第1話 直したいだけなんですけど。
父の腕時計が止まったのは、月曜日の朝だった。
「……あれ?」
父が小さく言った。
手首の上で、秒針が静止している。
父は毎朝、時計をいじる。
私は「いじる」という言葉しか知らない。
つまみのような部分をカリカリと回すのが、父の日課だ。
でも、今日はその“日課”が終わったあとでも、秒針が動いていないのが見て分かった。
父は眉を寄せたまま、時計を耳に近づける。しばらくして、そっと机の上に置いた。
その仕草が、やけに丁寧だった。
「止まっちゃったの?」
私が聞くと、父は「うん」とだけ言った。
それ以上、何も言わない。言わないけど、少しだけ口角が下がっている。
机の上の時計は、古いのにきれいだった。
革ベルトは柔らかく馴染んでいて、ケースは磨かれているのか、朝の光を静かに返す。
たぶん、父はこの時計が好きだ。
「予備、あるから」
父は引き出しから、安っぽい金属の時計を出した。ベルトが軽くて、音がカチャカチャ言う。
値札のついたままの箱を見て、私は「安いのだ」とだけ理解する。
父はそれを手首につけて、結び目を確認し、いつも通りにネクタイを締めた。
止まった時計には、目を向けないまま。
「……じゃ、行ってくる」
玄関の扉が閉まって、家の中が少し広くなった気がした。
机の上には、止まったままの時計がある。
(直すって、いくらくらいだろ)
私の頭の中の相場は、せいぜい数千円だった。
スマホの画面が割れても、修理ってそれくらいのイメージだ。
私は、机の引き出しから小さな携帯ケースを見つけた。
柔らかい布の内側がついた、眼鏡ケースみたいなやつ。
その中に、そっと時計を入れる。
(持って行ってみるだけ。安かったら直す。高かったら……そのとき考える)
私の決意は、軽い。
でも、父の時計を包む指だけは、妙に慎重だった。
【登場時計ミニ紹介】
・父の時計:ROLEXOyster Precision系のヴィンテージ手巻きモデル。シンプルな三針で、長く使える定番の一本。
・父の予備:ノーブランドのクォーツ腕時計(約2,000円)。時間が分かればいい、という“実用品”。




