26 怖かった
さて困った。
この小さな洞穴で奥側にレネがいて、僕がその手前で入り口側を向いている。
僕は上半身裸で、背後には推定下着姿のレネ。
背後ではばしゃばしゃと水の音が響いている。おそらくレネがこの嵐で濡れてしまった服を絞ったり叩いたりしている音なんだろうなと思う。
外を見ると激しい雨と風で、まだ外に出られる状態ではない事は確認出来る。まだしばらくここで雨宿りしなければならないが——
僕は後ろのレネを見られずにいる。
そりゃそうだ。僕はここに来て以来比較的薄着の女の子と接してはいるが、元々女の子に免疫がない上、下着姿の女の子と同じ空間にいると言う刺激的な状況下に置かれた事はない。
レネの水着姿すら知らない。
そう言えばレネは水着着たりするのかな。今度聞いてみよう。
ともかく無駄に心臓がドキドキするな・・・
「ショウさん」
不意に話しかけられ、僕はびくっと体を反応させる。
「な、何かな?レネ」
平静を装う。声がうわずっていたのはバレたかな?
「私の事・・・嫌いにはなっていませんか?」
レネも平静を装ってはいるが、言葉の端々に不安を秘めた響きがある。震えていると言うか、弱々しいと言うか。
「さっきも言ったけど、嫌いには・・・なる訳ないよ」
レネがふっと笑った気がした。
「怖くはないですか?こんな嵐を呼んでしまった私ですよ?」
「怖くないよ。全然」
あの時目を閉じて歌ったレネは美しかったし、可愛かった。怖いなんて感情は今に至るまで微塵も感じる事はなかった。
ただ、多少レネの能力を過小評価していたところがある。あんなにふわふわしたレネの雰囲気から、そこまでの嵐は来ないだろうとの考えがどこかにあった。
考えてみれば船を沈めてるんだけど。
そんな事も思い当たらないほど、普段のレネは優しくて明るくて、平和的で可愛い。
それは多分可愛いすぎるレネが悪いんだ。
「私は・・・怖かったですよ」
「レネが?」
「はい」
一瞬の沈黙。
「ショウさんに怖い思いをさせてしまうんじゃないか——嫌われてしまうんじゃないか、私は怖かったです。だって、私の歌のせいでショウさんは船から嵐の海に投げ出されてしまったわけですから。それなのに、また歌いたいなんて——わがままですよね、私」
声を詰まらせるレネ。
僕としては、レネの『歌いたい』という衝動がセイレーンにとってどのような意味を持つのかはわからない。まあ、一般的にセイレーン=歌みたいなところはあるから、人間には知る事の出来ない衝動なのだろうとは想像出来る。
その衝動と、僕への気遣いで揺れていたわけだ。
そう考えると、レネはずっと我慢していたんだ。
「そんな事はないよ」
僕は断言できる。
「レネの歌は綺麗だったし——その時のレネも可愛かった。それに、その歌のおかげで僕はレネと出会えた訳だから、嫌いになる訳ないよ」
確かに怖い思いをしたし、トラウマだって植え付けられたけど、それ以上にこんなに可愛いセイレーンと出会う事が出来た事実の方が、僕にとって重要。
「確かにあの時は怖かったし、溺れた時はその時の事思い出して怖かったけど、レネと一緒にいるのは楽しいし、その・・・」
言いながら急に恥ずかしさが込み上げてくる。なぜだか、最後の『幸せだ』って言えなかった。でもそれは恥ずかしさもあるけど、きっと別れる可能性を感じているからだ。
「私がなぜ歌いたくなったか、分かりますか?」
服をぎゅーと絞る音が聞こえてくる。
「セイレーンが歌いたくなる瞬間って事?」
「それはどうでしょうか。全員が同じとは限りませんから、少なくとも私の話です」
ぱんぱんと服を払うような音。なんだかそんな音が大きくなる。
「私が歌いたくなったのは、その・・・幸せだったからです」
レネが少し言い淀みながら口にした言葉に、僕の心臓が握られる。決して嫌じゃない、痛くないこの感覚の正体は何だろう。
「毎日ショウさんとお話して、一緒にお散歩して、甘い物を食べさせて貰って——そして一緒に朝日を眺めて——歌いたい衝動が止められませんでした」
するとふいに僕の体にレネの腕が回され、お腹の辺りで交差する。
「ありがとうございます」
そしてぎゅっと力を入れて抱きしめて——くれるのはいいんだけど、ほぼゼロ着衣の状態ではやめてほしい。
色々柔らかいのとか、少し湿った肌だとか、湿ったブラジャーだとかが僕の無防備な背中に襲いかかる。肩甲骨のあたりにかかる温かい風は、レネの吐息かな?
むむむむ。
こんな雰囲気でレネの手を振り解ける訳もないし、かといってこの状態では理性の限界もある。感触を堪能したいって気持ちももちろんある。
だからどうしよう。
振り向いて抱きしめるって選択肢もある。僕といる事に少なからず幸せを感じてくれている女の子だ。拒絶はされないだろう。
しかし、雰囲気に流されて下着姿の女の子を抱きしめるって、人としてどうなんだ。
いや、そもそも抱きしめられているんだから同じ事か。いや、真正面から抱き合うのとは訳が違うか。
でもこうやって柔らかい物をぎゅうぎゅう押し付ける位だから、レネもそれを望んでいるのかもと考えるのは都合が良すぎるか。
いや、でも——
雰囲気と常識と理性と本能を総動員して状況整理をしていると、ふっとレネの腕が解かれて背中の感触が遠ざかって行く。
もうちょっと感じていたかったな。
僕が名残惜しく思っていると、背後から濡れた布の音が聞こえてくる。普通の衣擦れとは違うけど、多分レネは服を着ているんだろう。
残念なような、安心したような。
そして外を見ると、いつの間にか雨は弱まっていて、雲も晴れてきたのか明るさを取り戻しつつあった。
レネの呼んだ嵐は去ったらしい。
「ショウさん」
呼ばれて、恐る恐る振り向く。
そこには、いつものタンクトップとショートパンツで身を包んだレネ。絞ったみたいだけど全体的に少し濡れているが、ちゃんと隠す所は隠している。
空の明るさと共に戻って来たレネの笑顔。雲の切れ間から差し込む太陽の光に目を細めるくらい可愛い。
黙って僕のシャツを差し出されるが、僕は別に平気なので着る事なく小脇に抱える。冷たい。
「帰りましょう」
「そうだね」
僕たちは立ち上がると、洞穴を出る。もうすっかり雨はあがって、さっきの空が嘘みたいに雲一つない青空。
木々を濡らす雫が光る。
戻ってきた強い日差しに目を細める。冷えた体に太陽の光は暖かい。
「ショウさん、もうすぐショウさんを食べられますか?」
「うん、もうそろそろかな」
僕はそう答えるけど、それが僕たちの別れを意味しているように聞こえるのは、気づかないフリをしておこう。




