値札の消えた瞬間
木槌の余韻が、まだ会場に残っている。
だが、空気はまだ緩んでいなかった。
拍手も、歓声もない。
あるのは、値踏みする視線と、計算する沈黙。
「ーー落札者は、こちらへ」
司会者の声に促され、
黒衣の係員が、エルメスの前に立つ。
「代金の確認と、引き渡し手続きを行う」
それだけ告げると、踵を返した。
(終わった‥‥‥わけじゃない)
蓮は、自然と周囲を見回す。
まだ誰も席を立たない。
いやーー立てないのだ。
五十万の白金貨。
この場にいる誰よりも高い札を上げた男。
それは同時に、
最も狙われる存在になったことを意味している。
「気を抜くな」
エルメスが、低く言う。
「ここからが、最も危なくなる」
マーリンが、肩をすくめた。
檻が、再び布で覆われる。
その一瞬。
布越しに、蓮とセレシアの視線がーー合った。
(‥‥‥‥!)
ほんの一瞬。
だが、確かに。
驚きと、そしてーー
わずかな安堵が、その瞳に宿った。
(気づいた‥‥‥‥?)
声は出せない。
合図も送れない。
それでも。
(生きている)
(ちゃんと、ここにいる)
その事実だけで、
蓮の胸の奥が、少しだけ軽くなった。
「行くぞ」
エルメスが歩き出す。
案内されたのは、会場のさらに奥。
観客席とは完全に隔離された、石造の通路。
左右には、無言の警備兵。
数が多い。
そしてーー全員、強い。
(‥‥‥護衛というより、監視だな)
扉の前で、係員が立ち止まる。
エルメスが、静かに言った。
「引き渡しまで、彼女には指一本触れるな」
係員は、仮面の奥で目を細めた。
「当然だ」
「"商品"に傷をつけるほど、我々は安くない」
その言い方が、癇に障ったが
今は耐えるしかない。
重い扉が、軋む音を立てて開く。
中は、小さな控室だった。
簡素だが、清潔。
そして、檻はーーそこに置かれている。
「‥‥‥セレシア」
蓮は、小さく名を呼んだ。
彼女は、ゆっくりと顔を上げる。
金髪が、灯りを反射して揺れた。
目が、合う。
今度は、はっきりと。
(‥‥‥‥あっ‥‥‥)
声は出ない。
だが、唇が確かに、そう動いた。
「無事でよかった」
エルメスが、一歩前に出る。
「確認しよう」
淡々と、事務的に。
「落札品ーー旧王家血統・王族奴隷一名」
「状態、問題なし」
係員が、頷く。
「代金は、確かに受領した」
「引き渡しは、三十分後」
係員が淡々と説明していった。
「その間」
「ここから先の護送ルートは、こちらが指定する」
エルメスが、目を細めた。
「‥‥‥拒否権は?」
「ない」
短い答え。
沈黙。
(やっぱりな)
エルメスは、軽く息を吐いた。
「分かった」
「だがーー」
視線を上げる。
「もし彼女に何かあれば」
「その時は、ただでは済まない」
係員は、答えなかった。
ただ、扉へと向かう。
***
檻の鍵が外れる音は、思ったよりも小さかった。
それでもーー
その音が響いた瞬間、蓮の胸は強く締め付けられた。
「‥‥‥終わった」
エルメスが、短く言う。
黒衣の係員たちが無言で手順を進め、
魔力封印を一つずつ解除していく。
最後の術式が消えた瞬間ーー
檻の中の少女が、静かに顔を上げた。
金髪が揺れる。
その瞳が、まっすぐこちらを捉えた。
「‥‥あなたは‥‥」
かすれた声。
だが、はっきりと名前を呼んだ。
「‥‥‥セレシア」
蓮は、思わず一歩前に出ていた。
檻の中と外。
ほんの数歩の距離なのに、やけに遠く感じる。
セレシアの手首には鎖の痕が残っている。
「大丈夫だ」
エルメスが、落ち着いた声で言う。
「もう商品じゃない」
係員が一礼し、退く。
蓮が手を差し出すと、
セレシアは一瞬だけ迷いーー
それから、その手を取った。
檻を出た彼女は、足元がふらつく。
すぐに、蓮が支えた。
「‥‥‥無事で、よかった」
それだけで、声が震えた。
セレシアは、驚いたように蓮を見て、
それから、ほんのわずかに微笑んだ。
「‥‥‥迎えに、来てくれたのね」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
マーリンが、気まずそうに咳払いをした。
「マスター‥‥‥感動の再会は後。
ここ、まだ敵国のど真ん中」
その通りだった。
エルメスはすでに周囲を見渡している。
視線は鋭く、警戒を解いていない。
「馬車へ」
「地下都市を抜けたら、合流地点へ向かう」
護送は静かに進んだ。
裏通路。
検問を避けるための古い回路。
誰もが無言で、足音だけが響く。
だがーー
地下都市を抜け、地上へ続く中継区画に出た瞬間。
エルメスの足が、止まった。
「‥‥‥‥来る」
その一言と同時だった。
前方の通路に、影が落ちる。
次々と現れる人影。
数はーー。十人以上
揃いの外套。
精緻な装飾。
そして、隠しきれない魔道具の気配。
「バルカスの‥‥‥貴族私兵か」
マーリンが、低く呟き
警戒する。
「赤‥‥‥。」
その中央から、一人の男が進み出た。
年配。
だが姿勢は正しく、目は冷たい。
「これはこれは」
「異国の商人殿」
にこやかな声をは裏腹に、
通路の出口は、すでに塞がれている。
「闇市で、随分と派手な買い物をされたそうだな」
男の視線が、セレシアに向く。
値踏みするように。
所有物を見るように。
「その"品"は」
「本来、我が国で管理されるべきものだ」
エルメスは、一歩前に出た。
「正式に落札した」
「文句があるなら、主催者に言え」
男は、肩をすくめる。
「残念ながら」
「ここはもう、闇市の管轄外でね」
その瞬間ーー
私兵たちが、一斉に武器を構えた。
魔導灯が灯り、
通路が戦場に変わる。
「奪う気、満々だね」
マーリンが、小さく笑う。
蓮は、無意識にセレシアを背に庇った。
彼女は、蓮の背中越しに状況を見ている。
恐怖はある。
だがーー逃げてはいない。
「‥‥‥私のせい、ね」
「違う」
蓮は、即答した。
エルメスが、低く言う。
「この子は」
「我々の仲間だ」
その声に、迷いはなかった。
男は、嘆息する。
「ならばーー力づくで」
合図。
私兵たちが、踏み込む。
その瞬間ーー
エルメスが、静かに笑った。
「‥‥‥交渉決裂、だな」
マーリンの魔力が、膨れ上がる。
ゴオオオオォォォ。
「じゃ、第二ラウンドだね!マスター」
蓮は、剣の柄を握った。
ーー救出は、終わった。
だが。
本当の戦いは、
ここから始まる。




