第一話 「自己紹介・鳴海」
鳴海が最初に「自分はおかしいかもしれない」と気づいたのは小学生のころだった。
といっても、それははっきりした言葉を伴う自覚ではなかった。ただ、クラスメイト達が当たり前のように共有している欲望の輪郭が、自分の中では微妙にかみ合っていないという違和感があった。
だけどみんなが怖がるものを怖がれなかったり、みんなが夢中になる話題に心が動かなかったりするのは珍しいことではない。個人差。当初はその程度の違いだと思っていた。
決定的だったのは祖父のお葬式だった。
黒い礼服に身を包んだ大人たちが、式場の中で列をなしていた。
線香の煙がゆっくりと天井へと昇っていく様をなんとなく覚えている。
棺の中に横たわる祖父の顔を見たとき、周囲の大人たちは泣いていた。
声を殺して、あるいは声を上げて。
鳴海はその中で一人、泣けなかった。
かわりに、その白い顔をじっと見つめていた。
悲しくないわけではなかった。
泣こうともしてみた。目を強く閉じて、喉の奥に力を入れてみた。けれど涙は流れない。
無理に力を入れた喉からは、しゃっくりが出た。
祖父は初孫の自分をよく可愛がってくれていたし、自分もそんな祖父のことが好きだった。
しかし、自分は悲しみを上回る、不思議な高揚感に近いものを覚えていた。
自分でも理由は分からなかった。
ただ、祖父が「もういない」という事実が恐ろしいものではなく、妙に静かで美しいものに思えたのだ。
まあ、それだけなら感受性の違いで片づけられたかもしれない。
だが、その数日後、鳴海はふと考えてしまった。
――自分がこうして横たわる側になったら、どうなるのだろう。
その妄想は、恐ろしさよりも先に、強烈な安堵を連れてきた。何かから解放される感覚。説明のつかない安心感。それがぬるい水のように体にじんわりとしみ込んできた。
その感覚は、葬式が終わっても消えなかった。
夜、布団に入った後も、鳴海は天井を見つめながら考えていた。
それ以来、鳴海の中には「死にたい」とも「消えたい」とも違う、別種類の欲求が根を張り始めた。
誰かに殺されたい。
自分で命を絶つのはだめだった。事故でも駄目だった。
「誰かの手によって、自分という存在が終わらされること」、それだけが鳴海の欲を正確に表していた。
殺されること、誰かの意思によって、自分が終わること。
そのイメージだけが、異様なほど鮮明だった。
もちろん、そんなこと誰にも話せなかった。
両親は、極めて常識的な人間だった。市役所の福祉課に勤める父と、パート勤めの母。2人とも善良で、穏やかだった。少し鈍感でもあった。
学校でいじめられていたわけでもない。成績も平均的で、教師から見れば「少し大人しめの子ども」だっただろう。実際成績表の一言欄には、そんなことばかりが書かれてあった。
そんな自分が内心「殺されたい」と思っているなど、どう説明すればいいのだろうか。
だからこそ、鳴海は自分の中の欲を「異物」として、慎重に包み隠すことを覚えた。
中学生になると、世界は一気に騒がしくなった。教室の隅でも恋愛の話題が囁かれる。
誰が誰を好きらしい。誰と誰が付き合っているらしい。性的な冗談も多少は増え始め、それまでより、「欲」が言葉になり始めた。
鳴海の関心はどうしてもそこに向かなかった。代わりに、ニュースで流れる殺人事件や事故死の記事を、必要以上に読み込んでしまう自分がいた。被害者の年齢、死因、そうした情報を追うたび、頭の奥がひりつくように疼いた。
一度だけ、鳴海は打ち明けようとしたことがある。
相手は同級生の男子だった。彼は口癖のように「人を殺してみたい」「ムカつくやつは全員死ねばいい」と言う、いわゆる問題児だった。教師からも、クラスメイトからも、少し距離を置かれている存在。みんな半ば呆れ、遠くからうわさ話をしていた。
――この人ならもしかしたら、
そう思ったのは、今思えば、当時の自分なりの必死の判断だった。
初めて自分から、クラスメイトに話しかけてみたかもしれない。
放課後、校舎裏や錆びた自動車置き場の陰で二人でよく話した。
彼が「誰か殺したい」とか言うたびに、逆に自分は「殺されてみたい」という旨のことを言ってみた。
その言葉は、想像以上に軽く空気に落ちた。
最初は笑っていた。
だんだんと「しつこい」と言われるようになった。
最後には「お前本気で言ってんの?」と聞かれた。
鳴海は、そこでようやく気づき、
「まさか、冗談だよ」
と笑って返した。
翌日から、彼は鳴海を避けるようになった。
数日後には、ひそひそ声が背後を通り過ぎるようになった。
それと並行して「あいつは、ちょっと変だ」という目がそいつではなく、自分に向けられるようになった。
そいつが「殺したい」と言っていたのは、結局のところ、注目を集めるためのくだらない演技だった。「そういう時期」、中二病だ。
鳴海の欲とは、根本的に違っていた。
それで十分だった。
鳴海は、それ以来誰にも打ち明けたことはない。
それから高校へと進学した。
第一志望校への合格を果たした祝いに、両親はスマートフォンを買ってくれた。
次に居場所となったのが、インターネットだった。
夜、部屋の明かりを落とし、スマートフォンから掲示板を覗く。
自殺掲示板、裏チャット。
そこには、「死にたい」という言葉が溢れていた。
鳴海はその集団に紛れ込むことで、かろうじて呼吸をしていた。
ただし、完全な共感はなかった。
多くの人は、苦しさから逃れるために死を望んでいた。絶望や疲労の果てに、逃避の選択肢としてそれを見ている。動機が違った。
自分は違う、と
ここでも疎外感は晴れなかった。
まだ消えない。あの仲間外れの目線、ひそひそ声、噂話。
苦しいから死にたいわけじゃない。生きるのが嫌だからでもない。
ただ、殺されたいのだ。
満たされてみたいのだ。
それは性欲と同じだ、とも鳴海は思っていた。
誰でもいいわけじゃない、何でもいいわけじゃない。神聖なものでも、特別な使命でもない。だけど満たされていたい、満たされてみたい。
妥協したくない、という気持ちがあった。
この夢が叶うのは一度きりだ、二度目はない。だからこそ、相手も、状況も、適当であってはならない。その考えを、鳴海は密かに誇りに思っていた。
恋愛や性欲に振り回され、簡単に相手を選び、妥協し、裏切る他人たちを、どこか冷めた目で見ていた。
自分は違う。欲に対して誠実だ。そう思うことで、自分を肯定した。
高校を卒業し、大学を出たのと同時に、鳴海は地方の都市で一人暮らしを始めた。
昼は事務職。夜はネット。
窓の外には、代り映えのしない住宅街。24時間営業のコインランドリーの光。
変わらない日々の中で、欲求だけが少しずつ輪郭を増していった。
そして、ある夜。
匿名掲示板の中で、一つの書き込みが目に留まった。
「殺したい。衝動的じゃない。計画的に。誰か、話を聞いてくれる人」
短い文章だった。感情も、煽りもない。
ただ静かで、整っていた。
鳴海は、しばらく画面から目を離せなかった。
胸の奥が、はっきりと脈打つ。
久しく忘れていた「もしかしたら」という気持ち。
それが、大西との出会いだった。




