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第四話 「記念日」


 決行日の朝は、驚くほど静かだった。


 カーテン越しの光は白く、天気がいいことを告げている。

 昨夜はあまり眠れなかったはずなのに、頭は妙に冴えていた。体も重くない。緊張というより、準備が整っている感覚だった。


 テーブルの上には、昨夜書き上げた手紙が置いてある。

 封筒は使わなかった。どうせ誰の手にも渡らない可能性が高い。内容は簡潔だった。


 自分は衝動的に姿を消すことにした。

 心神喪失状態だった。

 探さないでほしい。


 そういった内容を、何度か推敲しながら書いた。大西の名前は、どこにも出していない。彼女を現実から切り離すための、最低限の配慮だった。






 大西もまた、身支度をしていた。鞄の中身を何度も確認し、ナイフがカバーに包まれていることを確かめる、刃に触れないよう注意深く。

 手が震えていることに気づき、彼女は一度、深く息を吸った。


 興奮している。はっきりと分かる。


 同時に胸の奥が少しだけ重い。

 だが、その重さの正体を、彼女は考えないようにした。

 考えれば、今日、目的地まで行けなくなる。






 二人は約束の駅で落ち合った。

 山奥の小さな駅だ。無人改札を抜けると、すぐに山が見える。

 観光地と言うほど整備はされておらず、ハイキング客がときどき訪れる程度の場所だった。


 「おはようございます」


 大西は、いつもと変わらない声で言った。鳴海も、同じ調子で返す。


 「おはよう」


 二人とも、あえて特別な言葉は選ばなかった。


 「ちゃんと寝られました?」


 「ええ、鳴海さんは?」


 「俺はあんまり」


 他愛ない会話をしながら、二人はバスに揺られて登山口へと移動した。


 周囲の緑は次第に濃くなり、空気は湿り気を帯びる。


 バスを降りた二人は、リュックを背負い、並んで歩きだす。

 舗装された道はすぐに終わり、土と石の混じった山道になる。木々の隙間から差し込む光が、地面にまだら模様を作っていた。鳥の声が遠くで響いている。


 途中、何度か立ち止まって休憩した。息が上がるほどの道ではないが、確実に街から離れていく感覚があった。


 「こうして歩いてると、カップルみたいですね」


 大西が、ふとそう言った。


 鳴海は笑った。


 「周りから見たら、そうでしょうね」


 大西は続けた。


 「でも普通じゃない」


 鳴海はうなずいた。


 「ええ。分かってます」


 その確認が、なぜか安心をもたらしていた。


 普通ではない、けど確かに絆はある。


 思い出話は、自然と始まった。


 初めて会った日のこと。最初に違和感を覚えた発言。川辺のベンチ。

 居酒屋の個室、七回目の夜。

 どれも数カ月間の出来事なのに、ずっと昔のことのようにも感じられる。


 「こんな話、誰ともしたことなかったです」


 大西が言う。


 「俺もです」


 鳴海は答える。


 それだけで十分だった。






 だが、山道を進むにつれ、大西の中では二つの感情がせめぎ合っていた。


 鳴海の命を奪えるという興奮。

 長年抑え続けてきた欲が、ついに形になるという高揚。


 同時に、鳴海を失うという喪失感。

 この先、二度と声を聴けない。二度と、あのまなざしで見てもらえない。


 その事実が波のように押し寄せ、大西を揺らしていた。


 「…大西さん」


 鳴海が、歩調を緩めた彼女に気づく。


 「少し、休みましょうか」



 二人は倒木に腰を下ろした。

 木漏れ日が地面を照らしている。



 大西は、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


 「私、今さらですけど…」


 言葉を探すように、視線をさまよわせる。


 「すごく、楽しみなんです。信じられないくらい」


 鳴海は何も言わなかった。


 「でも、同時に」


 大西の声が、少しだけ揺れる。


 「鳴海さんがいなくなるのが、怖い」


 それは、大西が初めて口にする弱音だった。

 

 「両方あるんですね」


 鳴海は静かに言った。


 「期待と、不安」


 「はい」


 「俺も同じです」


 鳴海は、空を見上げた。

 枝の隙間から覗く空は、どこまでも遠く、青い。


 「特別な人に殺されるっていうのは、すごく魅力的です」


 「………」


 「でも、大西さんとはもう話せなくなる」


 その言葉が、胸に刺さった。


 「俺たちの関係って、歪んでますよね」


 鳴海は続ける。


 「でも、その歪みがなかったから出会ってない」


 大西はゆっくりとうなずいた


 「パズルのピースみたいに」


 「そう、断面がガタガタだからはまった」





 沈黙が落ちる。だが、それはさっきとは違い、重くるしいものではなかった。

 いつも通りだ。


 「後悔、しないでください」


 鳴海は大西を見つめた。

 一呼吸おいて、はっきりと告げる。


 「俺は、間違いなく幸せです」


 その言葉は、力強く、確信に満ちていた。


 大西は、胸の奥で絡まっていたものが、少しずつほどけていくのを感じた。


 期待は消えない。

 不安も消えない。


 どちらも完全に消えることはない。


 ただ、それらを抱えたまま進んでいいのだと、初めて思えた。





 「…行きましょう」




 事前に決めていた場所は、山道から外れた小さな開けた空間だった。

 木々に囲まれ、外からはまるで見えない。地面は柔らかく、落ち葉が積もっている。


 ナイフを取り出すとき、大西の手は落ち着いていた。

 カバーを外し、刃が空気に触れる。冷たい金属の露出が、現実を強く認識させる。



 二人は向かい合った。

 どちららからともなく、笑顔になる。






 「さようなら」

 鳴海が言った。





 「またいつか」

 大西は答えた。






 ためらうことなく、大西は踏み込んだ。



 ナイフが腹に入る感触は、想像していたよりも抵抗があり、そして生々しかった。

 布を裂き、皮膚を超え、内部へと進む。


 鳴海の体が、わずかに強張る。


 遅れて、血があふれ出した。暗い赤が服を濡らし、地面に滴る。

 鉄の匂いが空気に混じる。



 鳴海の呼吸が乱れ、喉から短い息が漏れた。


 それでも彼は、笑っていた。


 唇の端が、わずかに上がっている。目は潤い、光を反射してきらきらと輝いている。



 大西もまた、笑っていた。幸せそうに。




 


 最後に、鳴海は大西を抱きしめた。


 力は弱く、しかし確かだった。

 体温が、じわじわと大西に伝わってくる。

 血で濡れた服越しに感じる鼓動は、次第に遅くなる。



 大西も、答えるように腕を回した。


 ナイフを手放し、鳴海の肩にあごを乗せる。



 鳴海の体温は、少しずつ失われていった。


 温もりが薄れ、重みだけが残る。


 呼吸は途切れ、抱きしめる力も消えていく。


 それでも、大西は離れなかった。


 完全に体温が失われるまで、彼を抱きしめ続けた。




 森は、何事もなかったかのように静かだった。




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