バルカス王国
ーーバルカス王国。
その名を聞くだけで、アルトリアの民は無意識に声を潜める。
それは恐怖というより、もっと重く、湿った感情だった。
怒りと諦めと、そして消えない記憶。
バルカスは『力』を信仰する国だ。
法でもなく、血筋でもなく、民意でもない。
剣の腕、魔力の量、軍を動かす力ーー
"勝てる物"だけが王となり、"負けた者"は王であった事実すら歴史から消される。
だから、王の名は残らない。
英雄の名も残らない。
残るのは、ただ「勝者」だけだ。
一方、アルトリア王国はまるで逆だった。
代々この国では、
「アーサー」という名が、英雄の象徴として語り継がれてきた。
それは単なる名前ではない。
剣を振るう者の称号であり、
民を守る者の証であり、
王よりも重い"責任"の名だった。
遥か昔、
この国が滅びかけたとき、
たった一人で敵軍の前に立った英雄がいた。
名を、アーサーといった。
彼は勝ったわけではない。
すべてを救えたわけでもない。
だが、最後まで民を守り、
最後まで剣を捨てなかった。
その姿が、伝説となった。
それ以来、アルトリアでは、
「英雄の名は、血ではなく意思が継ぐ」
そう信じられてきた。
そして現在ーー
その名を正式に受け継いでいるのが、現国王アウレリウス。
かつて戦場に立ち、民を守り抜いた男。
彼自身もまた、アーサーと呼ばれる時代を持つ王だった。
さらに、その長子ーー第一王子レオンハルト。
剣と魔法、どちらにも秀で、
民からも兵からも慕われる存在。
多くの者が言う。
「次にアーサーの名を継ぐのは、レオンハルト殿下だ」と。
そんな国と、
「英雄を許さない国」バルカスが、
長く平和でいられるはずがなかった。
きっかけは小さな国境衝突だった。
だが、互いの国がそれを"大義"に変えた。
アルトリアは言った。
「民を守るために剣を取る」と。
バルカスは言った。
「弱い国を叩くのは、強者の義務だ」と。
その裏で、
国境の村は焼かれ、
交易路が断たれ、
名もない人々が消えていった。
最近になって、さらに不穏な噂が広がり始めていた。
「バルカスが密かに兵を集めている」
「正規軍とは別の影の軍が動いている」
「人とも魔物ともつかぬ兵が目撃された」
そして、その噂と共に、
ひとりの怪しい男の存在が囁かれるようになった。
名は知られていない。
顔も定まっていない。
ただ、黒い外套を纏い、
どこの国にも属さぬように振る舞う男。
だが、彼の立ち寄った場所では、
必ず"火種"が生まれた。
貴族が争い、
兵が暴れ、
民が疑い合い、
そして国が弱る。
ーーそして、その男は、
いつの間にかアルトリア王城にも姿を現していた。
場所は、人目につかぬ回廊。
夜の帳が落ち、
松明の光だけが揺れる、静かな場所。
そこに立っていたのは、第二王子。
兄レオンハルトとは違い、
人前に立つことを好まず、
常に影のように振る舞う男。
怪しい男は、深く頭を下げた。
「時が、きます」
第二王子は、細い目で男を見る。
「‥‥‥何の時だ」
「この国が、あなたのものになる時です」
第二王子の唇が、わずかに歪んだ。
「冗談はよせ」
「いいえ。事実です。
あなたこそが、この国の"本当の英雄"なのですから」
静寂。
松明の火が、ぱち、と音を立てた。
「本当に俺が‥‥この国の王に?なれるのか」
怪しい男は、口元だけで笑った。
「では、そのための"力"をーー
バルカスが、ご用意しましょう」
その夜、誰にも知られぬまま、
アルトリアとバルカス、
二つの国の運命は、
静かに、ただ確実に、狂い始めていた。
***
夜。
城の回廊。
兵も侍女も下がらせた、兄弟だけの空間。
第一王子レオンハルトが先に口を開く。
「最近‥‥‥妙な噂を聞いた」
第二王子は足を止めず、興味なさげに言う。
「噂?民の暇つぶしだろう」
「"黒い外套の男"だ。
城の裏門、南の塔、倉庫街‥‥
お前の動線と、よく重なっている」
第二王子は、ようやく立ち止まった。
「‥‥‥俺を疑っているのか?」
「疑いたくはない。
だが、国のために見過ごすわけにもいかない」
沈黙。
風が、廊下を抜ける。
第二王子は、ゆっくりと振り返り、笑った。
「兄上は、何でも"国のため"だな」
「それが王族だからだ」
「違うな」
第二王子は、低い声で言う。
「兄上は"選ばれた人間"だからだ。
剣も、民の支持も、英雄の名もーー
最初から、全部持っている」
レオンハルトは、静かに言う。
「それでも、お前は俺の弟だ」
「‥‥‥その言い方が、俺は嫌いなんだ」
第二王子の目に、一瞬だけ、濁った光が走る。
「安心しろ。
俺は、何も企んでいない」
「だが、怪しい男と接触していると聞いた」
第二王子は、肩をすくめる。
「ただの商人だ。
兄上が疑うほどの男じゃない」
レオンハルトは、じっと弟を見る。
「もし、お前が国を裏切るならーー
俺は、兄としてではなく、王族として、お前を止める」
第二王子は、笑ったまま言った。
「その時は‥‥‥
兄上が"本物の英雄"かどうか、試させてもらうさ」
二人は、何も言うわずにすれ違う。
その背中に、互いに"疑念"だけを残して。




