第三話 「両者顔合わせ」
最初の出会いは、拍子抜けするほど普通だった。
駅前の喫茶店は、休日の夕方だというのに客がまばらだった。ガラス越しにみえる駅前のロータリーでは、バスがゆっくりと発車し、会社帰りの人々が流れるように横断歩道を渡っている。
大西は、窓際の席に座り、カップの中で揺れるコーヒーを眺めていた。表面に浮かんでいたかすかな泡が、いつのまにか消えている。
一人の男性が入って来たとき、大西はすぐに気がついたが、あえて視線を上げなかった。心臓がわずかに早鐘を打つ。
理由は分かっている。期待と警戒が、同じ比率で混ざっていた。
「……大西さん?」
呼ばれて、ようやく顔を上げる。画面越しで想像していた通りの男性だった。派手さはない。服装も容姿も、ごく平均的だ。それが逆に、安心感を与えた。
「鳴海さんですよね」
握手もせず、軽く会釈を交わす。それだけで、二人の間に暗黙の了解ができた。
近づきすぎない。踏み込み過ぎない。どちらも、その重要性をよく分かっていた。
最初の会話は、驚くほど当たり障りがなかった。仕事の話、最近見た映画、天気。鳴海は、自分がこれほど自然に雑談していることに、内心で少し驚いていた。大西も同じだっただろう。
互いに異常を隠すための仮面を、必要以上に意識しなくて済んでいた。
だが、完全に何も触れないわけではなかった。
「ホラー映画、お好きなんですよね」
鳴海がそう言ったとき、ほんの一瞬だけ、大西の指が止まった。
スプーンがカップの縁に軽く触れ、乾いた音を立てる。
「……まあ、嫌いではないです」
それ以上は何も言わない。鳴海も、深追いはしなかった。
その晩、鳴海は布団に入ってから、その一言を何度も反芻していた。
――なぜ、あの話題を出したのか。
――なぜ、少しだけ安心したのか。
二度目の約束は、鳴海からだった。
理由は単純で、もっと話したいと思ったからだ。ただ、それを正直にいえるほどの勇気はなかったので「前に話してた映画、気になって」と当たり障りのない理由を添えた。
二人で、休日のショッピングモールを歩いた。人が多すぎず、少なすぎない。カップル、家族連れ、学生。どこにでもいる「普通の人たち」の中に混ざると、自分たちも希釈されて、ただの男女のように見える気がした。
三回目は、公園だった。
春の終わりで、桜はすでに散り、新緑が目に優しい。ベンチに腰掛けると、木々の間を抜ける風が肌に心地よかった。
子どもたちの笑い声が遠くで響き、ボールが転がる音がときおり聞こえる。
「普通って、なんなんでしょうね」
大西がそう切り出したのは、その穏やかな空気の中だった。視線は前を向いたまま、鳴海の方を見ない。
鳴海は空を見上げた。雲がゆっくりと流れている。
「急ですね」
「でも、鳴海さんなら、変に思わない気がして」
その言葉に、鳴海の胸の奥がわずかに揺れた。
信頼なのか、期待なのか、判断はつかなかった。
「…普通って、だいたい後から決められるものじゃないですか」
「後から?」
「多数派が、『これが普通だった』って言うだけで」
大西は、ふっと息を吐いた。
「じゃあ、少数派はずっと変なままですね」
「慣れますよ」
鳴海は、少しだけ自嘲気味に笑った。
沈黙が落ちる。だが不快ではない。鳴海は、こういう沈黙が苦手ではなかった。
大西も同じらしい。二人とも、無理に言葉で埋めることをしなかった。
「また…、会えますか」
大西が唐突に言った。
「もちろん」
鳴海は即答した。
その速さに、自分で驚いたくらいだった。
四回目は、川辺のベンチだった。
夕方、川が夕焼けを映し、オレンジ色に揺れている。水の流れる音が、会話の隙間を自然に埋めてくれた。風が吹くたび、草の匂いが鼻をかすめる。
「ここ、好きなんです」
大西が言った。
「人が多すぎないし、少なすぎない」
鳴海は、その言葉に既視感を覚えた。自分も、同じ理由で場所を選ぶことが多かったからだ。
「俺も、こういう場所は落ち着きます」
川を見つめながら、鳴海は言った。
「生きるのが向いてない人間もいると思うんです」
それは、四回目にして初めて鳴海が自分の側から踏み出した言葉だった。
大西は驚いた様子もなく、ただ「そうですね」と答えた。
「全員が、同じテンポで泳げるわけじゃない」
鳴海は、その比喩に少しだけ救われた気がした。
「…また、話しましょう」
帰り際、大西が言った。
「次はもう少し、踏み込んだ話を」
鳴海はうなずいた。
五回目、六回目。
ヒントは少しずつ具体性を帯びていく。
「もし、誰にも迷惑をかけずに欲を満たせるなら、それは悪いことなんでしょうか」
「迷惑をかけてない、って誰が決めるんですか」
そんなやり取りが増えていった。互いに、核心には触れないまま、周囲をなぞるように言葉を重ねていく。
疑いは消えない。
だが、希望も同時に膨らんでいった。
そして、七回目の夜だった。
場所は、駅前の雑居ビルの二階に入っている居酒屋だった。
扉を開けた瞬間、油と煙の混じった匂いが鼻を刺激する。平日の夜だったが、店内はそれなりに賑わっていて、笑い声やグラスの触れ合う音が、低い天井の下で反響している。
通されたのは、奥まった個室だった。戸を閉めると、外の喧騒は急に現実味を失った。
木目のテーブルをはさんだ向かいには、すでに大西が座っている。
蛍光灯の光は少し白く、影をはっきりと落とした。
酒が入ったせいか、空気が少しだけ緩んでいた。
大西はレモンサワーを一口飲み、氷がグラスの中で鳴るのを聞いた。鳴海は、まだ半分ほど残ったビールを眺めるようにしている。二人の間には、これまでの六回の夜が、目に見えない層として積み重なっていた。
会話は、仕事や最近見た映画の話から始まった。どれも、これまでには一度は触れたことのある話題だった。
確認するようなやり取り。逃げ道を確保するための、助走。
沈黙が落ちるたびに、大西は心臓の鼓動を意識した。
今日だ、という予感があった。
だが、それを自分から切り出す勇気はない。
鳴海はグラスを置き、静かに言った。
「……俺、誰かに殺されたいんです」
その声は、小さかった。戸の向こうの笑い声にかき消されてしまいそうなほど。
それでも、その言葉は確かに、大西の耳に届いた。
大西は、すぐには反応しなかった。目を伏せ、数秒の沈黙の後、深く息を吸う。胸の奥に溜まった空気を、ゆっくりと吐き出す。
「私、人を殺してみたいんです」
言葉は思っていたよりも軽く出た。
長年、喉の奥に引っかかっていたものが、やった形になったような感覚だった。
口にした瞬間、ようやく肩の力が少し抜ける。
二人は、互いを見た。
そこには、想像していたような混乱はなかった。拒絶も、同様もない。ただ、長い間探していたピースが、静かにはまったような感触があった。
覚悟していた恐怖はない。嫌悪もない。ただ、確認があった。
「…やっぱり」
鳴海が、小さく笑った。その笑いは、安堵に近かった。
予想が当たったことへの安心と、もう引き返せない場所に来てしまったという自覚が混ざっている。
そこからの会話は、妙に現実味を帯びた。内容、頻度、抑制の方法。どんなときに強くなるか、どうやってやり過ごしてきたか。
まるで、持病の相談でもするかのように、冷静に話し合った。
テーブルの上では、料理が少しずつ減っていく。串から外された鶏肉が、皿の隅に寄せられていく。話している内容と、あまりに日常的な光景の落差が、逆に現実感を強めていた。
「私たちみたいなのが、社会から弾かれるのは仕方ないと思うんです」
大西が言う。自分の声が、思ったよりもしっかりしていることに、少し驚いた。
「多様性って言葉、便利ですよね。でも、認めちゃいけないものは、確かにある」
鳴海もうなずく。
「同性愛みたいに、誰にも迷惑をかけないものとは違う。俺たちは、発散しようとした瞬間に、誰かの人生を終わらせる」
その言葉は、どこか他人事のようでもあり、同時に残酷なほど正確だった。
「そう…」
大西は、少しだけ声を落とした。グラスの縁を指でなぞりながら、言葉を選ぶ。
「だけど、責任は全部私に来る。たとえ、あなたが望んでいても」
鳴海はその言葉にかすかな違和感を覚えた。胸の奥で、小さな棘が引っかかる。
「でも、それは不公平じゃないですか。俺はそうしたいと思っているんだ。なのに、俺の意思はなかったことみたいになる」
言ってから、鳴海は自分でも驚いた。これまで、何となく頭の中で繰り返してきた問いだったが、誰かに向けて口にするのは初めてだった。
「不公平ですよ」
即答だった。大西の声にはためらいがない。
「同じ異常者なのに、私は加害者であなたは被害者になる」
「俺は一度きりです」
鳴海ははっきりと言った。
「妥協したくない。誰でもいいわけじゃない」
それは、ずっと抱えてきた矜持だった。自分の欲が、ただの衝動や逃避ではないという証明でもある。
「じゃあ、私は?」
大西の視線が鋭くなる。探るようでもあり、試すようでもあった。
「私は、その一度のために全部背負うってことですか。何度でも、そういう役をやるってこと?」
個室の外で、誰かが大きな声で笑った。
ジョッキがぶつかる音がする。
ここだけが、世界から切り離されているようだった。
「…違います」
鳴海は少し迷ってから続けた。言葉を選び、けれど逃げないように。
「大西さんじゃなきゃ、だめです」
その言葉は、どこか愛の告白に似ていた。だが、どこかが決定的に違う。
未来を約束する言葉でも、相手を守る誓いでもない。
欲と選択の結果としての、
特別。
「俺にとっては、大西さんが特別なんです」
大西は、しばらく何も言えなかった。胸の奥が、奇妙に熱くなる。
嬉しい、という感情だけでは説明できない。重さと同時に、確かな温度と輪郭を持った何かが、そこにはあった。
「…それ、ずるいですね」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「かもしれません」
鳴海は否定しなかった。
「告白みたいなこと言ってるくせに、すごく身勝手」
「否定できません」
それでも、大西は笑った。苦笑に近いが、拒絶ではなかった。
「じゃあ、記念日にしましょう」
「記念日?」
鳴海が首をかしげる。
「決行日です。ちゃんと決める。衝動じゃなく、二人で」
その言い方には、不思議と落ち着きがあった。
逃げでも、勢いでもない。
選択としての、暴力。
鳴海は静かにうなずいた。
こうして、二人は決行の日を決めた。
それは、祝福でも、悲劇でもない。
二人だけが意味を知る、記念日だった。




