木桶を抱えた女たち。診療所の閉じられた窓。炉の前で泥のついた手を握りしめている職人。
「現場の判断としては、極めて合理的だ。」
マルセルは静かに告げた。
ゼノは、張り詰めていた肺の空気をほんの少しだけ吐き出した。
「──だが、統治記録としては看過できない。」
吐き出し口で、息がぴたりと止まった。
マルセルは一歩踏み出し、測定杖を揚水機の外板へ近づけた。魔光石が、淡く脈打つように明滅を始める。水が戻った時のあの安堵の歓声はもうどこにもない。代わりに、測定杖の先端から、羽虫が羽ばたくような微弱な魔力の羽鳴りが響いていた。
「未登録機巧反応。低度ではないな。」
書記官のペンが、淡々とその事実を紙に刻んでいく。
ゼノの指先が、じわりと冷えていくのが分かった。
「古い設備です。魔力の残滓くらいは残ります。」
「ただの残滓なら、魔光石がこれほど嫌な光り方はしない。」
マルセルは測定杖を引き、下部の点検蓋を見据えた。
「そこを開けろ。」
住人たちの突き刺さるような視線が、一斉にゼノの背中に集まった。拒絶すれば、その場で連行される。だが開けてしまえば、あの王国製の整備刻印を、この鋭い巡察官の目に晒すことになる。
(見なければ、直せない。だが、ここで直してしまえば、ようやく手に入れた安寧が、この生活が、音を立てて崩れてしまうかもしれない。)
ゼノの右手が、工具箱の取っ手を固く握りしめた。
その時、背後の坂の上から、不機嫌そうなしわがれた声が響いた。
「おいおい、そこを開けたのはわしだ。」
乾いた木杖が石畳を叩く音が、規則的に近づいてくる。
ヘイマーが、寝起きのように乱れた灰色の髪を風に揺らしながら歩いてきた。片手には使い古した木杖。もう片方の脇には、いつもの黒い大帳簿をしっかりと抱えている。目だけが、獲物を狙う鷹のように妙に醒めていた。
「ノアは隣で歯車を押さえていただけだ。開け方を指示したのはわしだ。」
「あなたは?」
「ヘイマー。ここの工房主だ。居住台帳にも載っているはずだ。帝国の修理許可証もな。古いが、まだ失効はしておらんぞ。」
ヘイマーは帳簿の隙間から、何度も折りたたまれて擦り切れた許可証を差し出した。紙は酷く黄ばんでいたが、帝国の紋章印は確かに残っている。
マルセルはそれを手に取り、書記官に真偽を確認させた。
「補修の許可範囲は、低度機巧の範疇に限られているはずだが。」
「この死にかけた揚水機が、お前さんには高度な魔法装置に見えるかね?」
「測定杖は、そう語っているが。」
ヘイマーは揚水機を一瞥し、鼻で笑った。
「そりゃあ古いからな。年寄りの関節を叩けば、若造の骨より妙な不協和音が鳴るものさ。」
ガルドが吹き出しそうになり、慌てて口を手で覆った。
マルセルは表情を一切崩さなかった。
「点検蓋を開けてください。」
「断ると言ったら?」
「この揚水設備を直ちに封鎖し、押収します。当然、水は止まる。」
ヘイマーの目が、刃のように細められた。
ゼノは思わず一歩前に出ようとしたが、ヘイマーの木杖がその足元を鋭く遮った。
「見て覚えろ、ノア。若い奴の尻拭いは、いつも高くつく。」
その言葉の裏にある「黙っていろ」という明確な意思を、ゼノは正確に受け取った。
ヘイマーは舌打ちをしながら、ゼノの工具箱からマイナスドライバーを奪い取るように掴んだ。ネジを回す手つきはわざとらしく不器用で、遅い。一本緩めるたびに、帝国の規則への毒づきを吐き散らす。
「帝国規格、帝国規格。規格で腹が膨れるなら、この街の連中はもう少し小太りになっとるわ。」
ネジが外れ、蓋が取り外される。
点検口から、湿った熱気と黒い油の匂いがどっと漏れ出した。
マルセルは一歩近づき、測定杖を差し入れた。先端の魔光石が、先ほどよりも強く、青い火花を散らすように瞬く。
ゼノは喉が鳴るのを必死に堪え、息を止めた。
マルセルの冷徹な視線が、暗がりの奥へと侵入していく。油泥と埃の奥にひっそりと刻まれた、王国の整備刻印。普通なら、ただの古い金属の傷跡にしか見えないはずの模様。
「この底の刻印は?」
「ただの古い職人の整備印だ。」ヘイマーが間髪入れずに遮るように言った。「旧王国だの王家だの、そんな物騒な代物じゃない。たかが水を組み上げるだけの鉄の塊に、王家の鍵をつける馬鹿がいるかね。昔の職人が、自分の仕事の証に傷を残しただけだ。」
それは嘘ではない。
だが、すべてが真実でもなかった。
マルセルは無言のまま、刻印を見つめ続けた。杖を僅かに傾けると、石の明滅がさらに不穏さを増す。
「あなたは、これが読めるのか?」
「読めんね。」
「では、なぜ調整できた?」
「読めなくても、機械の癖は分かる。古い奴ほど、文字じゃなく音で喋るからな。」
ヘイマーは最後まで、ゼノの方を見ようとはしなかった。
「こいつには、まだその音の聞き方しか教えておらん。」
そのヘイマーの冷ややかな庇い立てが、自分を生かすための防壁なのか、それとも真実を隠し続けるための檻なのか──ゼノには測りかねた。
マルセルは長い沈黙の末、静かに測定杖を引いた。書記官に点検蓋を戻すよう手で指示を出した。
「……本件は、統治記録に記載します。」
「好きにするがいい。」
「直ちに逮捕はしません。水の供給を止めるだけの合理的な理由も、現時点ではない。」
広場のあちこちから、堰を切ったように安堵の吐息が漏れた。
「ただし、この揚水設備は本日より監視指定とします。ヘイマー工房も同様です。──ノア・グレイ。」
呼ばれ、ゼノは顔を上げた。
「あなたは明朝、工房にて追加の聞き取り調査を受けてもらう。逃亡した場合は、即座に工房の補修許可証を停止する。」
ヘイマーの杖を握る手が、微かに硬直した。
ゼノは、それを受け入れるしかなかった。
「……分かりました。」
マルセルは書記官に短い指示を与えると、踵を返した。
巡察隊の一行は、再び静まり返った通りを、奥の坑道区へと向かって歩き出す。書記官だけが去り際、もう一度だけ揚水機の点検蓋を不穏そうに振り返った。
──その日の夕刻。
アイゼンベルク巡察記録、第七号。
マルセル・クラインは、薄暗い宿舎の小机で報告書を執筆していた。窓の外からは、再び火が入った鍛冶場の炉が、低く力強い音を響かせている。
彼はしばらく、ペンの先を止めた。
街の水は戻った。それは厳然たる事実だ。
しかし、測定杖が示した波形は、通常の低度補修では決して検知し得ない、嫌な光だった。点検口の内部に、旧王国製整備刻印。そして、若い技師ノア・グレイは、その年齢と登録履歴からは説明のつかない、異常に深い理解力を示している。
──ヘイマー工房主が介入。
──旧式の低度補修許可証を確認。
──両名を監視指定に登録。
マルセルは、報告書の最後の一行を前にして、深く葛藤した。
このまま地方軍の整備課へ提出すれば、官僚の手続きの波に埋もれ、数週間は放置されるだろう。
しかし、測定杖が放ったあの青い火花は、あまりに短すぎた。短いからこそ──かつて帝国が王国を滅ぼした際の「あの反応」を記憶する者にとって、それは決して見落としてはならない、網膜に焼きついて離れない嫌な光だった。
彼は新しい封筒を取り出し、宛先を書き換えた。
──帝国機密魔導局、御中。
報告分類。
「旧王家認証系の疑いについて。」




