交渉
張り詰めた空気の中で、
蓮は一歩、前に出た。
大声を出す必要はなかった。
むしろーー静かな声の方が、よく通る。
「キモール・バルティエ男爵」
名を呼ばれ、男爵の視線がこちらを向く。
「‥‥‥‥なんだ、さっきのガキか」
「はい。
先ほど"通りすがりの奴隷商人"と名乗りましたが」
蓮は一礼した。
「訂正します。
私はーーこの件の調停役として話をしにきました」
一瞬、場が静まる。
次の瞬間。
「はっ!」
キモールが嘲笑した。
「調停?貴様が?」
「見たところ。
剣も持っていない。
魔力も感じない」
「その身なりで、
この私と"話し合う"つもりか?」
周囲の使用人が、ひくりと肩を震わせる。
だが蓮は、目を逸らさなかった。
「ええ。
戦うつもりはありません」
「なぜなら」
淡々と続ける。
「この場で力を振るえば、
一番困るのは男爵ご自身だからです」
空気が、ぴしりと凍った。
「‥‥‥‥なんだと?」
「監査官が来ている。
門前でこれだけ騒ぎになっている」
「ここで一人でも怪我人が出れば、
この件は"正式案件"になります」
「そうなれば‥‥」
蓮は視線を、役人たちに一瞬だけ向けた。
「"事故"では済まない」
キモールのこめかみに、青筋が浮かぶ。
「貴様‥‥‥‥
私を脅しているのか?」
「いいえ」
即答だった。
「選択肢を提示しているだけです」
ざわ、と周囲がざわめく。
「このまま監査を受けるか」
「それとも」
蓮は、ゆっくりと言葉を区切った。
「"問題を解決した"という形を取るか」
キモールは、じっと蓮を睨みつける。
数秒。
沈黙。
やがて、低い声で言った。
「‥‥‥‥続けろ」
(ーー通った)
蓮は内心で息を吐いた。
「ありがとうございます」
「では、単刀直入にいいます」
蓮ははっきりと言った。
「この件、
私が引き受けます」
「経路不正の是正
登録の再確認
監査への報告書作成」
「すべて、
"第三者"として処理します」
「その代わり」
蓮は、まっすぐに男爵を見据えた。
「男爵は、
この場で一切の"発言権を放棄"してください」
「ーーなに?」
「怒鳴らず
脅さず
命令もしない」
「"黙って結果を受け取る"」
「それが条件です」
再び、沈黙。
キモールは、しばらく蓮見下ろしていたがーー
やがて、口の端を歪めた。
「‥‥‥‥面白い」
「ガキの分際で、
私に条件を突きつけるか」
だが、その目は笑っていなかった。
「いいだろう」
「やってみせろ」
「失敗したらーー」
「その時は」
蓮は、静かに答えた。
「私の責任です」
キモールが、嘲笑った。
「言ったな」
その瞬間。
後方で、エルメスが小さく呟いた。
「ここからだぞ‥‥‥蓮。」
再び沈黙が続く
しかし、沈黙を破ったのは、
キモール・バルティオ男爵の低い笑い声だった。
「‥‥‥‥はは」
「ははははははっ!!」
突然の大笑いに、場がざわつく。
「面白い!
実に面白いぞ、小僧!」
キモールは一歩、前に出た。
その巨体と圧で、空気が押し潰される。
「第三者?
調停役?」
「貴様、
自分が誰に話しかけているか分かっているのか?」
男爵は、自らの指で叩いた。
「私は"貴族"だ。
この地の支配者だ」
「契約だの監査だの、
そんなものはーー」
吐き捨てるように言う。
「私が認めなければ、意味を持たん」
役人の一人が口を開こうとするが、
「黙れ」
その一言で封じられた。
「ガキ」
キモールの視線が、蓮に突き刺さる。
「お前は、
私に"黙れ"と言った」
「つまりーー」
口角が、歪む。
「この私を
命令で従わせようとしたわかだ」
「それがどういう意味か、
分かっているのか?」
周囲の空気が、一気に冷えた。
「私は今すぐ、
お前を不敬罪で拘束させることもできる」
「監査?是正?」
「笑わせるな!」
キモールは、蓮のすぐ目の前まで歩み寄る。
「交渉というのはな、
対等な立場でやるものだ」
「お前と私は"対等"ではない」
低い声で、断じる。
「資格がない」
「身分がない」
「後ろ盾もない」
「そんな小僧が、
この私に条件を出す?」
「勘違いするな」
キモールは、ゆっくりと腕を広げた。
この場で
一番選択肢を持っているのはーー」
「"私だ"」
一瞬、男爵の視線が
蓮の後ろーーマーリンに向いた。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
「‥‥‥‥ほう」
小さく、鼻で笑う。
「連れのエルフか」
「ずいぶんと
"商品価値がありそうな"顔をしているな」
空気が、さらに重くなる。
「覚えておけ」
キモールは蓮に告げた。
「交渉とは、
相手に"失うもの"を突きつける行為だ」
「だがーー」
「お前には、
差し出せるものが何一つない」
「それでも
まだ続ける気か?」
完全に、圧で潰しに来ていた。
ーーここまでだ。
蓮が完全に追い詰められていた。
完全に場を制圧したつもりのキモール男爵。
その前で、蓮はーー動けなかった。
逃げない。
視線を逸らさない。
数秒の沈黙のあと、
蓮は静かに口を開いた。
「‥‥‥‥おっしゃる通りです」
その一言に、周囲はざわめく。
「私は貴族じゃありません。
身分も、後ろ盾もない」
「そしてーー」
一拍、置く。
「交渉の場に立つ資格も、本来はありません」
キモールが、鼻で笑う。
「分かっているならーー」
「ですが」
蓮は、言葉を切った。
「"この場"には
もう一つの資格が存在します」
「‥‥‥‥なんだと?」
「それはーー」
蓮は、役人たちの方を見た。
「契約の当事者に影響を与えられる立場です」
「監査官」
名指しされた役人が、思わず背筋を伸ばす。
「今回の件。
"誰が悪いか"ではなく」
「"どこで、何が、どう違反したか"
それを確認しに来たのですよね?」
「あぁ‥‥‥‥その通りだ」
役人は、慎重に答えた。
キモールの眉が、ぴくりと動く。
「では、確認します」
蓮は、淡々と続けた。
「問題の奴隷は‥‥高位登録予定個体」
「しかし、取引経路は‥‥‥
"低級奴隷商"を経由している」
「これはーー」
蓮は、はっきりと言った。
「"登録階級不整合"です」
役人たちが、ざわつく。
「登録階級不整合は
"故意"でなくとも」
「是正義務が発生する」
「そして」
蓮は、キモールを見た。
「是正を怠れば、
責任は"最終所有者"に帰属する」
沈黙。
「‥‥‥‥つまり?」
キモールが、低く問う。
「つまり、男爵」
蓮は、頭を下げない。
ただ、事実を述べる。
「このまま監査が進めば」
「違反者はーー
"あなた"です」
場が、凍りついた。
「だが!」
キモールが声を荒げる。
「私は騙された側だ!!」
「ええ」
即答だった。
「ですから」
蓮は、静かに"逃げ道"を置いた。
「第三者による是正が必要なんです」
「私は、
その第三者を名乗りました」
「私が、
取引経路を整理し
再登録を行い」
「監査には"是正済み"として報告する」
「そうすれば」
蓮は、はっきり言う。
「男爵は
"被害者"の立場で終われます」
キモールは、言葉を失っていた。
「ですがーー」
最後の一押し。
「ここで私を排除すれば‥‥」
「監査は続行」
「結果はーー
男爵の望む形にはならない」
沈黙が、数秒続いた。
やがて。
「‥‥‥小僧」
キモールが、低く呟く。
「貴様」
「最初から、
私を"守る話"をしに来たのか」
「はい、そうです‥‥」
「それが最も"安く済む"選択だからです」
長い沈黙の末。
キモールは、ゆっくりと息を吐いた。
「‥‥‥‥いいだろう」
「条件を呑む」
「好きに是正しろ」
勝敗は、決した。
後方で。
「‥‥‥やれやれ」
エルメスが、小さく笑った。
「面倒な仕事、
完璧に片付けてくれたね」
その視線は、
もう"見習い"を見るものではなかった。
ーー試練、突破。




