撤退戦
セレシアを抱え、裏通路へと走り出した直後だった。
背後ーー
重い足音が、複数。
「‥‥‥‥来る」
闇オークションの喧騒を抜けたはずの地下回廊。
だが、静寂は一瞬で破られた。
甲冑が擦れる音。
魔力の気配。
そしてーー明らかに"統率された"殺気。
「囲まれている‥‥」
マーリンが肩をすくめる。
エルメスが答える
「バルカスの貴族連中の私兵か‥‥」
「ちっ‥‥‥‥」
蓮は歯を噛みしめた。
前方、分岐路。
後方、追手。
逃げ場は、狭い。
セレシアの身体は軽い。
だが、その呼吸はまだ浅く、力も戻っていない。
(ここで止まったらーー)
蓮は、一歩前に出た。
セレシアを背に庇うように。
剣を抜き、通路の中央に立つ。
「‥‥‥俺が行きます」
「時間、稼ぎます」
その瞬間だった。
「--やめろ」
低く、鋭い声。
エルメスだった。
「‥‥‥師匠?」
振り返る蓮に、エルメスは一歩近づく。
その目は、いつもの商人のそれじゃない。
冷静で、
計算され尽くしていて、
そしてーー戦場を知っている目だった。
「前に出る判断は、間違ってない」
「だが、今のお前の役目はそれじゃない」
エルメスは、セレシアに一瞬だけ視線を向ける。
「彼女を"守る盾"になるな」
「"逃がす剣"になれ」
蓮は、息を呑んだ。
「‥‥‥逃がす、剣」
「そうだ」
エルメスは静かに言う。
「倒す必要はない」
「勝つ必要もない」
そして、杖を抜いた。
「ーー生きて、ここを抜ける」
「それだけで、十分な勝利だ」
その背中が、前に出る。
「エルメスが前だ!」
私兵の一人が叫ぶ。
「構わん、数で押せ!」
「ここで逃したら、面倒になる!」
一斉に、敵が動く。
「マーリン」
エルメスが短く呼ぶ。
「分かってる」
マーリンが杖を軽く叩いた。
床に、魔法陣が走る。
「三十秒」
「それ以上は、保証しない」
「赤‥‥‥白‥‥‥青‥‥‥‥」
幻影魔法。
<トリコロール・ファントム!!>
マーリン専用の高等幻影魔法。
単なる「目眩し」じゃなく、戦場の認識そのものを分析してしまう魔法。
次の瞬間。
通路の奥で、赤が弾けた。
血飛沫のような光と共に、
剣を振るう"蓮"と、倒れかける"セレシア"の幻影が現れる。
「前方に敵影!」
「いや、あれは本物だ!」
私兵たちが、一斉にそちらへ雪崩こむ。
同時に、白。
足元から霧が噴き上がり、
視界と距離感が、ぐにゃりと歪んだ。
近いはずの敵が遠く、
遠いはずの壁が、すぐ目の前にある。
「‥‥‥‥っ、位置が分からん!」
そして最後にーー青。
通路の分岐に
青い残像が、確かに"走っていく"。
魔力反応も、足音もある。
「逃走ルートは右だ!追え!」
マーリンは、肩越しに振り返り、
蓮とセレシアにウインクした。
「はい正解。でもーーそれハズレ」
次の瞬間。
三色の幻影が、同時に砕け散った。
残ったのは、
誰もいない通路と
完全に分裂された追手だけだった。
「行け!蓮!」
エルメスの声が飛ぶ。
蓮は迷わなかった。
セレシアを抱え直し、
マーリンが作った"逃げ道"へと走り出す。
剣を振るえない悔しさより、
背中の温もりを失う方が、怖かった
背後で、金属音。
怒号。
魔法の混ぜる音。
だがーー
追ってこない。
正確には、追えない。
(‥‥‥‥師匠)
蓮は、歯を食いしばる。
(今はーー信じる)
走りながら、
腕の中のセレシアが、僅かに身じろぎした。
「‥‥‥‥あの‥‥。」
弱い声。
だが、確かに。
「‥‥‥大丈夫。だと思う」
蓮は、低く答えた。
「必ず、外へ出る」
セレシアは、ゆっくりと目を開く。
「‥‥‥もう一人の方は?」
「後ろだ」
「時間を作ってくれている」
一瞬、唇を噛みしめーー
それでも、彼女は言った。
「‥‥‥ありがとう」
蓮は、少しだけ笑った。
「とりあえず、生きて帰ろう」
その時。
通路の奥で、
何かが、爆ぜた。
ーーエルメスが、本気を出した音だ。
(師匠‥‥‥無事でいてくれ‥‥)
逃走は、まだ終わらない。
だが確かに今、
三人はーー同じ方向を向いていた。
***
通路の奥。
金属音と怒号が交錯する中で、
エルメスは一人、私兵たちの前に立っていた。
「逃がすか!」
「囲め!」
四方から迫る刃。
だがーー
「‥‥‥数はいるが、質は二流だな」
エルメスは一歩、引いた。
その瞬間。
ーーパンッ!!
乾いた破裂音。
「なっーー!?」
通路に、白い煙が一気に広がった。
視界が、奪われる。
「煙幕!?」
「どこからーー」
明らかに、敵兵は困惑している。
その次の瞬間。
ーーガラガラッ!
足元で、何かが転がる音。
「うわっ!?」
「足がーー!」
鋭い悲鳴。
兵士たちが、次々に転倒する。
床一面に撒かれていたのはーー
まきびし。
「‥‥‥遅くなりました」
煙の向こうから、落ち着いた女性の声。
エルメスが、口元だけで笑った。
「いやはや‥‥相変わらず、完璧なタイミングだね」
煙の中から現れたのは、
忍びのような格好に身を包んだ女性。
無駄のない動き。
冷静な視線。
ーー秘書、セシル。
「エルメス様の指示です」
「"商品を持ち出した直後が、一番危険"だと」
少し、誇らしげに鼻を膨らます。
「だから、裏ルートを押さえてきました」
彼女は手際よく、追加の煙幕を床に滑らせる。
ーーパンッ!
さらに視界が遮断される
「貴族私兵は、正面戦闘には慣れていますが」
「こういうのは、苦手でしょう?」
事実だった。
「見えない!」
「くそっ、足が動かん!」
「誰か、光源をーー」
混乱は、一気に拡大する。
「撤退経路は?」
エルメスが短く問う。
「三つ」
「一つは囮用」
「一つは既に封鎖されました」
セシルは、淡々と言った。
「残る一つが、本命です」
「上出来だ」
その頃ーー
蓮は、セレシアを抱えたまま、走っていた。
背後で、再び爆ぜる音。
煙が、通路を満たしていく。
「‥‥‥‥追ってこない?」
マーリンが、不思議そうな顔で言う。
「いや‥‥まだ油断できない」
蓮は、即答した。
「師匠のおかげで追えないだけだ」
次の瞬間。
横の通路から、影が現れる。
「こちらです!」
現れたのは、セシルだった。
「セシルさん!?」
蓮とマーリンは驚いた。
「エルメス様からの指示です」
「立ち止まらないでください」
床に、まきびしを撒きながら、後退する。
「足元に注意を」
「踏んだら、終わりです」
蓮は、一瞬だけ振り返った。
煙の奥。
ぼんやりと見える影。
怒号と混乱。
(セシルの完璧な仕事)
蓮は、低く言った。
「行こう。セレシア」
「‥‥‥ええ」
彼女は、蓮の肩にそっと手を置く。
四人は、煙の中を駆け抜ける。
剣を振るう戦いではない。
魔法を撃ち合う戦争でもない。
だがーー
これも、紛れもない戦いだった。
命を守るための、
最も現実的で、最も美しい撤退戦。
煙が晴れた時、
そこに残っていたのはーー
転倒したバルカス私兵だけであった。
こうして闇オークションの夜は、終わった。




