第5話 雲の上の時間。
その日、店の空気が少しだけ“背筋の伸びる感じ”になった。
スーツの男性が、革のアタッシュケースを抱えて入ってきたからだ。
髪も靴も、ピカピカ。声も静か。
「こちら、拝見お願いできますか」
店長は「はい」とだけ言って、カウンターの上に柔らかい布を敷いた。
男性はケースを開ける。
中にあったのは、見た目だけでも“ただ者じゃない”時計。
ケースの角、ブレスのつや、文字盤の立体感。
キラキラじゃなくて、ピシッとしている。
いとが、私の耳元で囁く。
「……オーデマ ピゲ。ロイヤルオーク」
(おーでま……?)
知らない音の並びなのに、いとの声が小さくなるだけで“すごい”が伝わる。
店長はルーペを目に当てて、淡々と確認していく。
「15500ですね」
数字だけが会話に混じる。
私は、分からないまま、ただ見ていた。
いとは、私の袖をちょんと引いた。
「ね、見ていい?」
「……いいの?」
「いいよ、遠くから」
いとは、胸の前で小さく手を握って、
ほんとに“わぁ……”って顔をした。
目が、完全に観光地のそれ。
私は思わず聞いた。
「……いとも持ってるの?」
いとは、首を左右にぶんぶんぶん!と振った。
勢いが強すぎて、銀髪がふわっと揺れる。
「むりむりむり! 無理っていうか、高校生には荷が重すぎるよ!」
「……荷が重い?」
「うん。すごすぎて。わぁってなって、はい終了」
「……終了」
「終了」
いとの言い方は、トゲじゃない。
“届かないものをちゃんと遠くから眺める”みたいな、軽さがあった。
スーツの男性が帰ったあと、店内の空気が元に戻る。
私は、息を吐いた。
「雲の上って、こういうことなんだ……」
私が言うと、いとは「でしょ」と笑った。
【登場時計ミニ紹介】
・AUDEMARS PIGUETRoyal Oak 15500ST:ラグジュアリースポーツの代表格。存在感が強く、“雲上時計”として語られやすい。




