50 あの人
レネの家の床は暖かい。
そんな実感したのは初めてだ。床で寝た事なかったし。
僕は思いの外居心地のいい床の上で、目を開けずにまどろんでいた。
おそらくもう朝になってはいるものの、何だか目を開けるのが惜しい。この暖かさから逃れるのが惜しい。目を開けたら終わると言うわけではないのに、とにかく目を閉じてこの感覚を享受したい。
それに腕の中にある柔らかくてふわふわした感触。なによりこれが一番暖かい。それに、ぱっと華やぐようないい匂い。
匂いの出所を探して鼻を近づける。
「ん・・・」
声がする。
いや、やっぱりそうか。
そんな気はしてたんだけど。
覚悟を決めて目を開ける。
目の前に最愛の人の顔。最愛のセイレーンの顔。
ほぼゼロ距離にレネの顔があった。鼻どころか唇も触れそうな距離。近すぎて逆によく見えない。
その上、両手両足が僕を拘束している。そりゃあ暖かくて柔らかいはずだ。
そもそもなんでここで寝てるんだか。ベッドで寝てたはずなのに。
さて、どうしよう。
レネはまだ起きていないらしい。目を閉じて規則的な寝息をたてている。そんな寝息が僕の鼻先をかすめる。寝息なのになんだか甘い。
その寝息を僕の口で受け止めたい、って思うのは少し変態的か。
ともあれ、僕の方が先に起きるのは珍しい。いつもならレネはとっくに起きて朝食の準備をしている。
昼寝しているレネをじっくり観察する事はあるけど、朝寝坊するレネはレア。せっかくなのでじっくりと観察する。
うん。可愛い。
以上。
長いまつ毛だとか、整えているわけでもないのに余計なものが一切ない眉毛だとか、神様が何の迷いもなく通したような鼻筋だとか、ふっくらぷるぷるで瑞々しい小さな唇だとか、少し朱が刺した何の曇りもない晴天のような頬だとか。
魅力的な場所はたくさんあるけども、レネを表現する言葉はそれだけで充分だ。
そんな彼女と昨日——
今でも信じられない。もしかしたら夢なんじゃないかと今でも思う。だとしたら、こうして彼女に抱き枕にされている状況も夢なんだろうか。
夢だったとしても後悔しないようにしないと。
となると、ゼロ距離での観察だけでは勿体無い。
ブランケットから手を出す。
つんつん。
レネのマシュマロみたいなほっぺをつつく。
「んん・・・んん・・・」
ああ、可愛い。
ついでにつまんでみる。
「ん・・・ん・・・」
おー。どこまでも伸びる。
変な顔でも可愛いレネ。
何かドキドキする。寝ているレネにいけない事をしているようで、背徳感に不思議と興奮する。
じゃあ鼻もつまんでみよう。
そして鼻に手を伸ばす。
ふにゅっとつまんだ瞬間、
「ん・・・」
ぱちっとレネの目が開く。僕の視界がレネの青い瞳でいっぱいになる。僕の視線も呼吸も鼓動も、全てその青いブラックホールに吸い込まれる。
ぱちぱちと二度三度瞬きをした。
次の瞬間、唇に柔らかい感触。
どうやら夢じゃなかったらしい。
もうこのままいちゃいちゃしていたいな。
そう思ってレネを強く抱きしめていると、
「ふふふっ・・・」
声が聞こえて振り向く。ダイニングに続くドアの方。
・・・・・・
ドアの隙間からママがこちらを眺めていた。
「いや、いいのよ。私は二人を応援してるからいいのよ?」
ダイニングテーブルにママ。その対面に僕とレネ。まるで説教されているような配置ではあるが、説教されているわけでは無い。
「思う存分いちゃいちゃすればいいと思うけど、ママ放っておかれたら寂しいわ♡」
「だったらノックくらいしてもらいたかったですけど」
「見たらちゅっちゅしてるんだもん♡。思わず見ちゃうじゃない?」
いやいや、見ないでほしいんですが。
「可愛い娘が幸せそうなんだもん。嬉しくない訳がないじゃない」
そう思ってもらえて光栄です。でも、じろじろ見てるのはどうなんでしょ。
「それより、何の用でしょうか?」
「レネ、逢引きを邪魔されたみたいな顔しないで」
「してませんっ!」
ムキになるレネ。してたんだ。
「大好きな人との未来を見るのもいいけど、別れる事になるママの事も考えてほしいわ。大事に大事に育てて来たのに」
「・・・すみません。少し浮かれてました」
「僕の方こそごめんなさい」
結果的に僕が二人を引き裂いたみたいになってる。勿論そんなつもりはないけど、二人はこれからしばらく離れ離れになる。
「いいのいいの♡私もすぐにそっちに行くから。リンちゃんが私の役割を引き継いでくれるから、私もあの人と一緒にいられそう」
「そ、そうなんですかっ!?パパとママが一緒に?」
「そうなの♡今から楽しみで楽しみで。レネちゃんに弟か妹が出来るかもしれないわね♡」
そこはスルーさせて頂きます。
「それよりも」
ママが急に惚気モードから真面目モードに切り替わる。
「あなた達、一緒に向こうに行ってどうするつもり?向こうに行ってどういう生活を送るつもりなの?」
「えっと・・・」
そう言えばそこまで考えていなかった。一緒にいたいが先について、どうしたいかは考えていなかった。
住む場所は——僕の家でいいのかな?確か部屋は余っているし、母親も父親も反対せずに受け入れてくれる気がする。どうして僕にこんな可愛い子が好意を持っているのか疑問に思うくらいだろう。
ただ、レネは向こうでどうするのか。見ず知らずの場所で右も左もわからない状態だ。その上僕は学校に行かなければならない。
レネにさみしい思いをさせてしまうかもしれない。
ママはそんな不安を読み取ったのか、
「だからね」
人差し指を立てて言う。
「レネちゃんを、ショウ君の学校に留学させようと思って」
「り、留学?」
「そそ。留学」
ママはウインクしてそう言う。
僕はレネと顔を見合わせる。
「私が学校に行くんですか?」
「そうよ。甘酸っぱいキャンパスライフね♡」
なぜか嬉しそうなママ。それだけのために留学するってどうなんだ。
いや、僕も嬉しいけどさ。
ついついセーラー服姿のレネを妄想してしまう。
「それもあるんだけどね」
また真面目な顔になるママ。表情がコロコロ変わる人だな。
「ほら、向こうでこれから生きるとなると、学力って必要でしょ?愛さえあれば何事もどうにかなるって思ってない?」
「そうは思ってないけど・・・」
思っていないと言うよりは、そこまで考えていなかった。
「だから、二人の将来のための下地作りのためにね。最低限の学歴は必要かなって」
将来か。僕としてはレネと一緒にいたいってだけで、将来がどうとか考えもしなかったけど。
「これからも一緒にいるためには、それが必要なんですね?」
レネがママの目を見据える。
「そうよ。レネちゃん、ショウ君と一緒にいたいでしょ?」
「はい」
レネの返事には迷いがない。
「私はショウさんとずっと一緒にいます」
ちょっと照れくさい。
「だったらレネちゃんも学校へ行って、お仕事しなきゃならないわね。いちゃいちゃちゅっちゅしてるだけじゃダメよ?」
「していたらダメなんですか?」
「それだけじゃダメって事」
ママはレネの額を指でつつく。その様子は仲のいい母娘そのもの。
「ねえ?ショウ君?」
「えっと、あの・・・」
正直何も考えていなかった。もしかしたらレネよりも覚悟が出来ていなかったかもしれない。ただ、一緒にいたいという気持ちは負けないはずだ。
そして一緒にいるとなれば、愛だ恋だだけではどうにもならない事もあるだろう。そもそも、人とセイレーンだ。
「うん・・・一緒にいるためなら、何でもするよ」
でもいちゃいちゃもしたいな。
思っていると、レネが手を重ねてきた。黙って見つめ合う。
「ふふっ・・・いいなぁ♡羨ましいなぁ♡むずむずしちゃう♡」
ママが体をくねくねさせる。相変わらずの恋する乙女モードのママは可愛い。周囲に浮かぶハートマークが見えるようだ。
そんなママの様子を呆れるように眺めているレネも可愛い。
「今度来る船にあの人も乗ってくるのよ♡今から楽しみで楽しみで♡」
「あの・・・あの人って?」
まさか・・・
思い当たって額から汗が流れる。
ママは僕の考えも見抜いたように口角を上げる。
「ふふっ。私の大切な人で——レネのパパ」
むう・・・最大の障壁でない事を願う。




