40 緊張
「ショウさん、帰りに寄りたい場所があるんですが、いいですか?」
僕が空を飛ぶレネの背中にしがみつく帰り道。大陸が見えなくなって大海原が眼下に広がるようになった辺りでレネは切り出してきた。
と同時に雨の範囲を外れた。雨の雫を払うためか、白い翼がばさりとはためいた。
「う、うん。いいよ」
未だに動揺を隠せない僕がぎこちなく答える。耳元に口を寄せるような形になる。
レネは少しくすぐったそうに身じろぎする。
さっき温泉であった事。僕はどうしても意識してしまう。
レネにキスしようとした事。レネが拒絶しなかった事。
あの時リンさん達が来なかったら、あのまま唇を重ねていただろうか。そうだとしたら、僕たちの関係はどうなっていただろうか。
知りたいような、知りたくないような。
でもあの時のレネは綺麗だった。そして、空気がやけに甘く感じた。僕はあの空気にやられたのか、それともただ、レネの魅力にやられたのか。温泉の熱にやられただけか。
それとも僕はレネの事を——
心臓の鼓動が未だにうるさい。レネに密着してるから、そろそろおさまってほしい。レネにこの胸の音が気づかれてしまう。
それに、温泉の影響か体の芯から温かい。僕だけでなくレネの体も奥から温かく、相乗効果もあって汗ばんでしまいそうなほど。
そんなあらゆる事に反応してしまう僕に反してレネが平気そうなのが不思議。僕の事を何とも思っていないのかな。
「もっと早くに行こうと思っていたのですが」
柔らかい微笑みを浮かべるレネ。僕はそんなレネの横顔を眺める事しか出来ない。
「大事な所?」
「はい。私と、ショウさんにとって大事な場所です」
そういうレネの微笑みが、なんだかいつもと違うように見える。少し硬いと言うか、強張っていると言うか。
「お。レネ、とうとう行くのかな?」
僕とレネの会話を聞いていたリンさんが隣にやって来てレネの顔を覗き込んだ。
「とうとう覚悟を決めたのかい?」
「そうじゃないですけど・・・呼ばれましたし、そろそろ行っておかないといけません」
少し表情が曇った気がする。
「覚悟?それって僕も関係してるの?」
レネの言う覚悟って何だろう。
「関係してますが、あまり気にしなくて大丈夫です」
レネはそう言って少し僕の方を向く。
距離が近い。ただでさえ近いのに、さっき触れ損ねた唇までの距離が近くなる。
反射的に顔を逸らすと、まるでレネの金髪に顔をつっこんでいるような形になる。うなじの匂いを嗅いでいるみたいな、変態に見えるかもしれない。
来る時とは違う匂いがする。素朴な石鹸の匂い。
「おーおー、見せつけてくれんな」
セラさんがにやにやしながら言って来る。
「ほほー。やっぱり大人の階段を上った二人は違うねぇ」
あぐらをかいた姿勢で飛んでいるイナさんも同調する。
「な、何もしてないって!」
僕は顔を上げて抗議する。いや、この態度は図星を突かれて慌てているようにしか見えないか。
「へへーん。だったら、誰もない温泉で二人きりでほぼ裸で何してたんだよ。言ってみろよ」
セラさんがにやにやと僕の顔を覗き込んでくる。確かにその言葉だけ聞くとただごとではないけども。
「何も無かったよ。一緒に温泉に入ってただけで」
「本当か?レネも口を割らなくてな」
「何も無かったです」
レネもきっぱりと言う。そう。本当に何も無かったし。何かが起こりそうだっただけで。
でも二人はまだ何かを疑っている様子。
「オレだったら襲ってるな。あんな下半身堂々と見せられて、襲わない方が失礼だろ」
それは忘れて下さい。
「粗末なモン見せやがって」
すいませんね。粗末で。
「ほらほら。イナとレネは違うのだぞ。それに、本人達が何も無かったと言っているのだから」
そう言って二人を諌めるリンさん。これで話が終わってくれればいいんだけど。
「でもよー」
まだ何かありますかイナさん。
「女神様が妊娠してるって噂があったからなぁ。だったら、風呂場でイケナイ事をしててもおかしくないと思うんだが」
あ、それは・・・
「やっぱり小僧の子だよな」
「まあまあ二人とも。ここは温かく見守ろうじゃないか」
「い、いや、違うんだって!それはレネが・・・」
「そうと言えば皆さん大人しくなってくれると思いまして。本当の事ではないですよ?」
「そうなのか?ツマンネ」
「じゃあ、まだオレにもチャンスが」
「ふむ。子供の名前をどうしようか三人で考えていたのだが・・・そうか、嘘なのか」
あの村の若い衆にだけ伝わっていればいい話だが、この三人にもそりゃあ伝わるか。まあ、早めに誤解を解く事が出来てよかったけど。
でもそうか。あの村ではその噂がどんどん広がっているのか。ちょっと怖いな。
僕はもうあの村に行く事はないだろうけど、レネはこの先どうするんだか。相手に逃げられた可哀想な女神様って思われないかな。ちょっと心配。
「本当に出来たらちゃんと報告しますから」
そういう誤解を招くような事言わない方がいいと思うな、レネ。
そうして、僕が三人に『男のカイショー』だの、『据え膳食わぬわ——』などと揶揄われているうちに、島がいくつか見えてくる。セイレーンの住む島々のエリアに戻って来た。いわば、セイレーン諸島に戻って来た。
その中にある一番大きな島、レネの島の四倍ほどの大きさの島に向け、レネ達四人は高度を下げて行く。あそこが目的地なのかな?
ゆっくり滑降する中で、ぽつんと一件の家屋が見えて来る。砂浜から少し離れた草原に、白い壁に赤い屋根の二階建て。住宅街にあったら埋もれてしまいそうな、ごくごく普通の家。レネの家よりは大きいけど、僕の家と同じくらいかも。
その家の玄関先に着地する。
翼をしまったレネは、僕が背中から離れたのを確認すると、玄関ドアを開けて中に入る。
別にいいけど、セイレーンって家にお邪魔する時ノックとかしないんだね。三人もレネの家に来たときは突然ドア開けるし。
まあ、文化の違いとかもあるし、気にしないようにして僕も続く。
三人も続いてくる。
家の中も至って普通。玄関を入ってまっすぐ伸びた廊下。右にあるのはは水回りかな?そして左側には部屋のドア。寝室とか、客間だろうか。
そして正面にあるドアが、おそらくリビング。レネは迷わず進んで、リビングに抜けるドアを開ける。
明るいリビング。白を基調とした家具が置かれ、落ち着いて清潔感のあるリビング。実際の広さよりも広く見える。
そして中央にあるグレーのソファ。そこに一人の女性が座っていた。
目を落としていた本から視線を上げる。
肩まで伸ばした金髪に、サファイヤみたいな青い瞳。白い肌。白いタンクトップに青いジーンズ。
レネとそっくりな、レネよりもほんの少し歳を重ねたような、そんな女性。レネのお姉さんだろうか。姉妹がいるなんて初めて聞いたけど。
「まあ、レネ。来たのね」
レネより少し低い声。でもぱっと花開いたその笑顔は瓜二つ。
レネは瓜二つの笑顔を浮かべる。いや、レネの方が柔らかいような気がする。
「はい。ママ」
ま、ママ?
とてもそうは見えない。見えないけど——
ちょっと緊張してきた。




